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嫌な記憶を消し去れたなら……と願う人へ、英国のベストセラー

Bestsellers 世界の書店から
田辺拓也撮影

あなたと友人とのあいだ、あるいは家族とのあいだに起きた出来事が、以降の友人関係・家族関係、否、以降のあなたの人生を壊してしまった経験のある人は、その出来事を消すか、出来事にまつわる記憶を消すか、いずれかを切に願うだろう。前者だとタイムマシンで過去へゆくSF仕立てにならざるをえないが、『The Binding』の著者ブリジット・コリンズは後者のテクニックを選んだ。ビクトリア朝らしき英国を舞台にし、嫌な記憶を製本(binding)して閉じこめてしまうという秘技を発案した。

主人公は農家の息子エメット。病気がちで農家の後継ぎには向かぬと父親が判断したのか、彼はセレディスという製本家の老婆の家へ徒弟に出される。セレディスの「製本」とは、人々の記憶のなかの、本人ないしは保護者が消してしまいたい部分を本の中へ閉じこめてしまう技術を意味した。こうして製本された者はその記憶を失い、製本された本は書庫深くしまいこまれる。

時間は前後し、エメットが徒弟に出される数年前、彼の妹アルタが近所の裕福な家の息子ルシアンと恋に落ちた。プライドの高いルシアンに好感を持てぬエメットだったが、妹の幸せを祈らぬでもない。だが、この3人の若者のあいだにとりかえしのつかない事件が生じる。

実はエメットの両親は、この事件の記憶を息子の脳から消すべく、セレディスに製本を頼んでいた。だが、記憶を消された(=製本された)エメットは、セレディスが自分の記憶を奪ったことも、それが製本されて彼女の書庫に隠されていることも知らぬまま、彼女のアトリエで働くことになったのである。そして意外なことにルシアンにも忌まわしい記憶があり、それもまた父親の依頼でセレディスの工房で製本され、その書庫に隠されていた。だが、セレディスの急死と共に危機が訪れる。秘密の本がブラックマーケットに流れ始めたのだ。

ジャンルとしてはマジック・リアリズムに属す本書は、長らくベストセラー第1位に君臨しているが、その製本の美しさも売り上げに貢献しているに違いない。「忘れられた本の墓場」をテーマとして書き、日本でも評判になったカルロス・ルイス・サフォンの『風の影』にどこか通じるところもある。

文学賞総なめ、29歳の話題作

Sally Rooney『Normal People』(普通の人たち)は、アイルランドを舞台にした、2011年1月から15年2月までの、マリアンヌとコネルという親友・恋人の4年間の物語である。途中、イタリアやスウェーデンという異国の土地も出てくるが、基本的には2人の故郷、アイルランド西部の田舎町カリックリー(架空の町)と2人が進学したトリニティ・カレッジのある首都ダブリンが交互に舞台となる。

マリアンヌとコネルは同じ高校の同級生だが、コネルの母親ロレーヌはマリアンヌの家の掃除婦として働いている、という関係にある。高校では特に親しくもない2人だったけれど、仕事を終えた母親を車で迎えにいくことを常としていたコネルは、自然とマリアンヌと親しくなる。親しさは肉体関係へと進展する。だが学校では親しげなそぶりを見せぬ2人である。一方、2人は学業優秀で、アイルランドではトップ校とされるトリニティ・カレッジへそろって進学することになった。

ここまでの設定に本作品の胚(はい)がまんべんなく仕込まれていると言っていいだろう。すなわち、社会的ステータスの格差、性的関係の隠蔽(いんぺい)、学業面での上昇志向、へんぴな田舎から首都への上京、そして2人の愛。

ダブリンへ出てきた2人の立場の逆転が、まずは本作品をダイナミックにゆさぶるひねりである。高校時代はスポーツ万能成績優秀だったコネルが、都会的な学生に引け目を感じる一方、地方出身とはいえ富裕層に属していたマリアンヌは自然体でしゃれた世界に溶け込む。2人の友人関係も別々に発展し、同じ町、同じ大学にいながら生息圏がずれてゆく。かかわり合う人々の質も量も変化する。性愛的にもさまざまな相手、形を経験してゆく2人だが、結局はハッピーエンドで終わる。

というふうに結末までさらけだしても構わないと思うのは、本作品が、ストーリーの面白さ以上に、鮮度の高い言葉の用法、切り詰めた文章の快感、拘泥しすぎることなく深刻なテーマを扱う手際(マリアンヌに潜むマゾヒズムの傾向など)、会話の妙など、良質文学の美点をみごとに供えているからだ。そしてとどめは、やはり2人の友情・愛情の美しさだろう。

本作品は29歳の著者の2作目にもかかわらず文学賞総なめで、一昨年はこれで早くもブッカー賞の候補になった。

見知らぬ夫婦からの謎の遺産

Lisa Jewell『The Family Upstairs』(上階の家族)

ロンドン北郊の会社で台所設備の販売営業をしていたリビー。25歳の誕生日を過ぎたある日、彼女に遺産が転がり込む。100万円とか1億円という話ではない。チェルシー地区のチェイニー・ウォーク(超高級住宅通りと思ってください)に立つ10億円相当の屋敷だった。孤児として里親に育てられてきた彼女にとって、これは巨富降臨であると同時に、相続を契機に本当の肉親を捜す格好の手掛かりだった。ところが、遺産相続を担当した弁護士に会ってみたが、遺言を残したのはヘンリーとマルティナという夫婦で、リビーとの血縁はない。さらに奇妙なのは、当時の新聞を検索すると、同夫婦は不審な死を遂げている。それも第三の見知らぬ男と同じ死の床に横たわっていたというのだ。

場面は一転して南仏のニース。ルーシーという中年のホームレス女性が2人の子どもを連れ、一宿一飯の恵みを求めて徘徊している。そんな彼女の携帯電話に「あの子は25歳になった」というメッセージが入る。無一文かつパスポートなどない彼女は、血まみれの事件を犯しつつも旅の手段を整えてロンドンを目指す。

さらに場面は一転し、ヘンリーという男のモノローグ。実はこのヘンリー、上述のヘンリーとマルティナ夫婦が残した息子なのだった。彼はチェイニー・ウォークの屋敷での子ども時代の回想を始める。我々読者としては、ヘンリーのモノローグだけが当該屋敷の恐ろしい歴史を垣間見る材料なのだが、彼の物語はまるでフェデリコ・フェリーニ風の奇怪な話だ。

こうしてリビー、ルーシー、ヘンリーという鍵となる3人の章が交互に提示されてゆくなか、事件の本質はカルト的活動と小児虐待であることが判明してゆく。

460ページという分厚い小説だが、春休みにはうってつけのページターナー。

英国のベストセラー

ペーパーバック、フィクション部門 2月1日付The Times紙より

『』内の書名は邦題(出版社)

1 The Binding

Bridget Collins ブリジット・コリンズ

忌まわしい記憶を「製本」し、日常から消し去る世界。

2  Big Sky

Kate Atkinson ケイト・アトキンソン

引退刑事ジャクソンが、東欧女性の人身売買に切り込む。

3 Blood & Sugar

Laura Shepherd-Robinson ローラ・シェパード・ロビンソン

18世紀のテムズ川で起きた殺人事件。奴隷貿易の秘密を暴く。

4 Knife

Jo Nesbø ジョー・ネスボ

ノルウェー・ミステリー。ハリー・ホーレ・シリーズ第12作。

5 Little Women 『若草物語』(講談社など)

Louisa May Alcott ルイザ・メイ・オルコット

アメリカのピューリタン一家、4人姉妹の物語。

6 The Family Upstairs

Lisa Jewell リサ・ジュエル

誕生日にロンドンの豪邸を相続したリビーだが……。

7 Normal People

Sally Rooney サリー・ルーニー

ダブリンの大学へ進学したマリアンヌとコネルの恋。

8 Where the Crawdads Sing

Dleia Owens デリア・オーウェンズ

ノースカロライナの沼沢地に一人で住む娘の物語。

9 The Last Wish

Andrzej Sapkowski アンドレイ・サプコフスキ

ポーランドのファンタジー。魔法剣士たちの世界。

10 Middle England

Jonathan Coe ジョナサン・コー

イングランド中部とロンドン、2010年代の世相を描く。