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「軍が強くなければ……」ミャンマー国軍、鉄壁の信念はどこから

揺れる世界 日本の針路
2011年の民主化以降、街角に掲げられていた軍政のスローガンの看板も撤去され始めていたが、一部ではそのままにされていた=2015年2月、ミャンマー中部・マグウェ地域で、宇田有三さん撮影。宇田さんは「皮肉なことに、写真にある〈国軍(tatmadaw)が強力な時だけが、国も強くなる〉というスローガンが今また、再利用されるとは思いもよらなかった」と語る

――1日のクーデター発生後、どうやって情報を集めていますか。

ミャンマーの国営紙を読み込むほか、ヤンゴンにいるミャンマー人の報道関係者や日本人、日本のNGOや在日ミャンマー人らと連絡を取り合っている。

日本のミャンマー専門家たちと意見交換しているが、1988年に起きたデモと今回の抗議活動を比較すると、我々が考えるべき様々な問題点が浮かび上がってくると指摘する人もいる。

――88年と比べて、市民の動きに変化があるのでしょうか。

88年のデモを「モノクロ写真」とすれば、今回は「カラー写真」だ。

88年のデモは、経済的な困窮が動機だった。当時の写真や映像を見ると、人々は伝統的な民族衣装のロンジー(巻きスカート)姿で街を行進し、「民主主義を」「(独裁者の)ネウィン打倒」と叫んでいた。

今回も「民主主義を」というシュプレヒコールもあるが、パレードと見間違えるような華やかな抗議活動だ。参加者は性的少数者を示すLGBTを唱えて、シンボルのレインボーフラッグを掲げたり、黒い風船を持って「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」をアピールしたりもする。米国や香港、タイで見られる抗議の行進スタイルに近い。

1988年のデモが収まってから5年後のヤンゴン(当時の首都)には、今ある高架橋や高層建築物が見られず、道行く人のほとんどがロンジー(巻きスカート)を身につけていた=1993年8月、アウンサン将軍道路とパンソーダン通りの交差点で、宇田有三さん撮影

これは、2011年の民政移管後に自由を謳歌していた比較的若い世代が、運動の中心にいるからだろう。世界の流れをよく知っているから、共通の人権問題をアピールして、国際社会の関心をつなぎとめようとしているように見える。

――軍の方は昔から変わっていませんか。

「軍が必ず政治に関与する」という主張は全く変わっていない。軍は民政移管後も「disciplined democracy(規律ある民主主義)」を一貫して唱えてきた。これは、選挙だけが民主主義の根幹ではなく、軍の関与が必要不可欠だという意味だ。日本や米国の議会制民主主義を念頭に置くと見誤ってしまう。土俵(ルール)が違うのだ。

2月9日の国営紙は、ミャンマー軍トップのミンアウンフライン総司令官がクーデター以降、初めて国民に呼びかけた発言を掲載した。総司令官は冒頭で「国軍は、国家の政治に断固として主導的な役割を果たす」と語った。やはり、この主張に変化はないということだ。軍は自分たちの主張を決して譲らないだろう。

一方、私たちは過去、ミャンマー軍の主張について誤解したこともあった。軍は1962年に起こしたクーデターの後の国づくりの際、「ビルマ式社会主義」を唱えた。ビルマ(当時)の事情に通じていない多くの人は当時、「社会主義」という言葉に着目したが、軍は反共主義者だと言う事実を知らなかった。「ビルマ式」の方に大きな意味があった。

――デモは広範囲で広がっているようです。このまま、市民が勝利することはないのでしょうか。

今は、ITに強い若者たち(通称「ジェネレーションZ」)が主導する形で、市民がSNSでつながっており、「運動の中心」がないことが幸いしている。デモをしていて、軍が鎮圧にかけつけると、すぐに別の場所でデモが始まる。

ITに強い少数民族カヤー人の知人が10日、「東部カヤー州で政府に抗議の声を上げる警官のデモの様子を、市民がスマホで中継している」という情報を即座に送ってくれた。デモ隊が放水で鎮圧されそうになったところ、一部の警官がデモ隊の側に加わった動画のページがあることも教えてくれた。

若い人々はSNSの扱い方に慣れているうえ、民政移管前の暗い軍政時代の経験が少ないから、軍の暴力の本当の怖さを知らないようだ。軍がフェイスブックのサービスを止めようとすると、すぐに別のSNSに切り替える。軍もインターネットを完全に遮断すると、軍とつながった政商が黙っていないため、対応が後手に回っている。

ただ、11日くらいから、軍が中国からIT専門家や機材の支援を受け、本格的にSNSの規制に乗り出すという情報が流れ始めた。軍は自分たちのメンツもあるから、絶対に引かないだろう。88年のデモは3月から8月ごろまで続いたが、結局は鎮圧された。市民たちは今は猛烈に怒っているが、対立が長期になれば市民に不利だろう。

ミャンマー国軍によるクーデターに抗議する市民デモ(通称CDM:市民的不服従運動)が広がるなか、「インターネットが遮断」というフェイクニュースが流れたが、それを否定する指摘がすぐにSNS上で検証された広められた=宇田有三さん提供

――軍と市民との間で話し合いによる解決を探れないのでしょうか。

まず、軍がどんな状況にあり、誰が何を望んでいるのかを知る必要がある。

2月3日の国営紙の写真を見ると、クーデターの翌日、高僧に供物を捧げるミンアウンフライン総司令官は防弾チョッキを着用しているようにも見えた。軍の内部での反乱を懸念していたと推測している。

また、ミャンマー軍は「軍隊」というよりも、半世紀にわたって立法・行政・司法を支配していた「武力を持った官僚組織」と捉える方がいいのではないか。つまり、ミャンマー軍を見る際、組織の人事と予算がどのようになっているのか検証しないと、軍の内部で誰が力を持っていて、何を求めているのかが浮かび上がってこない。

国軍がクーデターを起こした翌日、ミンアウンフライン総司令官が高僧の元を訪れた写真が国営紙に掲載された。司令官の姿を見ると胸と背中が異様に膨らんでいる。宇田有三さんは「防弾チョッキを着けているのではないかと推測した」と語る=2021年2月3日付のミャンマー国営英字新聞 『THE NEW LIGHT OF MYANMAR(ザ・ニューライト・オブ・ミャンマー)』から

→2011年に始まった民主化の時期は今や、10年の時を経て「軍事政権下のスー
チー内閣」として幕を閉じかけているといってもいいのではないか。

ミンアウンフライン総司令官は本来、今年7月で定年になるはずだった。彼が本当の独裁者になるのかどうかは、まだわからない。軍が国際社会の介入を嫌っていることと、人権や選挙を重視する民主主義を目指していないことだけは間違いないと思うが、軍の今後の行動については慎重に予測した方が良い。

――アウンサンスーチーさんの消息もよくわかっていません。

いまだ自宅軟禁状態で公の場に姿を見せていない。2月16日以降、非公開の場
で、裁判官がビデオ形式で審理を進めていると伝わっている。

スーチー氏は従来、軍に対し、一貫して対話を呼びかけていた。西側の一部に「スーチーさんは頑固だ」という評価がある。もちろんそういう見方も可能だ。しかし、対話を拒み続ける軍側に対して、諦めずに働きかける一貫した姿勢は頑固者でなければできない。スーチー氏は今回も必ず、軍に対話を求めているはずだ。

軍は今は、自分たちの組織を整えることで精いっぱいのようだ。スイス・ジュネーブにあるミャンマーの国連代表部のホームページもクーデター発生前日の1月31日から、2月21日時点でずっと更新されていない。人権問題について国際社会に発信する最重要拠点の情報を更新できないのは、体制が整っていない証拠だ。軍は88年のように、民主化デモを抑え込めると思っていたところ、予想外に全国に抗議デモが広がり、SNSによってその様子が世界中に発信されてしまったことに戸惑っているのではないか。

軍は体制を整えれば、スーチーさんとの対話には応じる可能性があるかもしれない。でも、どのような対話になるのかは、軍の実情をもう少し把握しない限り、予測は難しい。

2015年2月、ミャンマー(ビルマ)独立の英雄アウンサン将軍の生誕100周年を祝ったこの日、父親の生地であるマグウェ地域ナッマウを訪れたアウンサンスーチー氏。この年の総選挙で国民民主連盟(NLD)は大勝し、この国は本格的な民主化への道を進み始めた=宇田有三さん撮影

――今回、ロヒンギャがスーチーさんの拘束を喜んでいるという報道もありました。

ロヒンギャのなかには、「スーチーさんは自分たちを助けてくれなかった」と声高に非難している人もいる。でも、私が聞く限りで、スーチーさんに反感を持つロヒンギャは、それほど多くはない。バングラデシュ側の難民キャンプで、軍のクーデターに反対の意思表示をしているロヒンギャの姿も確認している。

ロヒンギャの問題は複雑で、簡単には説明できない。ロヒンギャ難民は人道問題であり、「ロヒンギャ難民を助けるべきだ」という結論に至るのは簡単だ。でも、その結論に至るまでには、難民問題を引き起こした複雑なロヒンギャの問題、ロヒンギャの問題を生み出した複雑なミャンマーの問題を順序よく、系統立てて考えなければいけない。

例えば、どうしてロヒンギャ難民の問題が40年以上も解決されなかったのか。スーチー氏はかつて公の場で「ロヒンギャ」という言葉を口にしていたが、今は止めている。それはなぜなのか、という問題を考えてみる必要もある。

さらに「ロヒンギャとは何か」と説明する人の語り口にも注意を払わなければならない。ロヒンギャたちが暮らすのは、ミャンマー本土とアラカン山脈で隔てられた西部ラカイン州北部だ。最大都市ヤンゴンから空路で1時間、簡単にラカイン州入りしても、その実態を把握することは難しい。険しいアラカン山脈を陸路で越え、「ああ、ここは本土とは違った地域なんだ」と体感することで、どうしてその地域でロヒンギャ問題が起こったのかをより深く理解し、問題の本質を伝えることが可能になると思うからだ。

2015年10月、ロヒンギャ問題が発生したラカイン州の位置づけを肌で感じるため、バコー地域(管区)からアラカン山脈を陸路で越えた宇田有三さん

私は09年から10年にかけてと12年の計3回、バングラデシュにあるロヒンギャ難民キャンプを訪れた。15年にはラカイン州内にあるロヒンギャの国内避難民キャンプを訪れた。バングラデシュでは、国連や国際NGOの支援を受けられる公式キャンプと、受けられない非公式キャンプが、わずか幅50センチのよどんだ水路を境にして分かれていた。

非公式キャンプに住むロヒンギャ難民が、公式キャンプの井戸を使おうとして、公式キャンプに立ち入ると、ロヒンギャから暴行を受けるんだ、という説明も受けた。「同じ困った難民同士なのに」と絶句した。そこには人びとの分断があった。

もしかすると、英国の植民地支配に恨みを持つミャンマー軍が主張する「規律ある民主主義」とはある意味、こうしたロヒンギャ難民問題など、暴力と不信、恐怖と分断を生み出す、人間社会の抱える解決の難しい問題を深化させてしまう体制に他ならないのかもしれない。

こうしたミャンマー国軍の実情をよく理解せず、一方的に民主主義を押しつけようとすれば、反発を買うだけで物事は解決しない可能性すらある。

バングラデシュ南東部コックスバザールから乗り合いバスで約1時間、ロヒンギャたちが暮らす難民キャンプ。よどんだ水路を隔てて公式難民キャンプ(右)と非公式難民キャンプが並ぶ=2010年1月、宇田有三さん撮影

――日本は何ができるでしょうか。

88年のデモを経験したミャンマー人は「日本は軍政になびき、何もしてくれなかった。今回は軍を支持しないでほしい」と言っている。日本政府は表面では、欧米と同じように軍を厳しく批判するかもしれないが、実際に問題の解決に向けた実質的な役割を果たせないかも知れない。

今回のクーデターは、民政移管後のミャンマーで、少数民族問題やロヒンギャ問題を抱えながらも、国民が「ある程度の平和」のもと、経済的に上向いた生活をしていこうとした矢先に起きた。ミャンマー国軍は、その軍の硬直した体質ゆえ、問題を抱えながらも粘り強く社会を変えていこうという意思も能力も弱かった、ということだろう。

もちろん、「意思や能力が弱い」という点は、私も含めた日本側のミャンマーに対する取り組みにも当てはまることだと思う。