「風化させない」努力、「風化させたい」本音
「風化させない」という表現を、日本のメディアは好んで使う。災禍や事故などから、その予防と防止のための教訓を学び今後に生かそう、過去の出来事から目を逸らさず、未来に向かって忘れないようにしよう、という社会的意志を表明する決然たる言葉である。
だが同時に、この言葉が「選択的に」用いられていることにも注意が必要だろう。わかりやすい例を挙げるならば、第二次世界大戦において、広島と長崎に原爆が投下された被爆国としての日本を「風化させない」ためのたゆまぬ努力が、戦後一貫して続けられてきた一方で、アジア各国を植民地侵略した加害者としての日本を「風化させない」努力がされてきたと果たして言えるだろうか。
日本の社会にとって、政府にとって「都合の悪いこと」は隠蔽、あるいは矮小化しようとする今の日本に蔓延する風潮からは、「風化させたい」といった本音が見え隠れしているようにも見える。
今年で発生から100年を迎える関東大震災にも同じことが言えそうだ。地震が起きた9月1日は「防災の日」と名付けられ、メディアは毎年こぞって特集を組み、震災を風化させないと声高に訴えているものの、この歴史的出来事はいまやほとんど「防災」の文脈でしか語られていない。
震災下の混乱のさなかに飛び交った流言蜚語(りゅうげんひご)によって、多くの朝鮮人が虐殺されたことに関して、まるで「風化させたい」と言わんばかりに日本はこれまで沈黙を貫いてきた。
とりわけ、2010年代半ばから東京都で行われている、一部の右翼団体による朝鮮人犠牲者追悼式への妨害集会や追悼碑の撤去要求は、これに対する「反対」を明白に示さない都の対応も含めて、関東大震災での虐殺の事実を選択的に風化させようとする動きにほかならない。
もちろん、多くの学術的研究、関連資料や証言集の出版、有志団体による追悼式の開催など、虐殺の真相を究明しようとする努力も少なからず存在している。だが、こうした活動の最大の難点は、政府が隠蔽を続けているために虐殺の全容を把握しづらいことである。
2003年には、日本弁護士連合会が政府に対し、虐殺誘発の責任があるとして事実調査と謝罪を勧告したが、20年経った現在でも政府からの返答はないという。
日本政府が望んでいることは明らかだが、だからこそ、選択的に遺された歴史ではなく、真の歴史を未来に繋げていくためにも、風化させまいとする研究や活動はよりその重要性が増し、これからも続けていかなければならない。
「朝鮮人に間違われて」殺された人々
その意味で、今年の9月1日に公開される映画『福田村事件』(森達也監督)が持つ意義は、歴史的そして映画史的にも極めて大きい。というのも本作は、関東大震災での朝鮮人虐殺や虐殺の本質に真正面から迫る初の本格的な劇映画だからだ(在日2世の呉充功(オ・チュンゴン)監督の『隠された爪痕』(1983)や『払い下げられた朝鮮人』(1986)といったドキュメンタリー映画は存在するが、日本人監督による劇映画という点では初と言っていいだろう)。
テレビドキュメンタリーのディレクターとして活躍していた森監督は、メディアを中心に日本中がオウム真理教のバッシングに明け暮れていた時代に、オウムの信者たちを追ったドキュメンタリー映画『A』(1997)と続編の『A2』(2001)が注目を集め、2014年に日本列島を騒がせた「ゴーストライター事件」を扱った『FAKE』(2016)が大ヒットするなど、社会の暗部を直視するドキュメンタリーに定評があるが、本作で初めて劇映画を手がけた。
このコラムでは、フィクションではあるものの史実に基づいて製作された『福田村事件』を取り上げ、震災発生後の千葉県福田村で起きたことと朝鮮人虐殺との関係性を、映画で言及されている「堤岩里(チェアムリ) 虐殺事件」も取り上げながら探ってみたい。それは同時に「虐殺の本質」について考えることにもなるだろう。
本作が元にしている史実とは、「1923年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で薬売り行商人15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺された」(香川人権研究所HPより)同名の事件である。
被害者はみな、香川県の被差別部落出身の人々であった。
彼らはなぜ、これほど残酷に殺されなければならなかったのだろうか。その背景にあるのは、震災の混乱のさなか、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火し、襲ってくる」といった類いの流言蜚語が政府や軍、警察によって拡散するとともに、各地で自警団が組織され、大々的に行われた朝鮮人に対する虐殺である。
見た目には区別できない相手を朝鮮人と見定めるため、「15円50銭」と発音させ、「じ」や「ご」の音が上手く言えなければ朝鮮人と判断して虐殺した、というのはよく知られている。つまり、香川からやってきて訛りの強かった行商人たちは、「朝鮮人に間違われて」殺されたのである。
本作は、こうした史実を軸にフィクションを加え、大混乱に陥った当時の日本社会の縮図として福田村事件を作り上げている。
事実を報道せず流言蜚語に同調する新聞、煽り煽られながら殺意をエスカレートさせていく自警団と村人の様子などが物語に組み込まれ、震災の様相が立体的に描かれていくところに、本作の強度が発揮されていると言えよう。
さらに踏み込んでみると、澤田が朝鮮から帰国した直接的な理由は、1919年に朝鮮全土で起きた三・一独立運動の際の、日本軍による「堤岩里(チェアムリ) 虐殺事件」であることがわかる。
通訳として間接的に虐殺に加担した澤田は、その罪悪感によって性的不能となり、静子との夫婦関係もぎくしゃくしている。この「堤岩里虐殺事件」は、韓国では日本軍の残忍性が克明に表れた事件として歴史に刻まれている。日本ではあまり知られていないこの事件について、詳しく紹介しよう。
三・一独立運動と「堤岩里虐殺事件」
1919年3月1日、朝鮮の宗教指導者らによって読み上げられた独立宣言を発端に、朝鮮半島全体に広がった「三・一独立運動」は、非暴力を掲げていたにもかかわらず、日本軍の武力行使によって多くの犠牲者を出すこととなった。
4月に入っても続いていたデモの弾圧に躍起になっていた日本の憲兵隊は、15日に京畿道(キョンギド)の堤岩里に到着、運動に参加した村人30人余りを教会に集めて出入口を塞ぐと、銃を乱射して殺害し、証拠隠滅のために教会に火を放ったのだ。
憲兵隊は火から逃れて外に出ようとした人にも銃を向け、女性や子どもを含む29人の命が奪われた。さらに隣村、古州里(コジュリ)でも同様に約40人の村人が虐殺された。
憲兵隊によるこの蛮行は、駆け付けたアメリカ人宣教師によって写真に撮られ報道されたため、国際的に大きな批判を浴びた。
朝鮮総督府は、虐殺を指揮した陸軍中佐・有田俊夫を30日間の謹慎処分にしたものの、彼はのちの軍事裁判で無罪判決となった。
この虐殺が日本においては隠蔽・矮小化されたのに対して、韓国政府は1982年、堤岩里の虐殺現場を国の史跡に指定、虐殺の痕跡は記録され、今に至っている。
以上が、韓国では堤岩里・古州里虐殺事件とも言われる「堤岩里虐殺事件」の顛末であり、劇中では澤田が抱える罪悪感と、朝鮮人(にされた薬売りたち)を庇おうとする彼の行動の重要な動因として働いている。
だが実際には、堤岩里虐殺事件は「虐殺の連鎖」の過程で起こったひとつの事件に過ぎない。
その後も、1920年4月、ウラジオストクの新韓村(朝鮮人居留地)を日本軍が襲撃した「新韓村事件」、同年10月~翌1月まで、抗日勢力の討伐を口実に間島地方(現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州一帯)を襲撃し、朝鮮人を大量に虐殺した「間島事件」など、東アジアの広範囲に存在する朝鮮人が虐殺の対象となっていった。
もちろん日本国内も例外ではない。1922年7月、新潟県信越電力の建設中だった水力発電所の工事現場で数人~100人(推定)の朝鮮人労働者が虐殺された「新潟県朝鮮人労働者虐殺事件」(日本では信濃川逃亡労働者殺害事件)が起こり、翌年の震災下での虐殺に続いていく。
誰でも「不逞鮮人」になりうるという事実
こうした日本による朝鮮人の虐殺は、1945年の日本の敗戦/朝鮮の独立まで途絶えることはなかったが、1919年の堤岩里虐殺事件から1923年の関東大震災までの主な事件だけを見ても、そこには確かに「虐殺の連鎖」が存在していることがわかる。
その背景には、1919年の三・一独立運動が大きな契機となり、日本人の間で朝鮮人=日本の植民地支配に抵抗し、従わない「不逞鮮人」というイメージがステレオタイプ化されていったことが挙げられるだろう。
朝鮮からみれば、植民地支配という抑圧からの自由と独立を求めて「万歳」を叫ぶ非暴力的な運動に過ぎなかったものが、当時の新聞報道からもわかるように、日本にとっては「不逞鮮人による暴動」となって、「排除すべき存在」としての朝鮮人イメージが膨らんでいったのである。
エドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」を引用するまでもなく、このようなステレオタイプは、帝国(日本)の植民地(朝鮮)支配を正当化するための戦略に過ぎない。個々の朝鮮人が実際に不逞鮮人かは関係なく、権力側にいる日本人によって作り出された「朝鮮人=不逞鮮人」というステレオタイプによって虐殺は正当化され、それが大衆レベルで浸透していったことで、震災下における流言蜚語に繋がり、日本人の不安と恐怖の矛先が(不逞鮮人に作り上げられた)一般の朝鮮人に向けられたのである。
劇中でも言われるように、流言蜚語を広め朝鮮人虐殺を仕向けたのは当時の日本政府だったとされているが、その陣頭指揮を執った水野錬太郎は、三・一独立運動の当時、朝鮮総督府の政務総監として弾圧の先頭に立っている。
独立を叫ぶ朝鮮人が不逞鮮人となって形作られ、震災の混乱に乗じて排除しようとした水野の行動が、何よりも日本側の心理を表していると言えるだろう。
震災下では訛りの強かった地方出身者までもが虐殺されたという史実と同様、「福田村事件」が露わにするのは、朝鮮人か日本人かにかかわらず、「誰でも」不逞鮮人と見なされうるという事実である。そしてひとたび不逞鮮人に見なされれば、すぐさま排除・虐殺の対象になってしまう。
映画では、村人たちが目の前で対峙している行商人たちが朝鮮人か日本人かをめぐって紛糾するが、この事件が恐ろしいのは「日本人なのに朝鮮人に間違えられて殺された」からではない。
相手が誰かにかかわらず、自らが作り出した「不逞鮮人」というイメージの化け物にあてはめることで排除を正当化するという、虐殺の本質を福田村事件が突いているからこそ、この歴史は記憶されなければならない、風化させてはならないのである。
新たな虐殺の「予感の映画」にさせないために
1968年、大島渚監督は『帰って来たヨッパライ』という映画を作った。韓国人の日本への密航が横行する長崎県大村で、のんきに海水浴に興じていたザ・フォーク・クルセダーズの3人組が、ベトナム戦争派兵を逃れて密航してきた韓国軍人らに服をすり替えられたために、人々の猜疑心に晒され、韓国人密航者と間違えられ追いかけ回されるという風刺喜劇である。
大島は自らの映画を「見えない現実を作品にもたらす」「予感の映画」と呼び、現実をなぞるだけの映画はくだらない、自分の映画は状況を先取りしているのだと胸を張る。この映画が何を“予感”していたのか、大島は明言していないが、日本人が韓国人に見立てられ、日本人が自分は韓国人だと主張するといったアイデンティティの混乱の中で「作り出された朝鮮人」という構図が『福田村事件』と同じであることは指摘しておきたい。
『福田村事件』は一見、過去の歴史を扱った作品だが、日本が自らの加害の歴史を直視しない限り、この映画がいつまた「予感の映画」として機能してしまうとも限らない。過去のあやまちから学ばなければ、些細なきっかけで新たな虐殺はいくらでも起こりうるのだ。
100年目の9月1日が近づいている。映画『福田村事件』の影響ゆえだろうか、ここ最近、関東大震災をデマの横行や朝鮮人虐殺といった切り口で振り返る記事や番組を多く見かけるようになった。
東京都は相変わらず虐殺の事実をのらりくらりとかわそうとしているし、政府はそんなものどこ吹く風といった面持ちだ。だが、朝鮮人虐殺の歴史を風化させまいとする作り手の意志は、映画を見た人に確実に伝わることだろう。
本作をきっかけに9月1日が単なる「防災の日」ではなく、虐殺という事実が刻み込まれた歴史的な日であることを再確認するとともに、戦後を通じて「被害」の歴史を作り上げてきた日本が、再び「加害」の歴史と向き合い、風化させない歴史として記憶を紡いでいくことを切に願う。