約110万人が犠牲となったナチス・ドイツ最大の「殺人工場」、アウシュビッツ強制収容所。そこから逃げ出し、生き延びることができたのは、200人に満たないとされる。
その一人、ハーマン・シャインが2018年6月23日、腎不全のため米カリフォルニア州サンマテオの自宅で亡くなった。95歳。数少なくなった存命者の代表的な存在でもあった。
「こうして生きていられるのは、一つの奇跡のおかげではない。それが、いくつも、いくつも重なってくれたからだ」
シャインは2009年に、地元紙サンフランシスコ・クロニクルでこう語っていた。親友が、自分を見捨てることはなかった。
ポーランドの一市民が、命の危険をおかしてかくまってくれた。
たまたま会った若い女性が、戦争が終わるまでの隠れ家を確保するのを手伝い、生涯の伴侶にもなってくれた。
シャインは1922年10月4日、父ゲルゾン・シャインゲジヒトと母テレーゼの間にベルリンで生まれ、メンデルと名付けられた。父は第1次世界大戦後にポーランドから移住し、商いで身を立ててから、目の不自由な退役軍人のための事業を営んでいた。
ドイツが1939年9月、ポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まると、シャインはすぐにベルリンから20マイル(32キロ)ほど北にあるザクセンハウゼン強制収容所に入れられた。そこに、親友のマックス・ドリンマーもいた。
ひどい処遇だった。
「SS(ナチス親衛隊)の連中がムチや鉄、木の棒を持ってうろつき、あらゆる理由をつけては暴力を振るった」
シャインは1990年に、地元ベイエリアのホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)口述記録事業でこう話している。
1942年、シャインとドリンマーはアウシュビッツに移送された。すし詰めの家畜運搬車で5日間揺られ続けた。到着すると、グループに分けられた。強制労働かガス室送りかの違いだった。
ドリンマーは、シャインと同じ列に潜り込んできた。どういうグループになるのかは、見当もつかなかった。
命だけは、とりあえず助かった。アウシュビッツの収容所群の一つがあったモノビッツに送り込まれた。「アウシュビッツⅢ」とも言われた収容所だった。
シャインは、屋根の工事をさせられ、さらに30マイル北西にあるグライビッツの収容支所でも働かされた。
「自分である程度の健康を保てている限り、次の日までは命をつなぐことができた」とシャインは2001年にサンマテオ郡タイムズ紙で述べている。
本人によれば、グライビッツで作業をしているときに、掃除をしにきた若い女性のグループを見かけた。
その中の一人、マリアンネ・シュレージンガーと親しくなった。徴用されての労働だったが、収容所の外にある自宅にとどまることを許されていた。片親だけがユダヤ人だったからだ。
シャインが、ユダヤ人の大虐殺が収容所内で行われていることを話すと、シュレージンガーは自宅の住所を教えてくれた。いつの日か、こられるようになるかもしれないと思ってのことだった。
そのころ、親友のドリンマーは、モノビッツの収容所に民間人として雇われていた(訳注=ポーランド人の)ユゼフ・ブロナと親しくなっていた。
1944年のある日、自分たちの命運が尽きようとしていることをブロナから聞かされた。ナチス親衛隊の将校たちが、自分にはドイツ語が分からないと思って話していることを小耳にはさんだ。モノビッツに残っているユダヤ人労働者を殺すことになるという内容だった。
ブロナは、ドリンマーをひそかに収容所から逃がす方策を立てた。失敗すれば、破滅的な結果を伴う企てだった。逃げ出したユダヤ人をポーランド人がかくまっていたことが分かれば、家族もろとも処刑される恐れがあった。
「『ここから逃げられるようにしてあげる』と言ってくれた」とドリンマーは2001年に回顧している。「それなら、もう一人なんとかならないか」と尋ねると、シャインも加えることに同意してくれた。
ブロナは、モノビッツに近い建築現場に身を隠すための場所をつくった。昼休みになって、シャインとドリンマーはそこに隠れた。建築用断熱材の下に、丸一日以上も身を寄せ合っていた。
暗くなると、ブロナが着替えを持って戻ってきた。労働着に、丸刈りの頭を隠す帽子。ころあいを見て、隠れ家から外に出て鉄条網に近づくと、すでに一部が切断されていた。
そこからなんとかはい出し、5年ぶりに自由の空気を吸った。3人で、9マイル以上南のブロナの自宅に向かった。
途中でドイツ兵に呼び止められた。ブロナが受け答えをすると、ポーランド人の労働者と思ったらしく、通してくれた。
自宅では納屋にかくまわれた。友人たちに手紙を書くことにも、ブロナは同意した。しかし、それは破滅のもとにもなりかねなかった。とくに、ドリンマーが女友達のヘルタ・ツォーベにあてた手紙は3人を危機に陥れた。
ツォーベが職務質問にあい、ドリンマーの手紙が見つかった。ブロナの自宅は、すぐに捜索を受けた。軍用犬を引き連れ、納屋を含む敷地内をくまなく捜したが、2人が恐怖におののきながら潜んでいた屋根裏までは調べなかった。
もう、そこに居続けるのは危険だった。シャインがグライビッツのシュレージンガーの住所を思い出し、訪ねることにした。
といっても、遠く離れていた。戦時下の通行に必要な書類もなく、鉄道を利用せずに行き着くのは不可能に等しかった。
「気でも狂ったのか」とドリンマーが言ったと2001年のドキュメンタリー映画「Escape from Auschwitz: Portrait of a Friendship(アウシュビッツからの逃亡:ある友情の写し絵)」でシャインは話している。「でも、他にあてもないよ」と言い返すほかなかった。
なんとかグライビッツにあるシュレージンガーの家にたどり着くことができた。本人と家族が、受け入れ先を探すのを手伝ってくれた。裕福なドイツ人が、近くの別荘を提供してくれることになり、1945年に戦争が終わるまで隠れることができた。
翌1946年、シャインはシュレージンガーと結婚した。そして、ドリンマーもツォーベと。2組は、ベルリンで一緒に式を挙げた。翌47年には、2組とも米国に移住し、サンフランシスコ近郊に住むようになった。シャインは、ドリンマーが2012年に亡くなるまで、ずっと親交を温めた。
「まさに、生涯をともに過ごした仲だった」とシャインは2015年に、北カリフォルニアのユダヤ系紙で述べている。
「人生のつらいときをともに歩み、よい暮らしができるようになってからもそうし続けた。ともにこの偉大な国にきて、新たな生活を築き上げた」
シャインは、米移住後は名前を米国式に変え、日雇い労働者として新たな一歩を踏み出した。やがて、屋根ふきの会社を設立し、家業とするようになった。
自分の両親がホロコーストを生き永らえたのかどうか、消息を知ることは最後までできなかった。しかし、兄弟姉妹のうち2人の姉妹と2人の兄弟は生き延び、それぞれ違う国に移り住んだ。
ブロナとは長らく会えなかったが、ついにその機会が1990年に訪れた。
ブロナは、イスラエルの国立ホロコースト記念館ヤド・バシェムから、当時のユダヤ人を命がけで助けた非ユダヤ人と認定され、ロサンゼルスで表彰式が開かれた。そこで再会したのだった。翌年、ブロナは亡くなった。
「私たちのことをできるだけ多くの人に知らせてほしい」。シャインは1990年、ロサンゼルス・タイムズ紙にこう語っている。
「われわれ2人の命なんて、とるに足らないものだった。でも、ユゼフは自分の命を賭して守ってくれた。それだけではない。家族全員、いや村中みんなの命もかかっていたんだ」(抄訳)
(Rod Nordland)©2018 The New York Times
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