京都・祇園にある八坂神社の周辺は、着物姿の女性が目立つ。派手な柄の着物はレンタルショップで借りる人が多く、中国からの観光客が特に多いのだという。
その八坂神社のそばに「漢字ミュージアム」(漢検漢字博物館・図書館)がある。年200万人以上が受験する「漢検」の日本漢字能力検定協会が、2016年に開設した。2階建ての館内を歩くと、漢字やひらがな、カタカナがどうやって使われるように至ったのか、その歴史がすっと頭に入ってくる。
見学して特に興味深かったのは、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が、漢字を廃止しようとした経緯である。GHQの要請で米国から派遣された「アメリカ教育使節団」(大学の学長、教授、教育行政官ら27人)は、日本語をローマ字表記にして、漢字習得にかける勉強時間を外国語や数学の学習にあてるべきだと考えた。1946年に「アメリカ教育使節団報告書」を発表している。(邦訳は講談社学術文庫に所収)
報告書には、「歴史的事実、教育、言語分析の観点からみて、本使節団としては、いずれ漢字は一般的書き言葉としては全廃され、音標文字システムが採用されるべきであると信じる」とある。
ではなぜ今も漢字は使われ続けているのか。京都大学名誉教授で、「漢字ミュージアム」内にオフィスがある漢字文化研究所長の阿辻哲次は、漢字が廃止されなかった背景をこう語る。
「GHQは、漢字のせいもあって日本人が戦争に走ったと考えたんですね。英語のアルファベットのような『表音文字』のほうが、漢字のような『表意文字』より進んでいるとも考えていました」
教育使節団は、難しい漢字のせいで日本人の識字率が低いことを示そうと、全国調査を命じる。調査は、1948年8月に、全国から抽出された約17000人を対象に行われた。1問1点として90点満点で採点され、平均点は、100点満点に換算して78点だった。正解がゼロ(識字できない人)は2%程度にすぎなかった。これは教育使節団の想定と全く異なっていたこともあり、漢字廃止には至らなかった。
「漢字廃止論」だった伊藤忠商事社長、伊藤忠兵衛
もっとも、GHQを待たずとも、漢字の廃止論は、戦前からあった。
有名なのは、明治期の「郵便制度の父」前島密である。前島は、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜に仮名文字での教育の普及を建白した。明治初期には、初代の文部大臣を務めた森有礼が英語を公用語とするよう提唱、終戦直後には作家の志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張した。
フランス語は極論だとしても、戦後の国語審議会で、伊藤忠兵衛(2代目 1886年~1973年)ら、「かな文字派」=「表音派」が大きな力を持った時期があった。伊藤忠兵衛は、伊藤忠商事と丸紅の礎を築いた経済人である。俳句をたしなむ文化人であったが、横書きのカタカナを使うことを推進した「カナモジカイ」の設立に携わるなど、戦前から戦後にかけて、漢字廃止運動にかかわった。
阿辻は、「表音派」が力を持った風潮の根底に、文化人・経済人の一部にあったコンプレックスを指摘する。日本語では、英文タイプライターのような機器で文字を早く打てないということが、伊藤忠兵衛が「カタカナ」運動を推進しようとした大きな理由になっていたという。
カナタイプが使えなかった瀬島龍三
日本漢字能力検定協会理事長の高坂節三は、1959年に伊藤忠商事に入社した。最初は大阪本社に配属され、数年後、東京本社に異動する。そのころ、伊藤忠商事社内ではカタカナ用のタイプライターである「カナタイプ」が使われていた、と証言する。
「ただし、若手も含めて全員というわけではありませんでした。自分の机にはカナタイプはなかった。幹部は使っていましたね」
社内に印刷を担当する課があった。手書きで書いた文書のうち、重要なものは、そこで植字工が活字を拾い、活版を使った印刷が行われ、正式な文書として印刷されていた。だが、手書きの文書を印刷に仕上げるには時間がかかる。
正式な文書をすぐ英文タイプライターで打てる欧米式に近づけたいと、伊藤忠兵衛は社内での重要文書については、幹部たちにカナタイプで打たせる実践を行っていたのである。英文タイプと文字の配列が違うので、使いこなすにはある程度の訓練が必要だ。
高坂が当時、大阪や東京で所属していたのは、経営企画を担う業務部。上司の業務本部長は、陸軍出身でシベリアに11年抑留された瀬島龍三(のち伊藤忠商事会長)だった。
高坂の初の海外出張は、米国と欧州を回るものだった。瀬島の前任の本部長は、パリに駐在する欧州統括役になっていた。瀬島は、前任者あてに、毛筆で巻紙に記した手紙を、高坂に託した。パリでそれを高坂から受け取った統括役は「瀬島さんはこれだから(困る)なあ」と苦笑いし、その場で、カナタイプをカタカタと打って返信を印刷し、高坂に託したという。瀬島は、伊藤忠の幹部ではあったが、カナタイプを使えなかった、あるいは使わなかったのである。
相談役だった伊藤忠兵衛が、ぶらりと業務部に現れることもあった。「カナタイプを使うのは、私の遺言と思ってくれ」と、そこにいた数人に話したことも、高坂は記憶している。
ただ、伊藤が73年に亡くなったあとには、伊藤忠商事内でカナタイプは次第に使われなくなったという。高坂は伊藤忠商事で常務取締役を務めたあと、栗田工業会長などを経て、2011年に日本漢字能力検定協会の理事長となった。高坂の兄は、著名な国際政治学者で京大教授だった高坂正堯である。
漢字廃止運動を社内で実践していた伊藤忠商事の出身である高坂が、漢字能力を高めることを目的とする日本漢字能力検定協会の理事長であることは、不思議な巡り合わせである。
「漢字制限論」を唱えた作家、山本有三
「漢字廃止論」は、60年代に影をひそめたが、使える漢字の数をなるべく少なくする「漢字制限論」も、70年代までは影響力があった。
「漢字制限論」を唱えた有力な人物は、小説「路傍の石」などで知られる作家、山本有三(1887年~1974年)である。戦後、GHQの勧告を受けて文部省は、国語政策を提言する組織である「国語審議会」の中に、「標準漢字表再検討に関する漢字主査委員会(以下 主査委員会)」を設けたが、その委員長に就任したのが山本だった。山本は、戦前から「ふりがな廃止論」を唱え、漢字の大幅な制限を主張していた。
安田敏朗の著書「国語審議会」(講談社現代新書)は、このあたりの経緯を詳しく記している。山本は1946年3月に結成された「国民の国語運動連盟」の中心人物でもあった。日本国憲法の口語化を申し入れ、実現させたのも、この組織の中心メンバーだったという。連盟の設立発起団体には、先に触れた伊藤忠兵衛らが設立した「カナモジカイ」など33団体が名を連ねた。
この連盟の前身は「国語文化研究所」であり、その設立の契機は、GHQの海軍大尉が山本有三邸を訪問したことにあったという。ホールから日本語の難解さを指摘された山本らは、かねてからの主張もあり、GHQの力を借りる形で民間団体糾合をはかった。その意味では、「山本の背後にGHQの影を感じないといったらウソになるだろう」と安田は記している。
山本は、1946年の「主査委員会」において、それまでの「常用漢字」という言葉ではなく、「当用漢字」への名称変更を求め、了承された。山本には、社会情勢に応じて、数年ごとに修正し、将来は別に作る「教育漢字表」(義務教育期間中に読み書きともにできるようにする当用漢字表の中の881字)の線に近づけたいという意図があったのだという。
1964年生まれの私は、小中学校時代には、「当用漢字表」をもとに漢字を習った世代である。当時、「当用」とは何の意味だかわからなかったが、「日用の使用にあてる」という意味だったようである。
40年前のワープロ誕生、潮流を変えた
「当用漢字」は1850字でスタートし、四半世紀にわたり、字数は増えなかった。また、山本がこだわった「ふりがな廃止」も「当用漢字」について実行された。「当用漢字表」の「使用上の注意事項」には、「ふりがなは、原則として使わない」と明記されている。「漢字廃止論」が力を失ったあとも、「漢字制限論」については、1970年代まで、長期間にわたって影響力があったといえる。
漢字文化研究所長の阿辻哲次は、「潮流を変えたのは、技術革新だった」と話す。「日本語ワープロの登場で、漢字制限論の力が失われたと思います」
「漢字ミュージアム」には、東芝製の初代のワープロが展示されている。発売は40年前の1979年2月。重さは200キログラムを超す。発売当初は630万円と高かったが、その後ワープロの値段は急速に下がっていく。
「当用漢字」が「常用漢字」と名称が変更され、95字増えて1945字となったのは、ワープロの登場から2年後の1981年のことである。「常用漢字」は、一般の社会生活における漢字使用の「目安」だとされ、ふりがなも必要に応じて使うことを認めた。さらに2010年の改訂で、「常用漢字」は2136字まで大幅に増えた。
国語学者、金田一春彦は、著書「日本語(新版)」(岩波新書、1988年刊行)で、こう記している。
「終戦直後の文部省は、(中略)、漢字の制限を断行した。いわく、欧米では、タイプライターが一つあれば、手で書くよりももっと速く、そしてもっときれいな文字が書ける、それに引き換え日本語の方は、漢字・仮名の併用というところから、タイプライターの使用が困難で、カタカナだけのタイプライターならばまあ簡単であるが読みにくく、漢字・仮名のものにすると能率がすこぶる悪い。これでは欧米の進んだ文化についていくことは到底できない。日本人は、漢字の数を少しでも減らさなければならない――と考えて、当用漢字1850字を決め、官庁から出る文書はすべてこれでまかなう、一般もなるべくこれに従うようにという法令を出した。(中略)筆者はそのころ、まだ文部省国語課の嘱託だったが、一も二もなく文部省を支持し、ラジオに雑誌に漢字制限論を論じたものだった。――が、三十余年たった十年ぐらい前から、この考えは捨てた。それはワープロという機械の発明によってである」
今やさらに時代は進み、パソコンやスマートフォンで、誰でも難しい漢字を使える時代となった。阿辻は、「当用漢字表」にしたときに、必要以上に略字化したため、語源がわかりにくくなったり、字の意味が失われたりするケースがあることを批判している。たとえば、「臭」「突」という文字の下の部分は、旧字では「大」ではなく「犬」であった。その「てん」を抜くことで、語源(字源)はわからなくなる一方、画数は一つ減るにすぎない。
また、常用漢字について、一般によく使われる漢字が入っていない結果、「まぜ書き」になるケースが多いことを問題視している。「飛翔」「唾液」「斡旋」「邁進」「混沌」などは、表外字が含まれているため、「飛しょう」「だ液」「あっ旋」「まい進」「混とん」と表記するケースも多い。漢字を書く苦労が、パソコンなどによって大幅に軽減されている以上、ごく簡単な修正によって語源がわかりやすくなるのなら旧字に戻したり、不自然なまぜ書きにならないよう常用漢字を増やしたりすることは、たしかに検討してよいことではないかと私も思う。
日本語を思考に使う意味
改めて、漢字の廃止、ローマ字の採用を唱えた「アメリカ教育使節団報告書」を読み返してみる。
「ローマ字は民主主義的市民精神と国際的理解の成長に大いに役立つであろう」
「いまこそ、国語改革のこの記念すべき第一歩を踏み出す絶好の好機である」
「日本人は、国内生活においても、また国際的思考においても、簡単で能率的な文字による伝達方法を必要とするような新しい方向に向かって進み出している」
「ローマ字の採用は、国境を超えた知識や思想の伝達のために大きな貢献をすることになるであろう」
この報告書に従い、日本人が漢字や仮名をつかわず、みんなローマ字を使うようになっていたら、日本語はすっかり変質していただろう。日本人にとっても、日本語の良い文章が書けるようになるには、膨大な時間がかかる。その時間を使って、英語を学習していたら、たしかに日本人の英語力はもっと伸び、「国境を越えた知識や思想の伝達」には便利だったのかもしれない。
アメリカの国務省が外交官を養成するプログラムで、日本語はもっとも習得が難しい「カテゴリー5」に分類されている。外国人にとっても、ローマ字を使った日本語は比較的マスターしやすい言語になっていたかもしれない。
ただ、だからといって、戦後、日本語がローマ字表記になっていたほうがよかったとは思えない。このグローバル化時代、英語が上手であれば、世界中で仕事がしやすいのは事実である。ワシントンのシンクタンク研究員との雑談で「米国人は、母国語が英語というだけで、ほんと得だよね」とからかったことがある。彼女は真顔で「英語しか話せない多くの米国人は、世界の多様性が理解できない。逆に、大きなハンディだ」と反論した。
日本語と英語の表記や構造が全く違うことから、日本人の英語習得の苦労は絶えないが、彼女の見方も真実を突いている。日本人は、漢字、カタカナ、ひらがなが交じる繊細な日本語を使いこなしながら世界を相対化し、独自の思考や文化、美的感覚を磨ける面があるように思う。
ノーベル化学賞を受賞した野依良治は、今年1月の教育新聞でのインタビューで、科学における日本語の大切さを強調している。江戸時代から、外国語を漢字翻訳したことによって「抽象概念」の理解が進み、一般人の理科の理解能力が高まったと野依はみる。「英語は外国語であり『道具』です。しかし、母語である日本語は『精神』そのものであると知ってほしい」と述べている。「日本語の知的伝達能力は圧倒的に高いので、今後も読み書きについては最大限の努力を」と訴える。
また、京都大学総長の山極寿一は、ジャーナリスト池上彰との対談(週刊文春の今年の新年特大号)で、日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹の「中間子理論」は、西田幾多郎の哲学に通じていると指摘。「西田哲学というのは、『間』の理論で、つまり『私とあなた』の“と”のことなんですね。これは、なかなか欧米人には考えつかない、日本的な思考の効用だったと思います」と述べている。
言語は、思考の中核をなしている。日本語の表記がローマ字にならず、また、ワープロの発明によって、多くの漢字が生き残ってよかった、と私は思う。ただ、戦後、「当用漢字表」において基本的にふりがなが廃止されたのは残念である。漢字にふりがながついていることによって、子供たちが難しい漢字を覚えやすくなり、漢字の読み方を間違えて記憶することも避けられる。戦前の知識人の教養は、「ふりがな」の効用も大きいのではないかと思うこともある。ふりがなを多用することで、外国人にとっても、日本語を習得しやすくなる効果もあるのではないだろうか。
日本語の美しさは大切にしたい。同時に、学びにくい「孤高」の言語である必要はないとも思う。
(2019年1月24日付で朝日新聞オピニオン面に掲載された「ザ・コラム」に大幅に加筆しました)