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ベルリンの壁崩壊から30年(後編) 屈辱から四半世紀後にリベンジしたプーチン

迷宮ロシアをさまよう
旧東ベルリンにあるイーストサイドギャラリーに描かれたブレジネフ・ソ連書記長とホーネッカー東独議長。かつてソ連圏の首脳たちは男同士で実際にこのようにキスを交わしていた(撮影:出井健一郎)

手放しでは喜べなかった東欧の自由化

ベルリンの壁崩壊から30年が経過したことを受け、前回と今回の2回にわたり、そのテーマを取り上げております。前回の芳地隆之さんのインタビューに引き続き、後編をお届けします。

個人的なことを言えば、ベルリンの壁が崩壊した日のことは、良く憶えています。私の所属団体のロシアNIS貿易会は、当時はソ連東欧貿易会という名前で、東ドイツも事業対象国でした。壁崩壊の一報が伝えられた時には、日本時間ではもう1989年11月10日の朝になっていたと思いますが、現地でのお祭り騒ぎの様子が、日本のテレビなどでも中継されました。

職場のテレビでそれを観て、「市民が壁の上で踊ってる!」などとはしゃぐ先輩もいましたが、私自身はひどく戸惑っていました(その意味では、前回の芳地さんのお話と相通じるところがあります)。私はその年の4月に入社したばかりで、さあこれからソ連・東欧諸国のことを勉強していくのだと意気込んでいたところでした。もちろん、ソ連・東欧圏の変革の動きは、私にとっても心躍るものがありましたが、テレビの画面に映っている出来事は、想像を超えた、あまりにも急激な動きだったのです。

案の定と言いますか、それから1年足らずのうちに、東ドイツは西ドイツに吸収合併され、私の所属団体の事業対象国は1つ減ってしまいました。さらに、自由化を達成したポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアといった東欧諸国は、2000年代に欧州連合(EU)加入を果たし、その結果、2006年に当会の事業対象から完全に外れてしまいました。会の名称からも「東欧」が消え、現在のロシアNIS貿易会へと変わりました。

もちろん、東欧諸国の運命を決めるのは国民自身ですし、実際に選んだ道は妥当だったと思いますけれど、個人的な心情としては、仕事のテリトリーが縮小してしまったことを残念に感じました。

東ドイツ時代のプーチン

さて、今日のロシアとの関連で言えば、何と言っても重要なのは、プーチン現大統領がベルリンの壁崩壊当時、ソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員として東ドイツのドレスデンに駐在していたという事実です。当時プーチンは30代半ばの男盛りでしたが、1985年に家族とともに東ドイツに赴任し、ドレスデン支部のナンバー2になりました。

社会主義の優等生で、規律も厳格だった東ドイツは、諜報員プーチンにとって、とても居心地の良い勤務地だったようです。現地では東ドイツの秘密警察「シュタージ」の職員たちとも親しく交流し、花金ごとにビールを飲み交わすうち(ザクセン州名産のラーデベルガーというビールがお気に入りだった)、12キロも太ってしまったとか。

しかし、プーチンにとっての安寧の日々は、いつまでも続きませんでした。1988年から1989年にかけて東欧諸国に広がった自由化のうねりは、ついに東ドイツをも飲み込み、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊します。

KGBは、東ドイツの変化はもはや押し留められないと判断したのでしょう。壁が崩壊してからしばらくの間、プーチンはドレスデンの支部にあった不都合な文書を大量に焼却処分する作業に没頭していました(令和の日本であればシュレッダー、おっと失礼、何でもありません)。

そんな折り、12月5日にドレスデンで大規模な市民デモが発生。秘密警察「シュタージ」の建物を占拠して勢い付いた群衆たちが、プーチンのいたKGB支部にも押し寄せます。隣接するソ連軍駐屯所に警備員が電話で応援を求めましたが、「我々はモスクワの許可なしでは動けない。モスクワは黙ったままだ」との返答。

やむなくプーチンが群衆の対応に出向き、「私は通訳です。ここはソ連の管轄区域ですので、直ちに立ち退いてください」と、流暢なドイツ語で警告。小柄ながら、ただならぬ雰囲気を発するプーチンに、身の危険を感じた市民たちは、KGB支部の占拠は断念した由です。

いずれにしても、もはやKGBに東ドイツでの居場所はありませんでした。プーチンも1990年1月にソ連に帰任。東ドイツでの体験から、プーチンはソ連体制が崩壊しつつあることを悟り、KGBでのキャリアを続ける意欲が減退してしまったようです。一時は地元レニングラード(現サンクトペテルブルグ)でタクシー運転手になることを本気で考えていたというプーチンでしたが、結局レニングラード国立大で学長補佐として拾われました。その後プーチンは、市行政に転身し、中央政界に進出して、ベルリンの壁崩壊から約10年後にロシアの最高指導者にまで登り詰めることになります。

体制の守護者をもって任じるKGBのプーチンにとって、東ドイツという国家が崩壊する様を、傍観することしかできなかったのは、屈辱の体験だったと思われます。とりわけ、市民がドレスデンの街を解放区へと変えた1989年12月の事件は、自らも巻き込まれただけに、その後のプーチンの価値観と行動様式に深甚な影響を及ぼし、これが2014年のウクライナ危機の際にプーチンが断固とした行動を採ることに繋がったという分析があります。

2014年の政変直後のウクライナ・キエフの風景。デモ隊の拠点となったテント村に、「ネオナチのプーチンはロシア人全員にとっての枷だ」といったプラカードが掲げられている(プーチンとプート=枷を掛けている)。右後方には暴徒によって焼き討ちされたロシア系銀行「ズベルバンク」が見える(撮影:服部倫卓)。

形を変えて蘇った制限主権論

前回の芳地隆之さんのお話の中で、改めて考えさせられたのは、「旧東欧諸国で試みられてはソ連の戦車で潰されてきた自由で民主的な社会主義の試み」についてでした。いわゆる、制限主権論、ブレジネフ・ドクトリンの問題です。

プーチン・ロシア大統領は、2016年に応じたドイツ紙『ビルド』のインタビューで、「ベルリンの壁崩壊によって、ヨーロッパの分断を克服することはできず、単に分断線を東に移しただけだった」と指摘し、当初の約束に反して北大西洋条約機構(NATO)を東方に拡大させた欧米を非難しました。

筆者も、NATO拡大にはより慎重を期すべきだったとは思います。ロシアも加えた形で大西洋・欧州を網羅した包括的な安全保障体制は作れなかったものかと、悔やみたくなります。しかし、プーチン体制のロシアが現実にとっている行動、とりわけ2014年のウクライナに対する仕打ちに照らせば、NATOの東方拡大もやむをえなかったかと考えざるをえません。

2014年にウクライナ情勢が風雲急を告げた時に、プーチンの脳裏に浮かんだのは、1989年にドレスデンで体験した無政府状態だったのでしょう。このままではウクライナの国家転覆は不可避で、そうなればNATOの一層の東進を許すことになると、危機感を抱いたに違いありません。とりわけ、黒海に突き出たクリミア半島にあるセバストーポリ軍港は、ロシア海軍の聖地であり、ここにNATO旗が翻るような事態だけは、何としても阻止しなければならない。プーチンは、そのような思いから、クリミア併合という非常手段に打って出たのだと考えられます。

その際に、小泉悠さんも近著『「帝国」ロシアの地政学』で論じているように、プーチン体制のロシアには、弱小な国々は主権国家ですらないという特殊な国際秩序観があり、旧ソ連圏、特に民族・言語的に近いウクライナは主権国家たるロシアにとっての自然な勢力圏であるとする認識があります。ロシアはそのような前提にもとづき2014年にウクライナに介入したわけで、これはまさに現代版の制限主権論です。

確かに、NATOの東方拡大には、性急な面があったと思います。しかし、それに対するロシアの答えが、隣国ウクライナの主権を踏みにじることだというのは、どうなのでしょうか。ロシアがそうした行動も辞さない国だからこそ、東欧諸国はNATO加盟を急いだわけで、ロシアは自らの振る舞いによりNATO拡大が正しかったことを逆に証明してしまった形です。

東西冷戦構造が終焉した当時、「歴史の終わり」という議論が盛んになりました。しかし、ベルリンの壁崩壊は、確かに東西ドイツの分断には終止符を打ちましたけれど、それによって歴史が終わったわけではありませんでした。それは、次の歴史への伏線だったのです。