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虐殺の実態明らかにしたアウシュビッツ裁判 立役者の検事長はアイヒマン拘束に貢献

World Now 更新日: 公開日:
アウシュビッツ裁判を担当した元検察官のゲアハルト・ウィーゼさん
アウシュビッツ裁判を担当した元検察官のゲアハルト・ウィーゼさん=2024年2月1日、ドイツ・フランクフルト、中川竜児撮影

途切れた「非ナチ化」の機運

「あの頃のドイツは『杖に泥がついた』状態だった」

ドイツ・フランクフルトの自宅で、ゲアハルト・ウィーゼさん(95)は静かに振り返った。

ドイツの古い言い回し。舗装されていない、ぬかるんだ道を歩くと、靴に泥がつく。汚れを杖でこすり取れば、靴はきれいになるが、杖には泥がついたままだ。悪事を隠していたり、罪悪感を抱いていたりする様子を表現する。

敗戦後、米国や英国など連合国による「ニュルンベルク裁判」で主要戦犯ら24人が起訴され、「人道に対する罪」などで裁かれた。占領下で裁判は続き、ナチ党員だった人物の公職追放など、社会の「非ナチ化」も進められた。

しかし、機運は長くは続かなかった。冷戦の進展と東西ドイツの分割で、米国をはじめとする西側陣営は、西ドイツに再軍備を求めた。初代首相のアデナウアーは社会の安定と統合を優先し、恩赦と軍の名誉回復に踏み出した。経済復興にわく市民も過去に目を向けようとしなかった。ミュンヘン現代史研究所によれば、1950年に700件を超えたナチスの犯罪の有罪認定は、1958年には20件にとどまったという。

「働けば自由になれる」と書かれた標語が掲げられたアウシュビッツ強制収容所の入り口
「働けば自由になれる」と書かれた標語が掲げられたアウシュビッツ強制収容所の入り口=2020年1月25日、ポーランド南部オシフィエンチム、野島淳撮影

ドイツが「泥」と格闘するきっかけになったのが1963年。100万人を超える人々が犠牲になり、ホロコーストの中心的役割を担ったドイツ占領下のポーランドにあったアウシュビッツ強制収容所を巡る裁判が始まった。

収容所の生存者からもたらされた情報をもとに、外交関係がなかったポーランドの協力を得るなどし、フリッツ・バウアー州検事長が実現にこぎつけた。若手検事の一人として加わったのがウィーゼさんだ。「私が選ばれたのは、1945年以前に検察官として仕事をしていなかったからだ」。元ナチ党員やシンパは、司法界にも多かった。

アウシュビッツ所長の副官らに対する起訴状は計700ページに及んだ。1年半にわたる裁判では、ホロコーストの生存者を含め、約350人が証言。工場の流れ作業のようなプロセスで、いかに効率よく大量殺人が行われていたかを明らかにした。

ウィーゼさんが起訴状を担当した看守は残酷な拷問法を考案。さらに、輸送車両から降りた子どもがリンゴを持っているのに気づくと、その子の足をつかんで壁に打ち付け、手から落ちたリンゴを食べる、といった行為に及んでいた。証言でつまびらかにされた収容所の「日常」は、法廷に詰めかけた記者らの報道で全土に知れ渡った。

ウィーゼさんが起訴状を担当したアウシュビッツ強制収容所の元看守(中央)が牢獄送りにする収容者を選ぶ様子。収容所の生存者によるスケッチで、裁判にも提出された。アウシュビッツ・ビルケナウ博物館が所蔵しているが、一時的にドイツに貸し出され、展示されていた
ウィーゼさんが起訴状を担当したアウシュビッツ強制収容所の元看守(中央)が牢獄送りにする収容者を選ぶ様子。収容所の生存者によるスケッチで、裁判にも提出された。アウシュビッツ・ビルケナウ博物館が所蔵しているが、一時的にドイツに貸し出され、展示されていた=2024年1月31日、ドイツ・シュツットガルト、中川竜児撮影

ウィーゼさんは「あの裁判の一番の意義は、ホロコーストは本当にあった、ガス室もあった、と認定されたことだ」。今は自明とされる「事実」の証明にも、それほどの時間と労力が必要だった。

反省しない被告たち

ただ、判決には満足できなかった。20人の被告のうち6人には終身刑が言い渡されたが、数年~十数年の有期刑や無罪判決の者もいた。個々の直接的な残虐行為は裁かれたものの、大量殺人マシンと化した収容所の一員だったというだけでは、被告を有罪にすることはできなかったという。さらに、法廷でほとんどの被告は「命令に従っただけ」などと答え、謝罪や反省を口にすることもなかった。

ユダヤ人だったバウアー検事長のもとには、「豚野郎」といった脅迫状や嫌がらせの電話がひっきりなしに届いたという。ウィーゼさんは「彼は広報の役割も引き受けていたから。夜中の電話は体にこたえただろう」。バウアー検事長は1968年に浴槽で死亡。検視で鎮痛剤とアルコールが検出され、自殺も他殺も退けられたが、死因を巡って様々な臆測が飛び交ったという。

アウシュビッツ強制収容所で大量の人を殺したガス室と焼却炉の跡地
アウシュビッツ強制収容所で大量の人を殺したガス室と焼却炉の跡地=2020年1月25日、ポーランド南部オシフィエンチム、野島淳撮影

死後、明かされたこともある。1960年5月、ユダヤ人を強制収容所に送る実務責任者だったアドルフ・アイヒマンの拘束に大きな役割を果たしていた。

アイヒマン拘束の裏側で

アイヒマンがアルゼンチンで生活しているとの情報をつかみ、イスラエルに伝達。外務省や警察にも残っていた元ナチ党員らに情報が漏れると取り逃がす恐れがあったためだが、国内手続きを無視した行為によってバウアー検事長が窮地に陥らないよう、関係者らが配慮し、死後まで伏せられていた。ウィーゼさんも全く知らず、「ただただ驚いた」という。

ウィーゼさんは、ホロコーストのような悲劇を繰り返さないために必要なのは、「若い人たちに全てを話すことだ」と強調する。歩くのに杖が必要となり、目はかすみ、耳は遠くなった。それでも定期的に学校を訪れ、自身の体験を伝えている。

歴史を刻んだ裁判の立役者が亡くなった1968年は、世界各地で若者たちが反戦運動などに立ち上がった年でもあった。ドイツでも、若者による「一撃」が新たなページを開いた。