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韓国映画「南山の部長たち」 朴正煕大統領暗殺の裏側を描いた原作者インタビュー

東亜日報より 更新日: 公開日:
「南山の部長たち」原作者の金忠植氏

韓国現代史で最も劇的な一場面だ。1979年10月26日、中央情報部(KCIA)の金載圭(キム・ジェギュ)部長が朴正煕大統領を撃った。この40年前の事件が、2020年1月、呼び起こされた。旧正月の連休に合わせて公開された映画「南山の部長たち」を通してだ。この映画は暗殺事件までの40日間のドラマティックなストーリーを中央情報部を中心に描いた。イ・ビョンホン、イ・ソンミン、クァク・ドウォン、イ・ヒジュン、キム・ソジンら実力派俳優たちと、「インサイダーズ/内部者たち」のウ・ミンホ監督が、寒さも溶かすような熱い作品を作り上げた。

映画を通し、同名のベストセラーも再び注目を浴びている。53万部が売れた単行本「南山の部長たち」(注:日本では「実録KCIA-南山と呼ばれた男たち」のタイトルで翻訳出版された)。1990年8月から1992年10月まで2年2ヶ月の間、東亜日報で連載された記事が元になっている。嘉泉大学の金忠植(キム・チュンシク)特任副総長が、東亜日報の記者だった当時、週末版の「東亜広場」で連載した。金氏は記者時代、韓国記者賞を2度受賞している。

今も国家情報院は強力な機関だが、前身の中央情報部は法外の機関だった。当時、中央情報部の部長が担った仕事は二つ。「南山の部長たち」に出てくる逸話だ。1978年1月、金載圭部長が「金鍾泌(キム・ジョンピル)議員が大統領を夢見ている」という情報を聞き、家宅捜索の後、金鍾泌にこう言った。「(中央情報部の仕事は)一つは共産党を捕まえること、もう一つは大統領閣下に徹頭徹尾お仕えすることです。万が一、閣下(金載圭は金鍾泌をこう呼んだ)を含む誰かが変な考えを持った時には金載圭が黙っていません」

しかしながら、1年10ヶ月後に金載圭部長は「長い間民主革命を夢見てきた」と言って、朴正煕大統領を射殺した。金鍾泌はこの事件について、こう語った。「私は彼(金載圭)が車智澈(チャ・ジチョル)との間の競争で負けそうなので、車を撃って、憎しみのあまりに朴大統領まで撃ったのが10・26だったと思っている」

映画と本の内容は、少し違いがある。著者の金氏は「原作が叔父なら、映画は甥」と言う。原作は10人の中央情報部の部長の歴史を通して18年の朴正煕時代をまとめ、映画はその核心である4代金炯旭(キム・ヒョンウク)と8代金載圭について集中的に描いた。2時間の枠のためだ。

「ウ・ミンホ監督が2016年に私を訪ねてきて、本の内容を映画化したいと言いました。ウ監督は兵役を終えてこの本を読み、手が震えたそうです。マーロン・ブランド主演の『ゴッドファーザー』みたいに作りたいと思った、と。いくつかの作品は失敗したが、『インサイダーズ』で成功し、この映画を作る気になったそうです」

映画では、キャラクターの名前が実際とは少し違って出てくる。金載圭はキム・ギュピョン(イ・ビョンホン)、金炯旭はパク・ヨンガク(クァク・ドウォン)、車智澈はクァク・サンチョン(イ・ヒジュン)だ。俳優たちの渾身の演技がスクリーンを圧倒する。イ・ヒジュンは実際の車智澈のイメージに近づけるため、体重を25キロも増量したという。

特ダネで拷問受け、報道を決心

映画化をきっかけに1月6日、東亜日報の社屋で金氏に会った。かつて金氏も勤務したビルだ。金氏は「実家」に戻っての初めてのインタビューに少し興奮した様子だった。暗黒の時代に最善を尽くして取材したことについてのインタビューだったが、「恥ずかしい」と謙遜する金氏。

映画はエンターテインメントの要素が強いが、その歴史を経験した人にとっては、過去は忘れられない痛みだ。連載記事「南山の部長たち」が生まれたのも、まさに中央情報部(国家安全企画部の前身)があった南山だった。1985年夏、南山の安全企画部の調査室。当時、金忠植記者は特ダネを報じ、安全企画部は包括的報道禁止の指示に背いたとして金氏と編集局長、政治部長を南山に連行し、拷問した。

「パンツ以外全部脱がされ、取材源を言えと拷問を受けました。暴行を受けても取材源を言わない私の口に履いていた靴を突っ込んできました。私の自尊心を打ち砕こうとしたのです。十数時間、よだれをたらしながら辱めを受けました。その時に思いました。『憲法と法律がある法治国家のソウルのど真ん中でこのような酷いことが起こったなんて想像できるだろうか。いつかこのことを記録として残そう』と。中央情報部も安全企画部も政治と経済に与える影響力は絶大だった。このような機関についてきちんと書かないことは、記者として職務放棄、背任だと思いました」

以後、金氏は連載記事を書く適当な時期を待った。1990年に編集局長が代わり、金氏の企画案が採択された。

「連載のタイトルを『南山の部長たち』として、10回くらい書けば他の記者が続きを書くものと思っていました。ところが、5、6回分を書いたところで、記事の分量が増えました。編集局長が私を別途呼び出して、『金忠植が一人で書け』と言いました。編集局長の期待がありがたくもあり、一方で担当の業務もあるので途方にくれました。10回を超えると1面の分量に増えて、広告もついて、やめるにやめられなくなりました」

―朴正煕時代は終わったと言いますが、今「南山の部長たち」が示唆するのは何だと思いますか?

「毎週末、太極旗とろうそく(注:太極期は保守系の集会、ろうそくは進歩系の集会)が広場を埋めるじゃないですか。太極旗は朴正煕の精神と遺産に対する賛美と信奉ですよね。結局1961年のクーデターから60年近くの歳月の間、韓国社会は朴正煕の陰に埋もれている。朴正煕時代にやっていた官製デモを、2014年に金淇春(キム・ギチュン)秘書室長が主導したじゃないですか。その時、偶然光化門広場で約束があったので現場を目撃しました。なぜ彼のような明晰な人が過去のやり方を繰り返すのか。擬製の正義と反共国家の枠の中で時代錯誤的に引き込まれているんです。文明は進化しているようで、権力と組織の人間関係の中では前に進めない。そのような人間社会の『バックミラー』の一部が『南山の部長たち』ではないかと思います」

(2020年1月25日付東亜日報 チョン・ヒョンサン記者)

(翻訳・成川彩)