「選挙イヤー」をしめくくる米大統領選の投票日を翌週に控えた10月28日。北西部オレゴン州とワシントン州で投票箱の火災が起き、投票用紙の一部が焼失した。二つの現場は州境に近く、そう遠くない。両州共に投票は郵便で行われており、民主主義の基盤をゆるがしかねない事件といえる。
オレゴン州の事件現場の選挙を管轄するマルトノマ郡の選挙管理担当ディレクターのティム・スコットさんは、取材に「こんな事件が起きたのは初めて。破損した投票用紙は3枚で、残りは投票箱に備え付けられている消火剤に守られた。3枚とも有権者の名前は読みとれるので、連絡をとって再投票してもらう」と答えた。
今、全米で選挙制度が危機にさらされている。トランプ前大統領は、2020年の大統領選で自らが敗れた際に「選挙が盗まれた」と批判。ニューヨーク大学法学部ブレナン司法センターによると、その後の4年間で、少なくとも30州で78の投票制限法が制定されたという。共和党が強い州から広がってきた。
郵便投票の受付窓口の制限や、投票者の身分証明要件の厳格化、身体の不自由な人や英語が不得意な人への補助の抑制、車に乗ったままで投票できる「ドライブスルー投票」の禁止などだ。貧困層や有色人種が投票しにくくなると指摘されている。選挙の現場はどうなっているのか。オレゴン州とミネソタ州を訪ねた。
大統領選と同時に多くの選挙
オレゴンは2022年、ミネソタは2016、2018、2020年に全米50州で投票率が最高だった。米国は大統領選の年に投票率が高くなり、2020年のミネソタは80%。両州とも、自治体や住民が投票を後押ししている。
実は米国では大統領選と同時に多くの選挙が行われる。州議会や市議会議員、土壌保全区長に学区の教育委員……。犬の捕獲人を選挙で選ぶ自治体もあった。投票用紙は長いリストのようで、米国の民主主義は選挙が基礎なのだと思える。
ミネソタ州にあるハムリン大学の教授デビッド・シュルツさん(選挙法)は、「米国は世界で最も多くの役職を選挙で選ぶ国かもしれない。法律や政策を作る人を決めるのは有権者という考えに基づく」と説明する。
「前回までは1人の候補に投票しましたが、今回の選挙では順位を付けます」。9月28日土曜の午後。米オレゴン州ポートランド市のNPO「Asian Pacific American Network of Oregon」(APANO)の事務所で、スタッフが移民たちに説明していた。大統領選と同じ11月5日に、ポートランド市議会と市長の選挙があるが、今回から投票が「順位付け方式」に変わる。当選してほしい順に候補者に順位を付ける。
ポートランド市にはベトナムや中国などからの移民が多く住む。APANOはアジア太平洋からの移民を支援しており、今回の移民を対象とした説明会も、市から補助金を得て別のNPOと共に開いた。
参加したエン・カイさんは、ミャンマーから2012年に移住。ミャンマーからの移民が多く住む地域の仲間6人で来た。「市民権を得ているのに、自分たちをよそ者のように感じて投票に行かない人も多い。学んで帰って、地域に広めたい」。ポートランド市も英語が得意でない移民でも選挙に参加できるようチラシなどを10カ国語以上で用意し、APANOのようなNPOとも協力する。
地方レベルの投票方法は州で違う。
選挙の実務を担うのは州を分割した郡。ポートランド市の選挙実務を行うのは主にマルトノマ郡だ。オレゴンは全米でもいち早く1993年から全州で郵便投票を実施し、投票所はない。有権者は、郵便ポストか選挙期間が来ると設置される投票用ポストに投函(とうかん)する。
米国では人々は投票する前に登録が必要だが、オレゴンでは登録と投票の時に直筆でサインする。サインを照合し不正を防ぐ。選挙管理担当のディレクター、トム・スコットさんは「私たちは高い投票率を支えていることに誇りを持っています。軍の関係者など在外関係者の連絡先を把握することから準備は始まります」という。ムルトノマ郡には8市あり、下院の選挙区は三つ。「それぞれに選挙は違います。郡内で数百の選挙を行うこともあります」
投票を促す仕掛け
ミネソタでも、NPOなど草の根で選挙や民主主義を支える活動が盛んだ。
ベセニー・ホワイトヘッドさん(49)は、主権者教育や、選挙区の見直しなどの活動を行うNPO「League of Women Voters Minnesota」(LWVM)の活動に携わる。もともと女性の参政権を獲得するためにできたNPOだが、今では無党派で選挙にまつわる民主主義の促進のため活動している。
ミネソタでは2023年、有罪判決を受けて刑務所に入った人も、刑期を終え、あるいは仮釈放されれば投票できるようになった。ホワイトヘッドは弁護士への相談会などに出かけ知らせている。「泣いて喜ぶ人もいます。とてもやりがいがあります」
マイヤー・バックニーさん(27)は、ミネアポリスから1時間ほど車で行った人口1万6000人あまりのレッドウィング市に住む。州中心部にあるミネソタ大を出た後故郷に戻り、都市計画の仕事をしている。LWVMと共に市議選と市長選の候補者の討論会を開いた。
「レッドウィングは高齢化が進んでいるのに住民はあまり危機感を抱いていない。自分の仕事は都市の未来を考えること。地域の未来を考えたいと討論会を企画した」。討論会には100人あまりが訪れ、市内に立地する原発などについて意見を交わした。「今、地方のニュースメディアが衰えフェイクニュースがはびこっている。直接候補者の意見が聞ける機会は本当に大事だと思う」
州の選挙制度の責任者は州務長官だ。ミネソタ州務長官のスティーブ・サイモンさんは、前職の州議会議員の時代から、「投票の自由を守る」をライフワークとしてきた。「私の父はパーキンソン病でした。毎回選挙に行くことを楽しみにしていたのに、身体が不自由になり、投票所に行くのが難しくなりました。投票したいという有権者の思いは尊重されるべきです」
長官として、運転免許証の更新で投票のための登録を可能にし、ドライブスルー投票も実現させた。18歳からの投票権取得を前に、16、17歳での「事前登録」も可能にした。「最初の投票はとても大事です。早めに登録すれば初投票を待ち、その後も投票し続けるのでは」
選挙では民間人が選挙立会人を務める。全米である制度だが、ミネソタで選挙権を得る前の16歳から立会人になれる。
アンナ・コナーさんはミネアポリス市に住む17歳の女子高校生。今年の予備選挙(ミネソタ州では政党の予備選も州が行う)で立会人を務め、11月の選挙でもする予定だ。「両親が家でよく政治の話をしていて、民主主義を支える仕組みについて知りたかったし、近所のお姉さんもやっておもしろかったというので…。勉強になりました」。
3、4時間の研修を受けて「本番」へ。「知人が投票に来て、え!高校生も立会人になれるの?って驚かれました」。研修を含めて謝礼が支払われたが「どこかに寄付するつもり」。
ハムリン大学教授のシュルツは、ミネソタの投票率の高さを「投票しやすいから」と言い切る。しかし、ミネソタやオレゴンのような州は少数派だ。選挙を通じての民主主義の攻防が続いている。