「閣下だけが専用に使う宴会場には数十名の一級芸能人たちが絡んでおり、この事実が明るみに出れば、世の中が大混乱に陥るでしょう」
1979年10月26日、KCIA(大韓民国中央情報部)部長のキム・ジェギュは、絶対的権力者の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)を暗殺、日付が変わった直後の27日午前0時半ごろ逮捕され、暗殺に加担した腹心の部下たちも次々と連行された。
上の言葉は、その後の裁判で死刑を言い渡された腹心の部下の一人、KCIA所属儀典課長であるパク・ソノが、4次公判時の中で語った内容の一部を訳したものだ(ちなみに、この陳述は1993年に公開され、現在ではYouTubeでも音声を聴くことができる)。
「閣下」とはもちろん朴正煕のことであり、「一級芸能人」とは女優や歌手、モデルなどトップクラスの女性芸能人を示す。慌てて制止した検事によって、パク・ソノはそれ以上の詳しいことは語らず、淡々と陳述を終えた。
だが、結審に至るまでの裁判の過程で検事側の威圧的な反発を受けながらも、弁護人らの反対尋問に対してパク・ソノは、朴正煕がしたことをほのめかす言葉を述べている。その核とも言えるのが「大行事」と「小行事」だ。
大行事とは、朴正煕がKCIA部長や警護室長、秘書室長など最側近3、4人と、2人以上の女性を呼んで開く宴会であり、小行事とは朴が女性と2人きりで密会することを意味する隠語だった。
事件の周囲の人々にもフォーカス
大行事が月に2、3回、小行事が7、8回の頻度で大体10回前後の宴会が開かれたというから、果たしてどれほどの女性たちが朴正煕に「上納」されたのか(しかも、毎回相手を変えたという)推測することさえ困難だ。
パク・ソノは、儀典課長に就いてから事件当日まで一日も休めなかったとも陳述し、朴正煕の性的欲求の解消のためにこき使われたことを遠回しに訴えている。
そんなパク・ソノは、大勢の女性たちを朴正煕に差し出す役割を果たしたことで後に世間から「採紅使(チェホンサ)」と呼ばれるようになった。採紅使とは、朝鮮王朝第10代国王で暴君として知られる燕山君(ヨンサングン)の命令で、全国から女性を集めて王に献上する仕事をした官吏のことである。
何とも不名誉なあだ名だが、パク・ソノは実際はどのような人物だったのか、なぜ暗殺に加担したのか。今回は、朴正煕暗殺を描いた初の劇映画『ユゴ 大統領有故』(イム・サンス監督、2005)を取り上げ、一般にはあまり知られていないパク・ソノと事件現場に居合わせていた2人の女性について紹介したい。
本作は、大統領暗殺という韓国現代史上最大の衝撃的な事件をテーマにしながらも、暗殺した張本人のキム・ジェギュだけでなく、事件に巻き込まれた周囲の人々にも焦点を合わせている。
その意味で、政治的背景や権力争いを軸に「キム・ジェギュ」を描き上げた『KCIA 南山の部長たち』(ウ・ミンホ監督、2020)とは異なる角度から事件に迫っていると言えよう。
『KCIA 南山の部長たち』については拙著『韓国映画から見る、激動の韓国近現代史 歴史のダイナミズム、その光と影』(書肆侃侃房、4月24日発売予定)を参照にされたいが、これら2作を併せて観ることで、事件をより深く立体的に理解するきっかけになるはずだ。
醜悪な独裁権力への冷笑と揶揄
本作は、ユーモラスな場面をふんだんに取り入れた政治風刺劇のブラックコメディとして高い評価を得て、韓国映画評論家協会賞や百想(ペクサン)芸術大賞作品賞などを受賞した。
韓国映画で盛んに作られている史実(fact)に虚構(fiction)を加味したファクション(faction)映画だが、暗殺という重苦しい事件をあえてブラックコメディに仕上げたのは、独裁政治の果てに起きた惨劇の真相のみならず、その独裁権力が国民の目を騙して犯した醜悪なふるまいに対する冷笑と揶揄を反映したかったからに違いない。
映画の冒頭で、側近たちと強壮剤(海狗腎)について云々しながら「へその下のことはもともと問題にすべきじゃないな。男のくせして」と日本語で話す大統領の姿は、公の場では日本語をはじめ、あらゆる日本大衆文化の禁止を強制したにもかかわらず、自分だけはそれらを大っぴらに享受していたことや、国民に対してモラル的で謙虚なイメージ操作をしてきた裏では、権力を武器に乱暴な性的搾取を延々と繰り返していた権力者朴正煕の二重性を、シンプルでわかりやすく描写した場面である。
公開当時、朴槿恵(パク・クネ)元大統領を含む朴正煕の子どもたちが上映禁止を求めて裁判を起こしたのは、本作がいかに辛辣かつ滑稽に事件を風刺しているのかを反証するものでもある。
ではさっそくパク・ソノについて紹介しよう。上述したように、彼の最重要任務だった大行事と小行事に関しては長い間、憶測と噂だけが巷に流れていた。それは、死刑の瞬間まで真実を口にすることを封じられたからだが、朴正煕暗殺後にクーデターを起こして権力を掌握した、朴の追従者でもあった全斗煥(チョン・ドファン)率いる軍事独裁政権の徹底したメディア統制が敷かれたためでもあった。
詳細が明るみに出始めたのは、軍事独裁政権が終わりを告げた1990年代に入ってからである。実録やルポの形で大行事や小行事の実態を抉り出すような本が世の中に数多く出回ったのだ。
これらの本は、とりわけ小行事でのかつての絶対的な権力者の「猟色ぶり」を赤裸々に描写し、パク・ソノの陳述通り韓国社会に大きな衝撃を与えた。
キム・ジェギュとパク・ソノは師弟関係にあった。キムが中学の教師を務めていたときの生徒のなかにパクがいたのだ。2人の縁はその後も続き、パクは海軍を除隊後、当時KCIAの次長だったキムの推薦でKCIAに初めて足を踏み入れた。そして1978年8月からは、部長に昇進していたキムによってKCIA秘書室の儀典課長に抜擢された。
だが仕事のほとんどは朴正煕のために女性を集める「採紅使」であり、信心深いクリスチャンだったパクは良心の呵責に苛まれ、何度もキムに辞めたいと申し出たという。
だがその度にキムに慰留され、逆らうことができずに我慢して働き続けた。劇中でも、パクをモデルにしたチュ課長が仕事の苦痛を吐露すると、キム部長から「もう少し我慢しろ」と言われる場面で2人の関係性が示されている。
パクの信仰ぶりは、事件直後、身の危険を直感し、家に寄った彼と家族全員が手をつないでお祈りをするシーンで暗示されるが、祈りの最中に繰り返し拳銃を自分の頭に押しつけ自殺しようとする場面は、コミカルに描かれているからこそ、笑うに笑えない描写である。
運命を翻弄された人びと
最終陳述が終わるまで、裁判の全過程を通してパク・ソノは、恩師であり上官であるキム・ジェギュに対して一度も尊称を忘れることなく、きわめて礼儀正しく振舞った。生まれ変わってもキムの命令に従い、同じことをするだろうとまで語ったパクの言動をめぐって、後に世間では彼の愚直なまでの「忠誠心」を褒めたたえ、46歳という若さで死刑になったことを惜しむ声が上がった。
忠誠を人間の持つべき第一の徳目として教え込んできた、さすが「儒教大国」韓国の徹底した教育ぶりである。近年、韓国の民主主義を20年以上早めたとして、キム・ジェギュを再評価しようとする動きが出ている中で、パク・ソノにも関心の目が注がれるようになった。
忠誠心という点は、暗殺に加担したもう一人の腹心、パク・フンジュ(劇中ではミン大佐)も忘れてはならない。キム・ジェギュが軍の師団長を務めたときに専属副官に就いていた彼は、キムがKCIAの部長になると現役軍人として遂行秘書の任務に当たった。
普段からキムの命令なら無条件に信頼し従ったというフンジュの(軍人だからこそ植え付けられたであろう)忠誠心は、暗殺においても遺憾なく発揮された。パクはただ命令に従っただけだと、裁判官に何度も善処を哀願したキムの訴えも虚しく、フンジュは現役軍人という身分のため1審のみの裁判に回され、即決で死刑が確定、皮肉にもキムを含めて他の誰よりも早く処刑(銃殺刑)された。享年41だった。
続いて、朴正煕暗殺の現場に居合わせた2人の女性について紹介しよう。
1人目は当時漢陽(ハニャン)大学演劇映画科の3年生だったシン・ジェスンである。大学2年生で結婚し娘を生んだものの、DVなどが原因ですぐに離婚して復学した。その後、モデルのアルバイトをしていた時に、知人の紹介でパク・ソノと出会い、大行事に連れていかれたという。
簡単なマナー教育と絶対口外しないことを誓って宴会場に入り、朴正煕の前で酒を注いだり歌を歌ったりしていた最中、突然キム・ジェギュが朴正煕に向かって発砲、思いがけず暗殺の目撃者となった。
事件後、全斗煥が作った合同捜査本部の厳しい取調べを受け、チョン・ヘソンという偽名を使うように強制された。
劇中では世間知らずの女子大生として描かれているが、周りからの白い目に耐え切れずアメリカに移民、1994年には事件当時のことを綴った『そこに彼女がいた』という手記を出版し、韓国演劇界に復帰を試みたがうまく行かずに、現在はアメリカで娘や孫たちと暮らしているという。
ある韓国メディアのインタビューによると、未だに「銃声」にトラウマを抱えているそうだ。暗殺に巻き込まれた彼女の人生は到底幸せとは言えない、茨の道となった。
もう一人は歌手のシム・スボンである。今現在も旺盛な活動をしている彼女は1975年、レストランのアルバイトとして歌っていた姿が当時の警護室長の目に留まり、大行事に3回ほど呼ばれたという。
劇中では大統領がこれまた日本語で「あの、演歌上手い子いるだろ? スボン、今日はあの子の歌聴きたいね」とリクエストするほどお気に入りだったようだ。
だが、事件後は歌手活動を禁止され、ソン・クムジャという偽名で生きることを強いられた。苦しい時期を送った後、1984年にようやく活動再開を許され、「男は舟、女は港」「女だから」などの曲を次々とヒットさせて人気歌手として返り咲いた。
シン・ジェスンと同じく1994年に、ヒット曲の「愛しか私は知らない」を題名にした手記を出し、暗殺の瞬間のショックを明かしている。本作の原題『그때 그 사람들(あの時あの人たち)』も彼女の大ヒット曲「그때 그 사람(あの時あの人)」に因んだタイトルである。
朴正煕の小行事を暴いた本を調べる過程で、現在では大統領に上納された女性たちが実名で書かれていること、そしてその中には女優や歌手など信じられないほど超有名な人物が数多く含まれていることに驚きを隠せなかった。
中でも私が最も衝撃を受けたのが「キム・サムファ」という名前である。彼女は、『下女』(1960)や『玄界灘は知っている』(1961)などの傑作で知られるキム・ギヨン監督のヒット作『陽山道』(1955)でヒロインを演じ、伝統舞踊家としても人気を博した大スターだったからだ。
在米ジャーナリストのキム・ヒョンチョルが書いた『시대의 어둠을 밝힌다(時代の闇を明かす)』(2015)によれば、当時彼女は結婚していたにもかかわらず、「不幸にも」朴正煕に連れていかれ、散々な目にあった挙句の果てに離婚され、アメリカに移民させられたという。その後の彼女の人生がどんなものだったかは言うまでもないだろう。
誰に「刀」を持たせるべきか
いったいどれだけの人々が朴正煕によって人生を狂わされたのだろうか。想像することもできない。
韓国の言い伝えに「権力とは刀だ」という言葉がある。同じ刀でも、料理人が持つと料理を作るために(他人の役に立つものとして)使われるが、強盗が持つと人を殺す凶器として使われるように、権力は誰が持ち、どう使うかが重要だという意味だ。
長い間、朴正煕が大きな刀を持ち続けたために、数多の韓国人がその犠牲になり人生を狂わされてきた。誰に「刀」を持たせるべきか、歴史から学んだ韓国人はこれからも選挙のたびに、自らに問い続けなければならないだろう。