小説家にはその一作で知名度を飛躍させた出世作がある。英国読書界に限っていうと、カズオ・イシグロの『日の名残り』、イアン・マキューアンの『贖罪(しょくざい)』など。コルム・トビーンにとってそれは2009年に発表した『ブルックリン』(栩木伸明訳・白水社)だった。同作品は主人公のアイリーシュ役にシアーシャ・ローナンを抜擢(ばってき)して2015年に映画化(題名『ブルックリン』)もされている。
『ブルックリン』は2000年代に読んだ英語小説のうちで最も完成度の高いもののひとつだと、周囲に宣伝してきた。その続編が出るとは驚いた――15年も経ったあとのことだったから。そしてわくわくした――アメリカへ去ったアイリーシュと彼女がアイルランドに「置き去り」にしたジムのその後は、『ブルックリン』ファン皆がひそかに気にかけていた。
著者トビーンは続編を書こうなどとは考えていなかったらしい。だいたい続編というものは新味がなくて卑しいものになりがちだ、というのが彼の持論だった。ところがある日、ふとアイデアが浮かぶ。40代も半ばを過ぎたアイリーシュのもとに、見知らぬ男が敵意をみなぎらせて訪ねてくるというシーン。
「配管工のあんたの旦那はうちに来ていい仕事をしてくれたけれど、よけいなこともしてくれた。おれの妻を孕(はら)ませたんだ。赤ん坊が生まれたらここの戸口に置いていくからな」という趣旨のことを言って男は立ち去る。こんなシーンだけが著者の脳内にぽっと浮かんでこびりつき、追い払うこともできず、それを処理するために新作を書いてしまったと言う。
もちろん前編に位置づけられることになった『ブルックリン』をあらかじめ読んでおいた方が数倍楽しめるだろうし、原作の細部を欠くものの秀作である映画『ブルックリン』を見ておくことで理解は深まるだろう。申しわけないが、本作単独で素晴らしいと言い切れるかどうか、『ブルックリン』を読んでしまっている自分には客観的評価はできない。
逆に両方を読んだ者として、客観的比較は可能だ。上述の物騒なシーンは早くも冒頭2ページ未満で現れ、これが残り全体を導火線とする着火点になる。ここから最終ページへ向けて本作品は、トリックと不意打ち(外因的力)で読者を籠絡(ろうらく)するタイプのミステリーとは異なり、微妙な心理描写と登場人物それぞれの理解のずれ(内因的力)で読者を牽引(けんいん)してゆく。
具体的には、夫の不倫通報に動転するアイリーシュと、イタリア系移民である夫側親族の受け止めの相違(経緯はともあれ赤ちゃんは大歓迎)、25年帰っていなかった故郷アイルランドへの帰国、ひいてはアメリカ暮らしが長い自分の変化(故郷の旧友との対比)、年老いて一人暮らしを続ける母親、そして……あのジム。
著者トビーンの美点である繊細さは、前編よりも本作でより強く発揮されている。前編が相対的に未来を恐れぬ若者群像であったのに比べ、本作には人生の半分以上を終えた人々の、次の一歩が残りの人生を左右しかねぬ切迫感がある。レース編みは明るい背景よりもほの暗い背景に置いてこそ、繊細な「麗糸(レース)」がくっきりと見えるもの。
著者は2作品間に流れた25年を、きちんとアイリーシュの成長に反映させている。本作で交わす彼女の会話には『ブルックリン』にはなかった鋭さがうかがえる。ニューヨーク・タイムズの日曜版を読む、というなにげない行為も1970年代の移民家族の中では稀有(けう)な知的行為であり、ベトナム戦争について義母と討議する姿にも啓(ひら)けた側面が見て取れる。
舞台は前半少しがアメリカで、残りはアイリーシュの里帰り先のアイルランドになる。本書冒頭で火がついた導火線は大西洋を渡っても燃え続け、ページを繰る読者の呼吸は浅くなる。残り数ページでは怖い物見たさの境地へ。だが最終ページで大団円は迎えない。導火線の先に何が結びついているのか、それは読者の解釈に委ねられる。(敬称略)
英国のベストセラー(ハードカバー、フィクション)
2024年7月13日付 The Times紙より
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