ナチスが支配するようになったドイツをガイ・スターンが逃れたのは、15歳のときだった。自分たちユダヤ人への反感が吹き荒れるようになり、新たな生活を求めて米国に渡った。
やがて第2次世界大戦が始まり、今度は軍情報部の一員として欧州に戻った。敵の捕虜の尋問方法について極秘の訓練を受けていた。
そのスターンが2023年12月7日、米ミシガン州デトロイト近郊にあるウェストブルームフィールドの病院で亡くなった。101歳だった。妻でドイツ人作家のズザンナ・ピオンテックが明らかにした。
スターンは、「リッチーボーイズ(Ritchie Boys)」と呼ばれた米陸軍情報部の一員だった。メリーランド州にあった極秘訓練基地の名にちなんだ呼称で、推定1万1千人ほどの兵が訓練の全課程をここで終えている。そのうち2千~3千人ほどが欧州出身のユダヤ人で、大半がドイツから来ていた。
訓練の中には、同盟国の当局者のために、敵を尋問し、その言葉を通訳・翻訳する方法を学ぶ教科があった。さらに、捕らえたドイツ兵やイタリア兵の着ている軍服の詳細を見分けたり、官僚主義の強いドイツの書類のお役所言葉から重要な情報を読み取ったりすることも学んだ。
「われわれは、米国のために戦いながら、強烈に個人的な理由でも戦っていた」とスターンは2005年にワシントン・ポスト紙で振り返っている。「われわれは、自らの存在のすべてをこの戦いにかけていた」
この発言は、ドキュメンタリー映画「The Ritchie Boys」(監督:クリスティアン・バウアー、訳注=2004年制作)がメリーランド州の山あいにある基地跡地で初上映された際のものだった。
1944年6月。スターンは、仏ノルマンディーに上陸した。Dデー(訳注=連合国軍の大上陸作戦の開始日)から3日後だった。ドイツとベルギー、フランスで任務にあたり、翌年ドイツが降伏した後もしばらく続けた。
欧州戦線で集められた実用的な情報の少なくとも60%は、リッチーボーイズによるものだったとデビッド・フレイは語る。ニューヨーク州ウェストポイントにある米陸軍士官学校の「Center for Holocaust Studies and Genocide(ホロコースト・民族虐殺研究所)」の所長だ。「リッチーボーイズのうち今も存命なのは、25~30人程度ではないか」とフレイは見ている。
口を割ろうとしない相手を落とすのにスターンがよく使った手法は、ソ連の政治将校を装うことだった。気性が激しく、言動の一貫しない「クルコフ」なる人物になりすまし、服装もそれらしく整えた。
話し方にもロシア語のアクセントをたっぷりつけた(こちらは、米コメディアンのエディ・カンター〈訳注=ロシア系ユダヤ人〉のラジオ番組に出てくるキャラクター「怒れるロシア人」をまねた)。クルコフのために本人がサインを入れたように見せかけたスターリンの肖像写真を常に近くに置き、「シベリア送りにするぞ」とドイツ人捕虜を脅した。
「だれでも落とせたわけではなかった」とスターンは自著「Invisible Ink : A Memoir(あぶり出しインクでつづった回顧録)」(2020年刊行)で認めている。
「捕虜の何人かは、ユーラシア大陸の半分もの距離をわざわざ移送して恐ろしいロシア人の手に委ねるなんてことはありえないと見透かしたのかもしれない。でも、ほとんどの場合は、この戦略でうまくいった」
スターンは、「ギュンター・シュテルン」として1922年1月14日、ドイツ北西部のヒルデスハイムに生まれた。父ユリウスは、布地を売っていた。母ヘートビヒ(旧姓ジルバーベルク)は主婦で、父の仕事を手伝っていた。
アドルフ・ヒトラーが政権を掌握した1933年には、11歳になっていた。4年とたたないうちに、ユダヤ人を狙い撃ちにするナチスの政策によって一家の暮らしを支えることは難しくなっていた。
スターンも、通っていた男子校で仲間はずれにされたという。
「ある日、父のところに行って、『学校のクラスは拷問部屋になってしまった』と訴えたんだ」。スターンは2021年、リッチーボーイズを取り上げた米3大テレビネットワークCBSのニュース番組「60ミニッツ」の中でこう語っている。
両親は、1937年に第1子のスターンを米ミズーリ州セントルイスに住んでいたおじベンノ、おばエテルのもとに送り出していた。しかし、渡米後、彼は残る家族を呼び寄せる資金を出してくれる人を見つけられなかった。
両親と妹のエレオノーレ、弟のウェルナーの4人はいずれもナチスによって殺された。しかし、一時滞在をしていたポーランドの首都ワルシャワのユダヤ人ゲットーで亡くなったのか、強制収容所で殺害されたのか、ついに確かめることはできないままに終わった。
スターンはセントルイスで高校を卒業し、ガールフレンドの勧めでファーストネームをガイに変えた。ホテルでウェーターの助手をしながら、セントルイス大学に通った。
日本が真珠湾を攻撃すると、海軍に志願したが、米国生まれでなかったため、はねられた。しかし、陸軍は受け入れ、基礎訓練をテキサス州のバークリー基地で受けた。そこで、1943年に米国籍を取得。最終的にリッチー基地に送られた。
ドイツで勤務中、スターンは幅広い情報を複合的に使って尋問する手法を駆使し、青銅星章(訳注=作戦で英雄的かつ名誉ある行動をとり、成果をあげた兵士に与えられる米軍の勲章)を授けられた。
ほかにも、フランスからは2017年の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」(訳注=アウシュビッツ強制収容所が解放された1月27日。2005年の国連総会決議で設けられた)に際してレジオン・ドヌール勲章シュバリエが授与されている。
退役後は、米国の1944年復員兵援護法に基づく奨学金を得て大学教育を修了した。ホフストラ大学(ニューヨーク州)のロマンス語(訳注=仏、伊、スペインなどラテン語とかかわりの深い諸語)課程の学士号を取得して1948年に卒業。1950年には、ドイツ語で修士号を取った。1954年には、コロンビア大学(ニューヨーク市)の大学院でドイツ語の博士号を与えられている。
それからの半世紀は、大学で教える方に回った。オハイオ州グランビルのデニソン大学を皮切りに、同州シンシナティ大学ではドイツ語科の長になり、後に大学院の教育・研究部門を任された。メリーランド大学では、ドイツ・スラブ語の言語・文学部の学部長になった。
さらに、ミシガン州デトロイトのウェイン州立大学では学務担当の副学長と学長を歴任し、後にドイツ文学・文化史の特別功労教授(訳注=普通の教授より上位の肩書)になった。
死亡時にスターンは、ミシガン州ファーミントンヒルズにある「International Institute of the Righteous at the Zekelman Holocaust Center(ゼケルマン・ホロコーストセンター付属の『正義の国際研究所』)」の所長を務めていた。
この研究所は、ホロコーストの最中にあった倫理的行動に焦点をあてて調査をしている。スターンは、自らを顧みずに他人に尽くす利他主義に強い関心を持ち、とくにユダヤ人がユダヤ人をどう助けたかに目を向けていた。
スターンの遺族は、妻のピオンテック1人しかいない。息子のマークは2006年に死去。最初の妻とは離婚し、2番目の妻とは2003年に死別している。
スターンは、ピオンテックの作品集「Have We Possibly Met Before? And Other Stories(私たちって前に会ったことがありませんか? その他の作品)」(2011年)を英訳し、前書きを記している。ピオンテックは、逆に夫の回顧録を独訳した。
スターンは、テレビの番組にも出演した。米公共放送ネットワークPBSの2022年の3部作ドキュメンタリー「The U.S. and the Holocaust(米国とホロコースト)」(監督:ケン・バーンズ、リン・ノビック、サラ・ボットスタイン)に出たのは、98歳のときだった。
先のCBSニュース番組60ミニッツでジョン・ベルトハイムのインタビューを受けたときは99歳だった。いずれの撮影でもサーモン色のブレザーを着て、雄弁に自らの過去を振り返り、人を引きつける存在感を示した。
「目には輝きがあり、足どりは軽快だった」とノビックは、そのときの本人の様子を電話で語った。
そのドキュメンタリーでスターンは、ドイツ・チューリンゲン州にあったブーヘンバルト強制収容所が1945年4月に解放されたときのことを話している。中に入ると、骨と皮ばかりになりながら生きながらえていた収容者の姿が目に飛び込んできた。
「そのときは、ものごとに動じることのない、いっぱしの兵士になったつもりでいた。だけど、その姿にどうしようもなく涙があふれだした」
周りを見ると、オハイオ州のプロテスタント教徒の家に育ったハドリー軍曹が、スターンと同じように子どものように大声を出して泣き叫んでいた。
「まさに、耐えられるようなことではなかった。でも、あいつらは平気だった。ナチスの犯罪者どもはこんなことをしでかして、被害者は耐えるしかなかったんだ」
ノビックは、このドキュメンタリーでスターンが重みのある言葉を発し続けたと評価する。
「どれほど多くの大事なことを私たちのために語ってくれたことか。ドイツで育ち、なんとか渡米し、家族を失い、ナチスと戦うために舞い戻って、最後は学者になった一人の人間として」(抄訳)
(Richard Sandomir)©2024 The New York Times
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