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熱気球で越えた東西ドイツの壁 「最も華々しい亡命者」がいま明かす、脱出劇の裏側

People 更新日: 公開日:
Kurz vor dem nächtlichen Start: Der Ballon entfaltet sich.
独映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』の一場面 © 2018 HERBX FILM GMBH, STUDIOCANAL FILM GMBH AND SEVENPICTURES FILM GMBH

独映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』日本公開 東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」崩壊の10年前、秘密警察の追及をかいくぐり、手作りの熱気球で東から西に逃れた二つの家族がいました。当時、東ドイツからの「最も華々しい亡命」と称賛された実話を元にしたドイツ映画「バルーン 奇蹟の脱出飛行」が、日本で今夏公開されています。彼らに決死の脱出飛行を決意させたのは、100人に1人が秘密警察と関わりがあったといわれる東ドイツの「監視社会」への反発でした。計画を発案したギュンター・ヴェッツェルさん(65)が、脱出の秘話と時代に翻弄された半生を語りました。(玉川透)

映画の舞台は、東西冷戦まっただ中の1979年、東ドイツ・テューリンゲン州ペスネック。西ドイツとの国境に近いこの町に暮らす電気技師ペーターとその家族は、西ドイツの自由な暮らしを夢見て、自家製の熱気球による空からの脱出を決意する。一度は失敗するものの、親友ギュンターやその家族の助けを借りて、秘密警察シュタージの監視をくぐり抜けながら、膨大な量の布地を集め、地下室で気球を縫い上げる。ギュンターの兵役というタイムリミット、そして、秘密警察の捜査が迫るなか、2組の家族、8人を乗せた熱気球が夜空に舞い上がるのだが……。

この物語の中で、気球のアイデアを思いつく重要な役割を果たすギュンターこそ、ギュンター・ヴェッツェルさん、その人である。

きっかけは西ドイツの記事

ギュンター・ヴェッツェルさん一家=本人提供

第2次世界大戦で敗れたドイツは冷戦時代、東西で分断統治されていた。共産主義政権下の東ドイツから、資本主義社会の西ドイツへ逃亡を試みる市民が続出。秘密警察が警戒を強めるなか、車のボンネットに身を隠して検問所をくぐり抜けた人、自作の潜航艇で逃げようとした人、トンネルを掘って脱出した人……あらゆる逃亡の手段が講じられた。そんな中でも、ギュンターさんらの熱気球による脱出は、「最も華々しい亡命」と今に語り継がれる。

作品中では詳しく触れられていないが、ギュンターさんが熱気球による脱出を考えついたのは、1978年3月に知人からもらった西ドイツの新聞記事がきっかけだった。「東ドイツから逃げ出すことはずっと考えていましたが、トンネルや車のトランクに隠れるといった方法は、あまりに危険だと思っていました。そんなとき、たまたま西ドイツの友人からもらった新聞の中に、米ニューメキシコ州で行われた熱気球のイベントを伝える記事を目にしたのです。カラフルな気球がたくさん飛んでいる写真を見て、ああ、もしかして、これを使えば簡単に逃げられるんじゃないか、そう思ったんです」

ギュンターさんはすぐに、西ドイツの友人を介して付き合いのあった電気技師のペーター・シュトレルツィクさんに脱出計画を持ちかける。以前から東ドイツ政府への不満を語り合っていた2人は意気投合するが、肝心の熱気球の知識はゼロだった。手探りの脱出計画が始まった。

映画の中で、ギュンターさんたちは2回気球を作っているが、実際はその前に初号機があったという。「最初の気球は、私がヒントを得た新聞記事の写真からまったくの想像で作りました。そんなのでは当然、うまく機能するはずがありません。映画にも出てくる2号機は飛ぶには飛んだのですが、人を乗せるゴンドラの部分が小さすぎるという欠陥がありました」

地下室で熱気球の製造に使用したミシン=ギュンター・ヴェッツェルさん提供

ついに脱出に成功する3号機は、高さ32メートル、気球の布地は1245平方メートル、ゴンドラの大きさは1.4メートル四方だった。市販の布をミシンで縫い合わせ、5週間をかけて完成させた。実際の飛行時間は28分。8人を乗せて高度2000メートルまで上昇した熱気球は、18キロ飛行した。ギュンターさんが最初にアイデアを思いついてから、「運命の日」となる1979年9月16日を迎えるまで、じつに1年半の月日を要した。

映画では、秘密警察シュタージが国家の威信をかけて、ペーターやギュンターたちを追い詰めていく。捜査の手からぎりぎりで逃れたかと思うと、次から次へとハプニングが起きて手に汗握る展開が続く。もし、自分がギュンターさんと同じ立場だったら、絶対に途中でくじけてしまいそうだ。実際に「もうダメ」と思った瞬間は、一度もなかったのだろうか?

Ein Wettlauf gegen die Zeit: Günter Wetzel (David Kross) näht unter Hochdruck.
独映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』の一場面 © 2018 HERBX FILM GMBH, STUDIOCANAL FILM GMBH AND SEVENPICTURES FILM GMBH

ギュンターさんは首を横に振る。「シュタージに捕まることはできるだけ考えないようにしていましたが、万一、失敗した時のため『プランB』も考えていました。西ドイツの友人に、もし私たちが突然消えたら、熱気球で逃亡しようとして失敗したということだから、西側メディアに伝えてくれと頼んでいました。当時、西ドイツ政府の働きかけで、東ドイツで政治的に迫害された人々を受け入れる政策もありました。西側の世論に訴えれば、シュタージに捕まっても、身を守れるのではないかと考えたのです」

「逃亡者の子」の悲哀

Peter Strelzyk (Friedrich Mücke), Petra Wetzel (Alicia von Rittberg), Doris Strelzyk (Karoline Schuch) und Günter Wetzel (David Kross) bei den heimlichen Arbeiten in der Garage.
独映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』の一場面 © 2018 HERBX FILM GMBH, STUDIOCANAL FILM GMBH AND SEVENPICTURES FILM GMBH

当時の統計によれば、1976年からベルリンの壁開放の前年1988年までに、東から西に脱出を試みた人は5万7331人。そのうち運良く成功したのは、半分以下の1万9268人に過ぎなかった。これだけを見ても、成功の確率は高くない。実際、多くが途中で命を落とし、逮捕されて監獄に収容されたまま帰ってこなかった。

逃亡者の大きな障壁となったのが、東ドイツの「監視社会」だった。シュタージが市民の生活のあらゆるところに監視の目を光らせ、人口の100人に1人が秘密警察と関わりのある人間だったと言われる。「密告」が奨励され、信頼していた友人、同僚、家族までもが密告者というケースもあった。たとえ生きながらえたとしても、逃亡を企てたことが発覚すれば、社会の「アウトサイダー」として生きるほかない。さらにハードルを上げたのは、その影響が逃亡者の親族にも及ぶことだった。

ギュンターさんも、そんな「逃亡者の子」だった。1963年、ギュンターさんが8歳のとき、実父が家族を置いて独り西側に逃亡してしまったのだ。「実父は逃亡してからもずっと没交渉で、残された私たちへの支援は一切ありませんでした。私は大学で学びたかったのですが、実父のせいでそれもかなわず、政府系の政党への入党も認められませんでした。母は私が13歳のときに再婚して、継父が私を育ててくれました。その恩はいまも感じています」

常に監視されているという息苦しさに加え、逃亡者の子という負い目を感じながら、ギュンターさんは脱出への思いを募らせていく。ついに気球による脱出飛行を決意したとき、24歳。同い年の妻、5歳と2歳の子供を連れて一緒に逃げることに、迷いはなかったという。

それでも、実母と継父には最後まで計画を黙っていたという。「辛い選択でしたが、計画が成功したら、母たちのところにシュタージの捜査が及ぶのは分かっていました。でも、何も知らなければ迷惑がかかる可能性は少ないだろう、そう考えました。実際、脱出後に母たちはシュタージの聴取は受けましたが、死ななかったし、何もおとがめはありませんでした」

一方、熱気球での脱出が成功して西側メディアに大々的に報じられると、ギュンターさんが入院する病院に意外な人物が現れた。それまで音信のなかった実の父だった。「私は会うことを拒否しました。私や母を勝手に捨てていった男です。何を今さらという思いをぬぐい去ることができませんでした。今思えば、国が東西に分かれてしまっただけでなく、私たち家族もばらばらに引き裂かれてしまったのです」

10年後に壁崩壊

1985年に再現された熱気球=ギュンター・ヴェッツェルさん提供

ギュンターさんは亡命後、西側で飛行機の免許を取ってパイロットになった。当時、シュタージが秘密裏に西ドイツに潜入して、逃亡者を取り戻しに来るといううわさが流れていた。ギュンターさんも不安がなかったわけではないという。「東ドイツ政府からすれば、熱気球で逃げた私たちを捕まえて連行するところを東の人々に見せれば、非常に大きな宣伝効果が期待できたはず。シュタージも実際に画策したと思います」

脱出から10年後、不安は完全に解消される。1989年11月9日、「ベルリンの壁」が開かれたのだ。当時、東との国境近くに住んでいたギュンターさんはその晩、テレビで、人々がベルリンの壁によじ登ってハンマーを振るい、歓喜する様子を見ていた。「こんな日が来るなんて、信じられませんでした。本当に幸せで涙を流して喜びました」。その1週間後、長男を連れてペスネックを訪れた。それまでに実母とは手紙のやりとりを重ねていたし、西側で3回会っていたが、継父とはまさに10年ぶりの再会だった。「恨み言ひとつ言わず、再会を心から喜んでくれました」

東西統一30年に思うこと

今年10月で東西ドイツは統一から30年の節目を迎える。ギュンターさんは今、旧東ドイツの町ケムニッツで暮らしている。この間、欧州連合(EU)の誕生など、ギュンターさんの知る世界は大きく変わった。最近は、中東やアフリカ諸国から移民・難民がドイツに押し寄せ、ケムニッツも大勢の難民が身を寄せている。どうしようもない事情で祖国を捨て、家族と離ればなれになってしまった彼らを見ると、東ドイツを脱出した頃の自分たちの姿と重ねることもあるという。

それでも、とギュンターさんは言う。「いまドイツにいる難民の人々は、私たちの何倍も大変な苦労を強いられていると思います。言葉も、文化も違う。それに比べたら、私たちは本当に恵まれていました。スムーズに西側の暮らしに入れた、その運命に心から感謝しています。そして、誰にも監視されない、この自由な社会を二度と失ってはいけない、そう切に思います」

■映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』公式サイト