1. HOME
  2. World Now
  3. ドイツを悩ます「大家族犯罪」 法より「一家のおきて」重視で凶行や迷惑行為に関与

ドイツを悩ます「大家族犯罪」 法より「一家のおきて」重視で凶行や迷惑行為に関与

ニッポンあれやこれや ~“日独ハーフ”サンドラの視点~ 更新日: 公開日:
ベルリンの公園で開かれたお祭りで、口論の末に刺されて死亡した25歳のアラブ系大家族の男性の葬儀に参列するため集まった人々。男性は約1000人を数えた
ベルリンの公園で開かれたお祭りで、口論の末に刺されて死亡した25歳のアラブ系大家族の男性の葬儀に参列するため集まった人々。男性は約1000人を数えた=2022年5月5日、ベルリン、ロイター

「大家族」に厳密な定義はありませんが、一般的にドイツに移民してきた歴史背景を持つ民族集団で、一族の長を中心に、大勢の子どもだけでなく、いとこや結婚で結ばれた姻族も含み、ドイツ生まれの2世、3世も含む大きな集団を指します。一つの大家族が数百人規模、数千人規模であることも珍しくありません。

「大家族犯罪」について、ドイツの刑事警察はほかにMhallamiye-Kurden(和訳「マラミエ・クルド人」)(※1)という言い方もしています。

ドイツの連邦刑事庁(BKA)によるとドイツには約200万人のマラミエ・クルド人が住んでいます。その数はベルリン、ブレーメンやニーダーザクセン州など北部や、西部ノルトライン=ヴェストファーレン州などに集中しています。

ノルトライン=ヴェストファーレン州の州刑事局(LKA)によると同州には50以上の「犯罪的大家族」が存在するとのことです。詳しくは後述しますが、彼らの多くは1975年のレバノン内戦をきっかけに1970年代や1980年代にベイルートからドイツにやって来ました。

昨年、ドイツのメディアFocusは「2022年、ノルトライン=ヴェストファーレン州で大家族による犯罪が20.3%増えた」と報じ、ドイツの首都ベルリンでもRemmo(媒体によってはRammoと表記)、Abou Chaker、Al-Zein、MiriとOmeiratらの大家族が「犯罪分野においてますます力をつけている」としています。

大家族による有名な犯罪には、2017年にベルリンで起きた「ボーデ博物館の巨大金貨盗難事件」があります。この事件では375万ユーロ(現在の換算レートでは約6.3億円)の100キロの純金の巨大金貨が盗まれましたが、実行犯3人はいずれもRemmo氏族の人物だということが判明しています。

ベルリンのボーデ博物館から2017年に盗まれたものと同じ、世界最大級の金貨「ビッグ・メープル・リーフ」(100万カナダドル)
ベルリンのボーデ博物館から2017年に盗まれたものと同じ、世界最大級の金貨「ビッグ・メープル・リーフ」(100万カナダドル)=2010年6月25日、ウィーン、ロイター

ハーメルンの病院前で、ある大家族が大乱闘し病院が一時閉鎖された事件、ベルリンの貸金庫でMiri氏族が約85億相当の現金や貴重品を強奪した事件など数多くの事件がある中、「氏族間の暴力沙汰」も目立ちます。

2021年7月にはベルリンのホームセンターの駐車場で氏族同士が大人数でけんかをした際、氏族Aの男性が氏族Bの男性にナイフで刺されました。すると刺された氏族Aの親族が複数現れ、氏族Bの男性がピストルで撃たれる事件が起きています。トラブルの原因は違法な「みかじめ料」でした。

ベルリンの州刑事局が作成した「クルド系・レバノン系の氏族による犯罪の状況報告書」(※2)では後者の「ベルリンのホームセンターの駐車場で起きた事件」を「大家族による残酷な行為の典型」として取り上げています。ベルリンでは組織的犯罪の5分の1が「氏族による犯罪」であることが明らかになっています。

ノルトライン=ヴェストファーレンのロイル内務相。報告書「大家族犯罪2021」の発表で、同州では大家族犯罪の構成員による犯罪件数が2019年から2020年にかけて5.8%減ったと発表した
ノルトライン=ヴェストファーレンのロイル内務相。報告書「大家族犯罪2021」の発表で、同州では大家族犯罪の構成員による犯罪件数が2019年から2020年にかけて5.8%減ったと発表した=2022年5月、ロイター

氏族による大規模な犯罪が問題になっているノルトライン=ヴェストファーレン州では昨年、同州のロイル内務相が同州の「氏族による犯罪の状況報告書」に言及し、氏族による強盗、傷害、詐欺、性犯罪、麻薬犯罪、みかじめ料の犯罪が増えていることについて「Clankriminalität(氏族による犯罪)を無視することはできない」と語り、「氏族の犯罪者は我々の道路(ノルトライン=ヴェストファーレン州の道路という意味)を堂々と闊歩し、拳をズボンのポケットの中に入れていない(何かトラブルがあるとすぐに拳を振りかざして暴力に走るという意味)。彼らは暴力を行使する意欲が非常に強い」と続けました。

氏族の犯罪者について、内務相はNull Toleranz(和訳「ゼロトレランス」=ルールを厳格に適用すること)という言葉を用いて、「Clankriminelle(和訳「氏族の犯罪者」)に対する闘いに挑む」と語っています。

近隣住民を恐怖に陥れた、ある大家族の4兄弟

「大家族犯罪」は北ドイツでは「身近な問題」であり、大家族の一部のアグレッシブな態度や犯罪行為によって、地元の住民の生活が脅かされています。

ここでは2020年に調査報道ジャーナリストが書いた「Die Macht der Clans」(和訳「氏族の力」)という本から、約20年前に起きた「ご近所トラブル」とその原因となった大家族の「その後の歩み」にスポットを当てます。

北ドイツのWiesmoorという小さな街に住むドイツ人の4人家族は、一連の出来事について「今でも思い出すと恐怖をおぼえる」と言います。このドイツ人家族は、両親と子供2人という家族構成で、一軒家に住んでいました。子供たちは庭でウサギを2羽飼っていました。

家族の右隣に住んでいたのが、大家族「M」でした。前述のドイツ人家族の母親が当時を振り返りこう話しています。「当時は年がら年中恐怖を感じていました。隣人のM一家と顔を合わせると、朝でも昼でも夜でも暴言を吐かれたからです。だから、なるべく顔を合わせないために、車で家に帰る時は、隣人のM一家の前を通らなくてもいいように、わざわざ遠回りをして反対の道から帰っていました」。嫌がらせのピークはM一家が、子供たちのウサギを殺してしまったことです。

実は、これはただの「隣人トラブル」ではありませんでした。

このM一家は隣人のドイツ人家族のみならず、Wiesmoorに住んでいた地元の人々から長年にわたり恐れられていた存在でした。M一家には4人の息子(当時は全員が未成年)がいましたが、この4人が「とてつもないワル」だったのです。

地元の複数の店で兄弟そろって万引きを繰り返し、ある年には1年の間に兄弟が街で自動車を21台も盗みました。街の公共の運動場からサッカーゴールを盗み、それがそのまま兄弟の自宅の庭で使われていたこともあります。もっとも悪質だったのは4兄弟のうちの一人がある時、窃盗目的で自転車に乗っていた障がい者を蹴り飛ばしたことです。でも当時は未成年ということで、加害者が刑務所に行くことはありませんでした。

警察による「大家族犯罪」の大規模な強制捜査の間、路上で警察官と口論する男性(左から2人目、画像を加工しています)
警察による「大家族犯罪」の大規模な強制捜査の間、路上で警察官と口論する男性(左から2人目、画像を加工しています)=2021年2月18日、ベルリン、Christophe Gateau/dpa via ロイター

兄弟が当時通っていた学校の生徒たちもまた被害者でした。4人兄弟の長男は「通行料」「関銭」と称して同級生からお金を要求し、恐喝しました。支払わない同級生は最低でもビンタをされ、ひどい場合は暴力をふるわれた、と複数の同級生が証言しています。長男は15歳の時に一時期勾留されています。また学校内にナイフと偽のピストルを持ち込んだとして、当時4兄弟のうちの3人が学校を一時停学になっています。

このような状況を受け、周りの人たちが何もしてこなかったわけではありません。地元の警察、市当局、児童福祉課が連携してこの兄弟について何回も会議を重ね話し合いが行われました。でも誰にも「解決方法」を見つけることはできなかったのです。前述の書籍によると当時、地元の自治体のトップだった男性はかつて地元紙にこう語っていました。「残念ながら問題を解決することはできませんでした。この家族は(ドイツ社会への)統合が難しいのです」

子供をこの4兄弟と同じ学校に通わせていた保護者の間からは不安と不満の声が上がっていたものの、保護者の多くは長らく事態を静観していました。でもある事件をきっかけに保護者のみならずWiesmoorの地元住民の怒りに火が付きます。それは4兄弟が学校の前にあるバス停で14歳の少年に4人で暴力をふるったことでした。

この時、何人かの学校の先生とバスの運転手が暴力を目撃していますが、誰も何もしませんでした。被害少年の父親は激怒し、この異常な状況について話し合うための学校の保護者会を企画しました。この父母会に約80人が参加しましたが、その半数の父母が「自分の子供がこの4兄弟に恐喝されたことがある」と話しました。父母会は「このままではいけない」という意見でまとまり、M一家の一軒家の前まで「抗議のデモ行進」を企画。

しかしデモ行進はキャンセルされました。「外国人の家の前でデモ行進をするのは人種差別なのでは」という声が一部にありましたが、それが中止の理由ではありません。街で「M一家が別の地域に住んでいる氏族の男性を動員して、このデモ行進にかかわった人たちに復讐を図ろうとしている」といううわさが広がったためです。デモ行進はM一家の一軒家の前ではなく、地元の消防署の前で行われ、300人ほどが集まりました。

学校を含む近所を震撼させていたこの4兄弟について問題の解決を待ちわびていた街の住人ですが、結果として上記の「300人デモ」には一定の効果がありました。というのも、市民の抗議を受け、M一家は地元の自治体からの「別の街に引っ越しをするという提案」に同意をしたからです。移転先は約60キロ東の中規模都市Bremerhavenでした。ところが引っ越した後も、M一家はトラブルを起こします。

引っ越した先の街でもトラブル多発

まず、M一家の父親が武器所持とコカイン所持で逮捕され、実刑判決を受けました。

4兄弟は、引っ越してから成人年齢に達しました。ある日、4人兄弟の末っ子Khodor(コドー)が、おいっ子とともに車に乗っていたところをパトカーの警察官に呼び止められます。理由は助手席に座っていたKhodorがシートベルトをしていなかったためです。警察官は「30ユーロの罰金を支払うように」と告げ、身分証明書の掲示を求めました。すると、Khodorはこれを拒否、警察官に暴言を吐きました。

事態がエスカレートしそうだったため、警察官は応援を呼び、3人の警察官が駆けつけました。そしていつの間にかKhodorの妹ももめ事の現場に現れ、警察官たちをスマートフォンで撮影し始めました。警察官がそれを制止し、妹身分証明書の提示を求めたところ、Khoderが警察官に「何をする!妹を侮辱するな!」と怒鳴りました。その過程でKhodorは警察官を押し、妹は女性警察官の髪を引っ張りました。

暴れるKhodorをたしなめようと警察官が近づくと、Khodorは警察官にパンチを食らわせます。そして、いつの間にか、その場にM一家の関係者を含む約200人もの人が現場に集まり大騒動になってしまいました。

Khodorの兄3人も現れ、警察による弟の逮捕を妨害しています。兄たちはいずれも仕事をしておらず、「家族に何かあったら駆け付ける」時間はたっぷりあります。「家族の誰かが権力によって不当に扱われている」と感じたら、その家族を「助ける」ために家族全員で動き、そのことが「家族の名誉を守ること」だというのが彼らの価値観です。長男は後の公判でこう語っています「警察であっても、検察であっても、裁判官であってもどうでもいい。兄弟の誰かが攻撃されたら、これからも僕は反撃すると思います」

でも考えてみると、この大乱闘の発端となったのはシートベルト。つまり「ごく普通の交通検問」がきっかけでした。

交通違反をすれば誰もが経験する「検問での取り調べ」でさえ、M一家は「ドイツの権力からの自分たちへの攻撃」だと受け止め、暴力的な反撃に出たのです。前述の書籍によると、Khodorは公判前に事件の報告書を読みながら、「我々家族が街で嫌われているから、こういうことが起きた。全てが我々のせいにされている」と被害者意識をにじませました。

しかし警察の記録には、長男、次男、三男は合計で454件の犯罪経歴が登録されています。長男は強盗や恐喝の常習犯です。未成年時代、かつてWiesmoorで同級生に「通行料」を要求し、従わない人に暴力をふるっていたのも彼です。次男も暴力沙汰と窃盗で目立っており、2013年には集団強盗で実刑判決を受けています。三男は未成年の時から一番多くの犯罪を重ねて犯罪経歴は234件もあり、17歳の時には3年間の少年刑罰を受けています。

末っ子Khodorにいたっては、交通検問で身分証明書の提示を警察官に求められたことに腹を立て、兄弟や妹まで呼びつけて乱闘となった日(2017年7月3日)、連行された警察署で警察官にこう言い放ちました。「これで終わりだと思うな。必ず続きがあると思え。そもそもお前が制服を脱いだ後も同じぐらい勇敢なのかを見てみようじゃないか。人は人生で必ず2回会うと言うしね」――。つまり彼は、警察官が非番の時を狙って報復することをにおわせる発言をしたのです。

事件にまつわる警察の報告書には、「分析すると、兄弟は全員暴力を行使することに意欲的。警察官に対して暴力をふるうことを躊躇しない。国の法律を認めず、家族の掟やルールのみを大事にしている」と書かれています。

大家族「1世」の多くは1970~80年代に東独経由で移民

ドイツで問題になっている「大家族」のルーツはシリアやイラクとも近いトルコの南東アナトリア地方にあると言われています。その多くが20世紀にレバノンに渡りました。

1975年にレバノンで内戦が起きると、彼らは東ドイツを経由して当時の西ドイツにやってきました。前述のM一家も1986年にレバノンから東ドイツを経由して西ドイツに入国しています。なぜ「東ドイツを経由して」なのかというと、1989年まで西ベルリンと東ベルリンは分断されていたため、当時の東ドイツは「自国民(東ドイツの人)が西ドイツに渡ることがないよう」目を光らせていた一方で、「外国人が東ドイツを経由して西ドイツに渡ること」を規制しておらず、「西ドイツに入国するには東ドイツを経由することが一番簡単」だったからです。

そういった状況の中、当時、多くの人が東ドイツの航空会社Interflugの飛行機でレバノンのベイルートから東ベルリンへ飛び、東ベルリンに到着後にトランジットビザを発行してもらっていました。当時のベルリンの地下鉄は少々複雑で、西ベルリンと東ベルリンで路線がつながっていました。前述通り、東ドイツは「東ドイツの人がこの地下鉄に乗って西ベルリンに行かないように」厳重にチェックしていましたが、外国人に関してはこの地下鉄に乗り東ベルリンから西ベルリンに行くことを認めていいました。そのため当時多くのレバノン系クルド人(※3)が地下鉄で東ドイツから西ドイツに入国しています。

彼らは「子だくさん」であるため、夫婦に子供が15人いることも珍しくありません。また若くして子供を持つ傾向があるため、約半世紀が経った今、二世、三世、四世の彼らもドイツで生活をしています。ドイツの連邦刑事庁(BKA) によると約200万人のマラミエ・クルド人がドイツに住んでいます。大家族には叔父、叔母、従妹やはとこなども含まれるため、ひとつのファミリーが「何千人という規模」であることも。そして残念ながらその一部が家族ぐるみの犯罪に走っているのです。

後編はこのような事態になってしまったドイツの背景、そして解決への動き(糸口)について続きます。