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デパートに並ぶ高級ネギ、売り上げが奨学金に 日系ブラジル人経営者の思いは

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
自社ブランドの「葱王」を抱え、畑の中に立つ=埼玉県上里町、諫山卓弥撮影

■親の祖国、自分のルーツを見たくて

年間数億円に上る売り上げの一部は、日系ブラジル人の子どもの大学進学のために設立した奨学金制度の財源となる。入学金と4年間の学費を全額支給し、返済は不要だ。今春、2人が「ネギの奨学金」を利用して、初めて日本の大学に進学した。「子どもたちに、将来の可能性を広げて欲しい」

両親は戦後、ブラジル南部パラナ州に渡った移民。8人きょうだいの末っ子だった斎藤に転機が訪れたのは1990年、22歳の時だ。日本で改正出入国管理法が施行され、日系3世までの就労が認められた。地元の高校で体育教師をしていた斎藤は、日系3世の妻・富子(47)を伴い渡日する。「デカセギだったけど、親の祖国を見たかった。自分のルーツだから」

当時、日系ブラジル人の多くが、仲介業者を通じて仕事を見つけていた。斎藤も、岐阜県や埼玉県の自動車部品工場などで働いた。残業が110時間を超える月もあった。日本語が比較的うまく、面倒見のいい斎藤はしばしば就職面接の通訳を頼まれた。ある日、訪問先の社長から言われた。「みんなに頼りにされているし、これをビジネスにしたら?」

妻とがむしゃらに働いて元手を稼ぎ、27歳で会社を設立。日系人を雇い、自動車部品の工場に派遣するビジネスを始めた。社長自ら弁当工場で働きながら、営業に行く日々が続いた。

当時、子持ちの日系人は敬遠されがちだった。子どもを預けられる場所があれば、親も安心して働ける。そう考えた斎藤は97年、日系人がポルトガル語で世話する保育室を会社の中に設けた。安価な労働力と社長の面倒見の良さが評判を呼び、取引先は25社に、派遣社員も450人に増えた。

 ■借金3億円、よぎった自殺

しかし、落とし穴が待っていた。2008年のリーマン・ショック。受注は激減し、派遣社員は80人まで減った。3億円の借金が残された。日本の生活習慣になじめない日系人社員のために建てたアパートの建設費だった。毎月の返済額は300万円以上。頭が真っ白になった。自分が死ねば、保険金で借金が払えるだろうか。自殺では保険金は下りないか─。そこまで追い詰められた。でも、妻や3人の子どもを残しては死ねない。残った社員の家族も含めたら、240人近くの人生が、自分の肩にかかっていた。「逃げちゃいけない。まだ、やることはあるんじゃないか」

税金が払えないと相談するため、上里町役場に車を走らせる途中、農地が目についた。荒れ果てていた。「なぜ、土地を大切にしないんだろう」。役場で、後継者がなく放置された農地が増えていると聞かされた。「これだ!と頭の中でランプがついた」

買ったばかりの1600万円の高級車を800万円で売り、その金でトラクターなど農機具を買いそろえた。銀行の担当者を呼び、このままでは返済が厳しいと正直に伝えると、期限を5年延ばし、その間、利子だけを払えばいいと言ってくれた。これまで返済に遅れがないこと、実情を早めに相談し、人目を気にせず古い軽自動車に乗り換えたことを、銀行は評価してくれた。

「これからは農業だ」。斎藤は社員たちに訴えた。給料は払えない。従業員ではなく、パートナーとしてやってほしい。売り上げは平等に分ける──。8人が手を挙げてくれた。

ネギの加工場に立つ=埼玉県上里町、諫山卓弥撮影

問題は農地だった。「土地を貸して欲しい」と農家を訪ね歩いたが、「外国人には貸せない」と断られた。そんな時、ひとつの荒れ地が目にとまった。使用していた植木屋が倒産し、桜や桃の木々が伸び放題だった。地主と粘り強く交渉した。雪かきや祭りなどで地域と交わってきた斎藤に、地元の有力者たちも力添えしてくれた。2千平方㍍の土地を借りることができた。

斎藤を含め、ほとんどが農業の素人。手作業で木々を切り倒し、地中深く食い込む根っこを掘り起こす。「祖先がブラジルで開墾したのと同じことを、自分たちが日本でやっている」と思った。農地にするのに3カ月かかった。不要になったビニールハウスを譲り受け、キャベツやブロッコリーを植えた。しかし、11100円の値がつく時もあれば、箱代にさえならないこともあった。安定した野菜でないと商売にならない。「長ネギでいこう」と決めた。

■初出荷は1箱800円

長ネギの栽培方法をインターネットの動画で探したが、その土地ならではの「技」は分からない。地元の農家の男性に相談すると、一から教えてくれた。化学肥料を減らし、土にサンゴやミネラル酵素、納豆菌を配合した肥料を入れるなど、いい土作りにこだわった。他の農家も、斎藤たちの熱心な姿を見て、「いいネギだね」と褒めてくれるようになった。

ネギの加工場に立つ=埼玉県上里町、諫山卓弥撮影

ネギ1本を育てるのに1年かかる。初出荷は、15キロで800円。これだけ苦労してこの金額か、と正直がっかりした。でも、諦めなかった。「ねぎ王」(後に葱王に変更)というブランドで商標登録し、展示会に積極的に出品した。味だけでなく、「通常は消費者に届くまで6日ほどかかるけど、葱王は翌日とどく」とアピール。これが奏功し、都内の百貨店や高級スーパーを中心に販路を拡大。67軒の農家から農地を借り、埼玉県内の計25ヘクタールで栽培するまでになった。「『葱』という字には『心』が含まれている。客と生産者の心をつかむネギを作りたい」

■社長譲り、次の目標は「安心して学べる場」

 昨年10月、50歳の誕生日を迎えると、斎藤は同郷でブレーン役の島根茂生(36)にあっさりと社長職を譲ってしまう。息子もいるが、「会社は社長のものじゃない。従業員のものだから」。

島根は、斎藤について「前向きな人。良い時でも浮かれず、もっと良くしたいと改善していく。だから、こちらも常に提案していかないといけない」と話す。

斎藤が新たに情熱を傾けたのは、日系ブラジル人の教育だ。上里町に09年、高校までブラジルのカリキュラムに沿ってポルトガル語で学べる学校「ティー・エス学園」を創設。保育園を含め、ブラジルのほかフィリピンやペルーなど8カ国出身の約100人が通う。「日本の学校になじめず、いじめられたり、中退したりする子どもが少なくない。彼らは親に連れてこられただけで、好きで日本に来たわけではない。安心して学べる場が必要だ」

日系ブラジル人が通う学校「ティー・エス学園」=埼玉県上里町、諫山卓弥撮影

斎藤が理事長を務める「在日ブラジル学校協議会」に加盟するブラジル人学校は26校。定住化が進み、存在意義が問われている。国や自治体の支援を請う経営者が多いなか、斎藤はあえてこう呼びかける。「俺たちはこじきじゃない。くれくれ、じゃなくて日本にどんな恩返しができるかを考えるべきだ」

深刻な保育園不足を見て、3年前、日本人の子どもも受け入れる認可保育園を上里町に設立した。将来、ティー・エス学園のインターナショナルスクール化も見据える。

斎藤は言う。「英語、ポルトガル語、日本語が話せる、世界で暮らせる人を育てる。日本への恩は、将来を担う子どもたちを育てることで返したい」(文中敬称略)

経営する「ティー・エス学園」を訪れた。娘の愛里(左)も通っている=埼玉県上里町、諫山卓弥撮影

 

■Profile

  • 1967 ブラジル・パラナ州で生まれる
  • 1990 ブラジルの州立大学を卒業後、体育教師に。デカセギで来日し、高圧電線のメンテナンスなどの仕事をする
  • 1995 人材派遣会社「有限会社ティー・エス」を設立。その後、日系ブラジル人の派遣社員のため、「七本木レインボー保育室」を設立
  • 2002 「株式会社ティー・エス」に組織変更
  • 2008 リーマン・ショックを機に、キャベツ栽培など農業を本格的に始める
  • 2009 長ネギ栽培をスタート。ブラジル人学校の学校法人「ティー・エス学園」が認可を受ける
  • 2012 農業生産法人「株式会社ティー・エスファーム」設立
  • 2013 ブラジルで「TS ASIA」、タイで「T.S. (THAILAND) CO., LTD.」を設立
  • 2014 ブランドネギ「ねぎ王」として商標登録。後に「葱王」へ変更
  • 2018 日系ブラジル人の子どもの大学進学のため、返済不要の奨学金を出す「ティー・エス財団」を設立

 

■Self―rating sheet 自己評価シート

 斎藤俊男さんは自分のどんな「力」に自信があるのか。8種類の「力」を5段階で評価してもらうと、自信のある点、謙虚に見ている点がくっきり分かれた。

 「決断力」「行動力」は、5と高い評価をつけた。「いちど決めたら必ずやる」という信念で、会社や学校を次々立ち上げてきた。「協調性」も5。人なつこい笑顔で人と交わり、頼りにされる存在に。「簡単に人と仲良くなれる」と斎藤。幼い頃から柔道などで培ってきた体力は4。一方、「集中力」「持続力・忍耐力」「独創性・ひらめき」などは、いずれも3と控えめな評価。「(周りから)変わっていると言われるけど、いたって普通だと思う」

 

■Memo

 マンガとコラボ…「葱王」のパッケージを飾るのは、ブラジルの人気漫画家マウリシオ・デソウザが描く人気キャラクター「オラーシオ」。肉食恐竜ティラノサウルスの子どもなのに菜食主義者で、「なぜ自分は人と違うか」と考えながら母を探して旅する。妻が日系人で、故・手塚治虫とも親交があったデソウザは、日系ブラジル人の子どもが学校でいじめにあったという話に胸を痛め、教育問題に取り組む斎藤と意気投合した。

斎藤の作った「葱王」を手に取るマウリシオ・デソウザと=本人提供

 被災地…東日本大震災の直後、斎藤はコメ3トンを宮城県の被災地に自社バスで運んだ。帰りには、ブラジル大使館の特命で、東北の日系人たちを首都圏へ。これが「家族を守れ“神様のバス”」として民放テレビで放送され、反響を呼んだ。「日本は豊かな国。こういう時じゃないと恩返しできない」と斎藤は言う。

2011年3月の東日本大震災の直後から、宮城県の被災地にコメを運んだ斎藤俊男(中央)=本人提供

文・平山亜理 Ari Hirayama

1969年生まれ。サンパウロ、ロサンゼルス支局などを経て東京社会部

写真・諫山卓弥 Isayama Takuya

1982年生まれ。大阪本社勤務を経て、2014年から東京本社カメラマン。リオデジャネイロ五輪などを取材