今月日本で公開される韓国映画「KCIA 南山の部長たち」(ウ・ミンホ監督)は、1979年に起きた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺事件をモチーフに描いた映画で、同名のノンフィクションが原作だ。実際に朴正煕大統領を射殺したのは当時のKCIA(韓国中央情報部)部長だった金載圭(キム・ジェギュ)だが、映画ではキム・ギュピョンの名で登場し、イ・ビョンホンが演じた。主要な登場人物は実在のモデルがいるが、名前を変えたのは史実と違う創作部分があるからだろう。映画で描かれたのは事件までの40日間だが、ノンフィクション「KCIA 南山の部長たち」は、朴正煕時代のKCIAの詳細をつづった880ページに及ぶ大作だ。原作者で嘉泉大学副総長の金忠植(キム・チュンシク)氏に、実際の事件や映画について話を聞いた。
――映画「南山の部長たち」を見て、いかがでしたか?
米国のアカデミー賞の韓国代表に選ばれたほどなので、よくできた映画だと思う。アカデミー賞には不幸なことに原作賞がないのは、私としては残念だが(笑)
私はノンフィクションを書き、監督は創作物である映画を作った。原作と映画のシンクロ率について問う人もいるが、それは意味のない議論だ。ウ・ミンホ監督は緻密に構成し、うまく撮った。素晴らしい映画だと思う。
――主演のイ・ビョンホンさんに事件や金載圭について話したことはありますか?
韓国では映画のクランクイン前に出陣式のようなものを執り行う。その出陣式に招待され、俳優たちと食事をした。その時にイ・ビョンホンは金載圭を演じることをかなり負担に感じていて、金載圭が一体どんな人物だったのかを聞いてきた。非常に複雑な内容なので長く話したが、それをメモしながら、うなづきながら聞いていた。
――韓国では結果については誰もが知っている事件をモチーフにした映画なので、観客の関心は「なぜ殺したのか?」という過程の方にあったと思います。映画を見ると、複数の理由が考えられますが、実際はどうだったと考えますか?
理由は複合的だった。まずは、警護室長だった車智澈(チャ・ジチョル、映画ではクァク・サンチョン)に対する怒り。先輩であった金載圭に対して無礼な態度を繰り返し、屈辱感を与えた。そんな車智澈を一方的に庇護する朴正煕に対しての反感と憎悪が爆発した。
そして、映画にも出てくるもう一つの事件、元KCIA部長の金炯旭(キム・ヒョンウク、映画ではパク・ヨンガク)がパリで失踪した事件について、金載圭による完全犯罪だったにも関わらず、朴正煕は褒めるどころか、車智澈ばかりを贔屓にして金載圭のプライドを傷つけた。
自由民主主義に対する大義もあった。民主化を求める声が広まるなかで、朴政権が長く続かないと見ていた。実際、朴正煕に対する米国の世論が悪化しており、駐韓米国大使も朴正煕を批判していた。これは、金炯旭が亡命先の米国で朴政権の不正を暴露したこととも関係がある。だから朴正煕は金炯旭が心底憎かったはずだ。
さらに金載圭は憤怒調節障害があり、カッとして撃ってしまった面もある。
――朴正煕暗殺事件の少し前に釜馬民主抗争(注:釜山と馬山で起きた民主化を求める大規模デモ)がありましたが、これも暗殺と関係がありますか?
ある。金載圭は釜馬民主抗争を見て、深刻さを実感した。これ以上朴政権による強圧政治は通用しないと考えた。
――映画では、キム・ギュピョン(イ・ビョンホン)とパク・ヨンガク(クァク・ドウォン)が友人だったように出てきますが、実際は金載圭と金炯旭は友人の間柄ではなかったはずです。金炯旭失踪事件が映画のなかで比重が大きかったのが意外でした。
映画監督の想像力によるもの。事実を追求する記者たちは、私を含めて、同じ1979年10月に起きた二つの事件を関連付けて考えることはなかった。一方、ウ・ミンホ監督は二つの事件を関連があるように描いたが、考えてみれば、正しい推論だと思う。記者たちの盲点だった。金載圭は死刑執行まで金炯旭失踪事件と自身は関係がないと主張していたが、後に韓国政府の真相調査によって、金載圭の指示で殺害されたことが明らかになっている。金載圭の緻密な暗殺工作によるものだった。金載圭の最大級の忠誠の結果を朴正煕が認めてくれなかったことが、彼を憤らせた面はあるはずだ。
――映画では、朴大統領(イ・ソンミン)が「あの頃は良かった」と日本語で言い、キム・ギュピョンも「あの頃は良かったです」と日本語で返す場面がありました。二人はよく日本語で話したのでしょうか?
映画の中のセリフ自体は創作だと思うが、金載圭は、朴正煕暗殺のその日も移動の車中で日本の詩吟のテープを聴いていたほど、青少年期から日本文化に浸っていた。日本の武士道精神の崇拝者でもあった。満州軍出身の朴正煕も、日本の軍歌「麦と兵隊」を愛唱したという逸話があるほどで、二人が日本語を交えて話してもおかしくはない。
――金忠植さん自身は、朴正煕大統領暗殺当時をどう記憶していますか?
私は1978年3月に東亜日報の記者になったので、この事件は記者として経験した。18年に及ぶ長期独裁によって窒息しそうな状態だったが、風船が割れたようにそれが解消された気持ちになった。一方、多くの国民は心底悲しんで涙を流した。18年間熱心に国家を建設してきたCEOが亡くなったように感じた人が大半だった。
当時は新聞社にKCIAからの派遣官が常駐して監視していた。記事への干渉もあった。記者は朝日新聞もニューヨーク・タイムズも読むが、韓国の一般の読者には知らされていないことが多かった。そういう意味で、息の詰まるような状況だった。やっと息ができると思ったが、結局は朴正煕が育ててきた全斗煥が実権を握り、息ができたのは束の間だった。
――ノンフィクション「南山の部長たち」は、東亜日報での連載が元になっています。連載時、危険を感じたことはありませんでしたか?
取材をやめろ、書くな、という脅迫や懐柔の電話を何度か受けた。連載当時は軍人出身の盧泰愚政権下で、拘束されそうになったこともあった。怖かった。だが、KCIAというコントロールタワーを抜きに朴正煕政権18年を語ることはできない。その空白を誰かが埋めなければ、という使命感で書いた。
――金載圭が自ら朴正煕大統領を暗殺しながら、政権を掌握することはできず、全斗煥が台頭してきたのはなぜでしょうか?
権力者一人を暗殺したぐらいで時代が変わるものではなかった。長期政権の間に大きくなってきた軍部の厚い層が、全斗煥を中心に一致団結して新軍部政権を作った。
金載圭は暗殺で精一杯だった。暗殺計画を誰かに相談して情報が漏れたら殺されると分かっていた。根回しをして暗殺後を計画するような余裕はなかった。
――朴正煕大統領暗殺事件から40年たって映画化された意味をどう考えますか?
未来に進むためには、過去というバックミラーを見なければならない。今日の政治は、過去の延長線上に存在するもので、過去をあるがまま直視する必要がある。
映画が原作に忠実に作られたわけではないが、朴正煕時代を若い世代に伝え、興味を持たせただけでも意味がある。