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韓国生まれの米国人キム・ドンチョル博士、北朝鮮抑留から釈放まで「31ヶ月の悪夢」

東亜日報より 更新日: 公開日:
キム・ドンチョル博士は2016年3月25日、平壌人民文化宮殿で開いた記者会見で涙を流した(上の写真左)。1ヶ月ほど後の4月29日、最高裁判所で10年の労働教化刑の宣告を受けた(上の写真中央)。キム博士は今年5月9日に釈放され、米国ワシントンアンドルーズ空軍基地に到着後、両手を挙げて勝利のポーズをとった(上の写真右)。11月初め、韓国を訪問し、ソウルの清渓川で、キム博士は「解放され、北朝鮮で収監された話をするなんて夢みたい」と話した。

「平壌から目隠しされたまま車で1時間以上走った。田舎の名もない労働教化所(刑務所)に閉じ込められ、過ごした。時に夜10時まで働き、一日に何度も死にたいと思うくらい苦しかった。こうやって外に出て話せるようになったなんて、信じられない」

今年5月9日、北朝鮮で2年7カ月抑留され、釈放された韓国生まれの米国人キム・ドンチョル博士(65)は、今月3度にわたる東亜日報のインタビューを受け、当時の悪夢を振り返ってこう話した。彼が北朝鮮から解放された後、メディアのインタビューを受けるのは今回が初めて。彼はこの間米国で治療を受けながら安静に過ごしていたが、10月、自身が暮らしていた中国吉林省延吉を経て、11月初めにソウルを訪れた。

キム博士はドナルド・トランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長が初めて首脳会談(6月12日)をシンガポールで開くことを合意した後、キム・ハクソン氏、キム・サンドク氏と共に解放された。トランプ大統領は、キム博士一行の到着を、ワシントンのアンドルーズ空軍基地でメラニア夫人、マイク・ペンス副大統領夫妻と共に待ち受け、大々的な歓迎イベントを開いた。この様子は全世界に生中継された。

北朝鮮が仕掛けた罠にかかった

2015年、北朝鮮から労働党創建日(10月10日)の行事に招待されたキム博士は、羅先経済特区に位置する豆満江ホテルに滞在し、行事出席の準備をしていたところ、同年10月2日に逮捕された。

「午前の早い時間に、市の人民委員会海外同胞事業所を訪問してほしいという連絡を受け、事業所に行って平壌に持っていくおみやげなどを相談し、出てきたところだった。8人乗りのバンに乗って事業所構内から出ようとした瞬間、普段からよく知っている退役軍人の男性Aさんが、自転車で車の行く手をふさいだ」

あいさつをしようと、運転席の窓を開けると、彼は突然USBと封筒を車の中に投げ入れ、行ってしまった。変に思って彼を追おうとした瞬間、市の保衛部幹部が助手席に乗ってきて、「車を南山(ホテル)に回せ」と叫んだ。罠にかかったと思った。羅先の南山ホテルは、保衛部が重要人物の取り調べに使う場所だからだ。

キム博士は、南山に到着した後、目隠しをされたまま、羅先沿岸のビパ島に移された。そして1カ月ほど取り調べが続いた。USBと封筒に核開発と軍事情報などが入っていたという疑いが書かれた千ページ余りの書類が作られた。「否定しても、意味がなかった。もう一度陳述書を書かせ、『平壌に行って好きなようにしろ』と言って、署名しろと何度も強要された」。取り調べに当たって、拷問や深刻な暴力はなかった。代わりに壁に顔をくっつけて1時間ほどそのまま立っているという罰を受けた。「10年以上、対北関連事業をやってきて、多くの慈善活動もした。公務員や党関係者とも親しくしていたのに、なぜこんなことになったのか、どんなに考えても答えは見つからなかった。出てきた結論は、北朝鮮が米国と交渉する際に利用する米国人の人質として、私が必要なのかもしれないということだった」

平壌に移送され、国家保衛部第3局で取り調べを受けた。保衛部は、すでにキム博士の罪名を決めていた。彼が罪を認めなければ怒り出し、壁に向かって立っていろと言い、陳述書を再び書かせるということが繰り返された。「むしろ殴られて終わった方がいいと思うほどだった。取り調べを終わらせるために罪を作る方がずっと苦しかった」

ねつ造されたインタビュー

逮捕され、3ヶ月がたった2016年1月11日の朝、キム博士は突然の呼び出しを受け、取り調べを受けた場所から出た。彼が移送されたのは、平壌人民文化宮殿内の会議室。そこでCNN所属米国人記者とカメラマンが待っていた。インタビューを受けることをそこで初めて知り、彼が抑留されている事実はこの時初めて報道された。

2ヶ月余り後の3月25日、平壌駐在の外交使節らが見守る中、彼は再び報道機関の前に姿を現した。今回は北朝鮮、中国、ロシアの記者だった。朝鮮中央通信など北朝鮮のメディアは彼のインタビュー内容を詳しく報じた。主な内容は、北朝鮮の体制と最高指導者を誹謗し、北朝鮮に関する機密及び軍事情報などを外部に漏らした疑いなどを自白し、反省しているというものだった。「CNNのインタビューの時とは違い、3月のインタビューでは事前に質問内容が伝えられ、嫌疑を認める内容を話すよう指示を受けた」

キム博士は当時記者会見で「北京駐在の東亜日報特派員の紹介で、ソウルで韓国統一部の対北政策官に会った。北朝鮮の情報が入ったSDカードを渡し、対価をもらった」と話した。しかしながら、すべて事実ではないねつ造された話だ。「取り調べを受ける苦痛を終わらせるために話した内容。実名を挙げた人たちには申し訳ない」

孤独に震え、死を目の前に

キム博士は、インタビューが行われた2016年4月29日に開かれた最高裁判所の裁判で、10年の労働教化刑を宣告された。その後、平壌から車で2時間ほど離れた田舎の労働教化所に移された。「囚人番号429番」。田舎の労働教化所の鉄条網の中は、古い1階建ての建物一つだった。建物には9つの監房があったが、彼が収監された4号室以外はすべて空いていた。軍人2人が2時間ずつ交代で監視し、監房とトイレには監視カメラが24時間回っていた。土地の開墾や農作業がほとんどの作業時間は午前8時から午後6時までと決まっていたが、一日の作業量をこなせなければ、夜遅くまで続くこともあった。夜は食事が終われば、座ってカメラを見つめるだけの「罰でないような罰」を受けねばならなかった。

監房の薄暗い電灯は就寝後も消えなかった。タオルで目を覆うことも許されず、まともに寝ることができなかった。壁には「教化人10の準則」が書かれた紙1枚が貼ってあった。準則の中には、「聖書と雑誌を読むことができる」という項目もある。「(これを根拠に)聖書を読みたいと言ったが、『429番』には渡せないという言葉だけを繰り返した」

キム博士が最もつらかったのは、孤独だ。「同僚の囚人もおらず、監視兵以外誰も会えない孤独が最もつらかった」。死を目の前にしたこともある。収監中、脳血栓で3回手術を受けたが、昨年12月、練炭ガスによる窒息で意識を失ったのが最も危うかった。教化所の警備兵は、彼を毛布でぐるぐる巻きにして教化所を囲む鉄条網付近に放っておき、彼は1日かかって意識を取り戻した。

慈善活動で命拾い

キム博士は、米国で朝鮮族の妻に出会って結婚し、2001年に延吉に移住した。妻の実家の故郷は北朝鮮で、自身は米国の市民権を持っているので北朝鮮に自由に出入りできた。羅先にホテルを建てたのは、羅先市の人民委員長に勧められたのがきっかけだった。「『米国人として初めてのことだ』という言葉に投資を決心した」

中国人事業家と観光客をターゲットにホテルを建てたいというと、人民委員長は元汀里から羅先に向かう道にある1万平方メートル規模のトウモロコシ畑を与えてくれた。畑を更地にし、その上に地下2階、地上3階、客室80室のホテルを建てた。「付属施設の工事費まで含めると計250万ドル(約2億8千万円)を投資し、スタッフは多い時で68人に上った。羅先一帯では最も大きなホテルだった」

キム博士は、市の外国人投資誘致委員長も務め、羅先地域の養殖場や縫製工場などに中国資本を呼び込んだりもした。また、自身が稼いだお金と外部の慈善団体の支援金などを合わせ、それぞれ70人余りの子どもたちを預かれる「豆満江幼稚園」と「グルポ幼稚園」を建てた。「青鶴洞療養院」(収容200人)、「羅先障害者療養院」(収容450人)も建て、市に寄贈した。2011年には吉林省琿春で麺工場を建て、作った麺を羅先及び周辺の農村の託児所や幼稚園、療養所、学校などに直接車を運転して配ったりもした。「平壌の取調官は慈善事業活動をしていたので、罪は死刑級だが、教化刑に減刑したと言っていた」

釈放当日に釈放の事実を知る

米朝首脳会談を前に、北朝鮮に抑留された米国人3人の釈放について話題になった。しかしながら、キム博士は釈放当日まで何の知らせも受けていなかったという。

「5月9日午前、私服を投げてきて着替えろと言われ、平壌に連れてこられた。人民文化宮殿で、この日午後6時ごろ、米国人の官吏3人と裁判官、検察幹部らがいる部屋に入って初めて釈放の手続きが進められていると知った」。裁判官はA4用紙半分の分量で謝罪文を書かせた後、「共和国(北朝鮮)関連法により、身柄を米国側に引き渡す」と言った。

平壌の順安空港に移動するためのミニバスに30分ほど座っていたら、キム・ハクソン氏、キム・サンドク氏が乗ってきた。キム博士が彼らに会ったのは、この時が初めてだった。キム・ハクソン、キム・サンドク両氏は以前から知っている間柄だった。二人は平壌の高麗ホテル最上階で取り調べを受けたことなどを話し、釈放を喜んだ。彼らが高麗ホテルに抑留されていた今年3月、マイク・ポンペイオ米国務長官の随行記者たちも同じホテルに泊まっていた。

平壌科学技術大学で勤務していたキム・サンドク氏とキム・ハクソン氏は、それぞれ2017年4月と5月、平壌順安空港と平壌駅でそれぞれ緊急逮捕され、敵対行為の疑いなどで取り調べを受けた。「ミニバスが空港に向けて出発しようとすると、私を担当した取り調べ官が、車窓の外から『出国したら、ここであったことはすべて共和国(北朝鮮)のためにいいように言え』と言った」

外国資本の投資を受けたければ、豆満江ホテルを返すべき

キム博士の一行は平壌順安空港から国務長官専用機に乗って離陸した後しばらくして、北朝鮮領空から出たという機内放送が流れた。機内にいた50人余りが大きな歓声を上げ、彼らの釈放を祝った。

ワシントンアンドルーズ空軍基地に到着した後、飛行機の外に出たキム博士はトランプ大統領が見守る中、両手を挙げた。「専用機から出て、迎えに来てくれた人たちを見ると感激して、米国に着いたという安堵と感謝の気持ちで無意識に両手を挙げていた」

空港からそのままメリーランド国立病院に移動したキム博士は、10日余りの検査を受けて、以前はなかった脊椎狭窄症と糖尿、高血圧の診断を受けた。医療陣は、過労とストレスが主な原因と説明した。

キム博士は、インタビューの途中で豆満江ホテルを取り戻したいという希望を繰り返し話した。「金正恩委員長は平壌や元山に米国など外国資本の誘致を望むなら、米国人の最初の直接投資を受けた豆満江ホテルを返すべきだ。豆満江ホテルを取り戻すよう助けてほしいと、米政府に提案するつもり」

キム博士は釈放後、知人を通じて把握した結果、ホテルは羅先市が中国人に委託運営を任せていることが分かった。彼が中国と北朝鮮を行き来して運転し、時に救護物資をいっぱい積んで走った8人用バンの行方は分からないままだ。

(2018年11月24日付東亜日報 ク・ジャリョン記者)

(翻訳・成川彩)