朝鮮戦争の勃発から73年 映画「高地戦」が暴く矛盾 激しい戦闘と密かな交流の物語
それにしても、つい数年前までは日本の植民地からの独立を求めて共に戦ってきた同じ民族同士が、なぜこうも殺し合わなければならなかったのだろうか。もちろん、その背景には米ソの対立に基づく冷戦構造があり、朝鮮半島はその代理戦争の場になったことも事実であるが、イデオロギーの対立や一握りの権力者たちの歪んだ欲望のせいにするには、あまりにも恐ろしく悲惨な結果である。
朝鮮戦争について、日本では「朝鮮特需」が第二次世界大戦敗戦後の復興を後押ししたとか、GHQによる占領を象徴する存在である「マッカーサー」が仁川上陸作戦で活躍したことなどが歴史の教科書に載っているくらいで、今もって充分に知られているとは言えないように思われる。そこで今回は、朝鮮戦争末期の膠着状態が続く戦況のなか、多くの命が無駄に失われていった歴史に基づく『高地戦』(チャン・フン監督、2011)を取り上げ、韓国の近現代史における最大の悲劇の一端を紹介したい。
チャン・フン監督は、ひょんなことから再会した南北の元政府要員が次第に心を通わせていく『義兄弟 SECRET UNION』(2010)や、光州事件をソウルのタクシー運転手の視点から見つめた『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017)など、歴史に基づくドラマをメロドラマ的に描く手腕が高く評価されているが、本作も例外ではなく多くの観客の涙を誘った大ヒット映画である。
はじめに、朝鮮戦争勃発に至る背景から休戦に至るまでの概要を記したうえで映画の物語を紹介しよう。
1945年8月、日本の敗戦によって独立を果たした朝鮮半島だが、その直後からすでに米ソによって引かれた38度線を境に南北に分かれていた。朝鮮の人々は半島の統一を願っていたが、それは叶わないまま、1948年、大韓民国(8月)と朝鮮民主主義人民共和国(9月)が誕生、南北分断が確定した。
そして1950年6月、北朝鮮の全面的な奇襲攻撃で始まった朝鮮戦争は、破竹の勢いで攻めてきた北朝鮮の人民軍に押されて、韓国軍はあっという間にソウルを奪われ、釜山方面まで追い詰められた。
もはや北朝鮮の勝利かと思われたその時、アメリカを中心とする国連軍の参戦と、マッカーサーが指揮した仁川上陸作戦の成功で形勢は一気に逆転、北朝鮮は中国との国境付近まで後退し、絶望的な状況に追い込まれた。
すると今度は中国軍が参戦して北朝鮮の危機を救い、「人海戦術」と呼ばれる夥しい数の兵士を投入したのである。中国軍の数に太刀打ちできなくなった韓国・米軍は退却しつつも、ソウルを再び奪還するなど、戦況は次第に38度線付近で膠着状態に陥っていった。
朝鮮戦争自体は3年間続くが、半島全土を舞台にした戦いは勃発から約1年で終わり、その後の2年間は38度線付近での戦闘に終始することになる。
なかでも、熾烈な戦いが繰り広げられたのが、作戦展開に有利な地理的に高い地帯を先占しようとする「高地戦」であった。
映画の冒頭で示されているように、本作は停戦協議が難航している時期を背景にしている。
停戦の要求は、はじめにソ連と北朝鮮によって持ち出され、米軍(国連軍)が応じる形で1951年7月より本格的に協議が開始された。
当時、北朝鮮/韓国のいずれかによる南北の統一は到底無理との共通認識があったものの、唯一、李承晩(イ・スンマン)大統領のみが北進統一の主張を曲げなかったため、韓国が当事者として交渉の場に立たないまま、あくまでもオブザーバーの立場で同席し、協議は進められた。
そして「捕虜送還」に関して、南北どちらを選ぶかは捕虜の自由意志に任せようとする国連軍側と、無条件に北への送還を要求する北朝鮮側の対立、さらには「軍事境界線」をめぐる折り合いがつかず、協議は暗礁に乗り上げてしまった。
というのも、高地戦では毎日のように奪う、奪われるの攻防が続くため、停戦の時点で確定する軍事境界線によって1ミリでも広い領土を獲得したい両者にとって、互いの思惑が一致するわけがないからだ。となると、停戦時点でどこを占領しているかによって捕虜の状況も変わるため、協議と決裂を繰り返す状態が2年もの間続くことになった。
映画で兵士たちがしきりと「停戦はまだか」「すぐに停戦になるはずではないか」と問いかけるのは、合意間近と伝えられながらも一向に合意に至らない当時に誰もが共有していた焦燥感にほかならない。そしてそのことが、高地戦の継続を意味したのは言うまでもない。この間にどれだけの若く尊い命が失われたかを思うと、今でもいたたまれない気持ちが拭えない。
本作は、上記のような駆け引きの悪循環を背景に、攻防戦における南北兵士間の密かな「交流」を物語の軸に置いている。この交流はもちろんフィクションなのだが、だからこそ、映画が伝えようとするメッセージは明確になる。
それは、相反するイデオロギーに翻弄され、互いに殺し合い、分断され、いまだに対峙が続いているとしても、いつでも同じ民族同士、共存することはできるだろうという希望である。しかし朝鮮戦争以来の南北の歴史が「共存と排除」の間を行ったり来たりしながら現在に至っているように、その裏にはいつでも互いに殺し合い、排除し合うこともできるのだという可能性もまた潜んでいるのである。
本作で描かれる、生きるか死ぬかの攻防と、その後に交わされるタバコや酒、手紙、写真など戦闘とは無縁の交流は、矛盾しているように見える一方で、イデオロギーと人間の関係をわかりやすく提示してくれているとも言えよう。登場人物たちはイデオロギーの遂行者として殺し合う一方で、個の人間に戻った後は交流するという二つの側面を持つことで、高地戦(=戦争)の無意味さや矛盾が露呈されるのだ。
「南北兵士の交流」というモチーフや主人公ウンピョを演じたシン・ハギュンという俳優から、映画『JSA』(パク・チャヌク、2000)を思い起こす人も多いのではないだろうか。
実は、本作のシナリオを手がけたのは、『JSA』の原作小説「DMZ」(demilitarized zone=非武装地帯)の作者であるパク・サンヨンなのである。「DMZ」で、南北の対立がもっとも先鋭的に浮かび上がる場所=共同警備区域を俎上にあげ、反共(=排除)の無効化を宣言したパク・サンヨンは、本作でさらに一歩推し進め、未来に向けた反戦(=共存)を訴えていると考えられるだろう。
それでは、映画の中の描写をいくつか取り上げ、実際の歴史と照合しながら、映画における効果を含めて検討してみよう。
映画の冒頭、ウンピョは、人民軍兵士に食料や水を提供したという理由だけで多くの民間人が「アカ」に仕立てられ、虐殺されていることへの異議を申し立て、懲罰の代わりに前線に送られることになる。このことからもわかるように、朝鮮戦争では大勢の普通の人々が、意味もなく虐殺されていた。
例えば、戦争中に生み出された「골로 간다」(コルロガンダ)という言い回しは、直訳すれば「谷へ行く」なのだが、当時は「死」を意味していた。南北を問わず民間人を虐殺する際には、主に山の谷に連れて行って銃殺したり、生き埋めにしたりしたことから生まれた言葉なのだ。
ウンピョが派遣された「エロック高地」は実在の地名ではない。「KOREA」の表記を逆さにしただけの「AERO-K」なる架空の名称からも、AERO-K高地を舞台に南北が無意味に繰り広げる争奪戦が、まさに(南北)KOREAがKOREAを奪い合う朝鮮戦争の縮図であることを示しているとも言える。
実際の高地戦は、現在の軍事境界線を中心に全戦線にかけて行われたが、中でももっとも悲惨だったとされるのが、江原道(カンウォンド)の「白馬(ペクマ)高地」戦闘である。1952年10月6日から十日間続いたこの高地戦で打ち合った砲弾は南北合わせて約28万発、死者は両側合わせて1万5千人以上に達し、最終的に韓国軍が占領するまでの間に、24回も高地の「あるじ」が替わったという。
製作側は、映画では特定の高地戦をモデルにしているわけではないと語っているが、その激しさや凄惨さからは、明らかに白馬高地戦を想起させる。ただし、南北の争いとは言っても、高地戦における南の敵はほとんどの場合、中国軍であり、人民軍の兵力はごくわずかに過ぎなかった。
かつての盟友・スヒョクと再会を果たしたウンピョだが、別人のように変わってしまったスヒョクにウンピョは戸惑いを隠せない。そしてスヒョクらの「ワニ部隊」は一見和気あいあいとした雰囲気ながらも、精神を病んだ仲間を抱えているなど、彼らの経験が尋常ではないことを匂わせつつ、やがてウンピョに明かされる壮絶な「地獄」とは、退避手段をめぐる仲間同士の殺し合いであった。
だが映画的には衝撃的な伏線として機能する浦項(ポハン)撤収作戦は、実際には味方殺しという事実はなく、民間人や家畜までも無事に避難させた韓国側として成功した作戦として記録されているため、公開後に多くの批判を浴びることになった。ちなみに、浦項作戦に船を提供したのは、国連軍から雇われた日本の民間の船舶会社だったという。
そしてラスト、停戦協定が合意に至ったというニュースに喜びが爆発するエロック高地。間に合わなかった、助けられなかった命を惜しみながらも、清々しく互いをいたわり合う南北兵士たちに、無情な指令が伝えられる。協定が発動する午後10時までの12時間の間に、少しでも多くの領土を確保するため、戦闘を続けろというものだ。
停戦の喜びから一転、再び対峙し合った南北兵士たちは文字通りの死闘を展開し高地は南北入り混じった兵士たちの「死」で埋め尽くされる。その死がいかに無駄なものであるかは、誰よりも観客たちが知っている。
だが、『戦線夜曲』を一緒に歌った南北軍の殺し合いという、この上なくドラマチックなこの場面も、幸いなことに史実とは異なっている。確かに停戦の合意から協定の発動までには半日近くの時間があったが、さすがに無駄な戦闘は避けようと、互いに形だけの単発砲撃にとどめられた。
本作では、「2秒」という異名を持つ人民軍の女性スナイパーが登場する。韓国軍にとっては脅威となる「2秒」だが、同時に彼女は手紙や写真を南にいる家族に送ってほしいとワニ部隊に頼んでおり、スヒョクもまた、「2秒」の射殺作戦を指揮しつつ彼女からの依頼を遂行する。もちろん「2秒」もスヒョクも互いの顔も名前も、「2秒」が女性であることも最初は知らない。知らないというこの設定によって、「イデオロギーの遂行者=殺し合い」と「個としての人間=交流」という矛盾の間を彼らは行き来するすることができるのである。
殺した敵が交流相手であることを登場人物たちは知らず、代わりにすべてを知っている観客だけが、その矛盾の源である高地戦(=朝鮮戦争)の本質について考えさせられることになる。
なお、「女性スナイパー」が実在したかについては、人民軍がばら撒いた宣伝ビラにその存在が書かれていたものの、彼女が戦闘に参加していたかどうかは確認できていないという。
このように、事実とフィクションを巧妙に取り入れ、時に賛否両論を引き起こしながらも、『高地戦』はメロドラマとしても魅力的な戦争映画なのである。
戦争の勃発から73年目を迎えた2023年現在も、南北に分断されたまま休戦状態が続く朝鮮半島は、軍事境界線を挟んで韓国と北朝鮮がにらみ合いを続け、いつ戦争に発展するともわからない緊張感に包まれた東アジアの火薬庫と化している。
そして、些細なきっかけで南北が険しい雰囲気になることも珍しくない。そのために、平和な時代を生きているはずの韓国の若者たちは、今なお、輝かしい青春の1ページを兵役に費やさなければならない。
戦争とは、イデオロギーとは果たして何だろうか。人間のためのイデオロギーなのか、イデオロギーのための人間なのか。
本作の凄まじいラストシーンが伝えるメッセージは明らかである。人間に優先するイデオロギーなどないはずだと。