宝くじは現在、各国で厳しい規制の中で実施されている。それはかつて、規制のない富くじが経済を混乱に陥れた歴史の教訓からだ。
最も有名なのが、株式会社制度が普及し始めた18世紀初めの英国で起きた「南海泡沫(ほうまつ)事件」だ。国王が非常に還元率の高い富くじを出して、その利益で「南海会社」というものが設立・運営された。南海会社の富くじは爆発的に売れ、株価が急騰した。
営利企業が富くじを出せば、実体がなくても高利益率になり株価が上がる。結果として南海会社をまねて富くじを乱発する泡沫会社がたくさん生まれ、国民もまともに働くより富くじをやった方がいいとなって、社会は大変な混乱をきたした。
このため、英国では株式会社の設立自体を事実上禁止する措置がとられ、近代資本主義株式会社制度の普及が1世紀遅れたといわれている。
一方、近年の経済学では「宝くじは社会的弱者に対する課税である」という見方がある。
年末ジャンボで1等が当たる確率は2000万分の1。前後賞を入れても600万分の1ぐらいだ。冷静に計算すれば、当たる可能性はほぼない。公益性を持たせて宝くじの収益で社会福祉などを回していると言えば聞こえはいいが、期待を込めて買っている人々の経済状況に鑑みるにつけても、現代社会にとって必要なものか疑わしいという議論がある。
宝くじを模した実験で、確率について重要なことが分かった。例えば「1%の確率で当たる」というのを、人間は主観的には「10人に1人ぐらいは当たるのではないか」と誤解する。一方で「99%安全」と言われたときには、残り1%の心配を非常に重く受け止めて、その1%を引き当ててしまう可能性が心にのしかかる。
研究上、私たちは1%と0.1%を脳の中で区別できないことが分かっている。脳が想像できないことは正しく評価できないのだ。私たちの脳は、ごく小さな確率を実際より大きく感じる。宝くじに当たる確率も、実際よりずっと大きく感じてしまうのだ。
ただ、脳の特性は後天的に変えられる。教育が非常に大切な理由だ。
日本では宝くじの売り上げが減っているそうだが、私たちは自分の収入に対して何にいくら使うかを、心の中で計算している。ある時代までは、年末に600万分の1ぐらいの夢を見ようかという国民文化があった。それが生活が苦しくなっていく中で、宝くじに割いていた部分が消えていったのだろう。
国際比較で、日本は成功を金銭面で測る傾向が高いことで知られていた。それがこの10年ほどで大きく変わったという研究がある。宝くじは利己的で、昭和的な価値規範の幸せを追い求めていた時代にはみんなが「当たるといいな」と思って買っていた。そうした金銭的な部分の比重が低下し、精神的な充足感をより重んじるという変化が、若い世代を中心に急激に起きているというのだ。
クラウドファンディングや投資行動でも、自分がお金を払うならば、願わくは社会にとってよきこと、誰かの、何かの役に立てることに使いたい、という傾向がある。利他的なのだ。世界の潮流に合わせて、宝くじがどんどん売れるようにすることが果たして正しいのか、考える必要がある。