ちょうど1年前、韓国で「マルモイ」という映画が公開された。昨年は3・1独立運動100周年の年だった。日本統治下の朝鮮で起こった民族独立運動だ。映画「マルモイ」には、朝鮮語の使用が禁じられ、日本語の使用を強要された1940年代、朝鮮語の辞書を作ろうとした人たちが描かれている。民族の根本ともいえる朝鮮語を守り、後世に残すこともまた一つの独立運動だった。
日本では今年春ごろ、「マルモイ ことばあつめ」というタイトルで公開予定だ。韓国語で「マル」は言葉、「モイ」は集めることを意味する。
日本でも、辞書作りを描いた映画といえば「舟を編む」(2013)がある。三浦しをんの同名小説が原作だ。その地味で膨大な作業に圧倒され、辞書を作ってくれた先人たちに畏敬の念を抱いた。ただ、「マルモイ」はその地味で膨大な作業が、さらにとても危険だったという違いがある。
朝鮮語の辞書を作る「マルモイ」の主人公たちは、朝鮮語学会のメンバーたち。朝鮮語学会というのは実在した組織で、1942年に朝鮮語学会のメンバーや関係者が検挙された「朝鮮語学会事件」が映画のモデルとなった事件だ。実際に獄死した人もいた。
と、ここまで読むと暗い映画を思い浮かべるかもしれない。もちろん、危険と隣り合わせの緊張感はあるが、全体的に心温まる映画だった。
オム・ユナ監督は、「タクシー運転手 約束は海を越えて」の脚本家でもある。ここ1、2年の間に韓国映画界では女性監督の活躍が目立ってきたが、オム監督も女性だ。2本の映画は悲劇を描きながらもどこか温かみが感じられる。
「マルモイ」の主人公キム・パンス(ユ・ヘジン)はハングルの読み書きができない。実際、当時の朝鮮では文盲率が高かった。これには日本の統治下で日本語を強要されたことや、十分な教育が受けられなかったことも背景にありそうだ。ある事件をきっかけに朝鮮語学会の辞書作りに参加することになったパンスは、徐々にハングルを学ぶ楽しさを知っていく。
言葉集めの楽しさが一番表れていたのは、「方言集め」の場面だった。パンスの呼びかけで各地方の出身者が集まり、例えば「ハサミ」をその地方で何と言うのかを一人一人が言い合い、朝鮮語学会のメンバーが記録していく。わいわいがやがや、庶民が集まって辞書作りに携わる活気が、その辞書作りを何とか食い止めようと執拗な朝鮮総督府の日本人たちと対照的に映った。
使用を禁じられた歴史のためか、韓国の人たちのハングル愛は格別のものがある。ひらがなやカタカナに特別の感情がない私は、時に戸惑うこともある。
昨年11月、韓国の慶州で「世界ハングル作家大会」が開かれ、私はこの「マルモイ」と、同じく昨年韓国で公開された「わが国の語音」という二つのハングルにまつわる映画に関して外国人の視点から発表した。
「わが国の語音」は、ハングル作りを描いた映画だった。ハングルはそもそも「庶民の言葉」として作られた言葉だ。難しい漢字が特権階級の独占物となっていたため、世宗大王が庶民にも分かりやすい文字を作り、1446年に「訓民正音」の名で公布した。映画の冒頭、ソン・ガンホ演じる世宗大王は、漢字で書かれた書物を捨てながら、「こんなものは庶民には伝わらない」と言う。
私がハッとしたのは、むしろ「漢字」に対する日本と韓国の見方の違いだった。日本も同様に中国から漢字が入ってきたが、そこから派生したひらがなやカタカナと同様、漢字も日本語の一部だ。だが、韓国ではいまだに漢字は「ウリマル」ではないようだ。「ウリ」は私たちの、「マル」は言葉の意味なので、韓国の人が「ウリマル」と言った時には「韓国語」という意味だが、基本的にハングルを指している。
1990年代までは新聞でも漢字とハングルが混在していた。それが今はハングルのみになっている。なぜ韓国で漢字を使わなくなったのか。中国語や日本語を学ぶのに有利なだけでなく、そもそも韓国語は漢字でできた単語が圧倒的に多い。すべてハングルで書くのは、すべてひらがなで書くようなものだ。韓国語そのものを正確に理解するのに漢字は重要だ。
「マルモイ」の中でパンスは、映画館のハングルの看板が「大東亜劇場」という漢字の看板に変わった時、落胆した表情を見せた。韓国の人にとっては、もともと中国から入ってきた漢字に、日本植民地時代を経て日本のイメージが加わったのかもしれない。
日本が与えた影響の大きさを、改めて「マルモイ」を通して考えた。