収容者20万人以上、数万人が命を落とす
「働けば自由になる」という標語が掲げられた重い門が、強い風にあおられ、ゆっくり開いた。
1月下旬、ベルリンから北約30キロのオラニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所跡を訪れた。ヒトラー政権は1936年に同収容所を開設。約190ヘクタールの敷地には塀と高圧電流が流れる鉄条網があり、ユダヤ人やロマ、同性愛者や政治犯らが収容された。その数、敗戦の1945年までに20万人以上にのぼる。
「働けば自由になる」の門を備える入り口の建物2階から、薄曇りで突風が吹きつける敷地を寒そうに前かがみで歩く来観者の姿が見えた。現在は博物館となっている強制収容所跡は、ベルリン近郊にあることもあり、各国の観光客らも足を運ぶ。
観光客が歩くその場所には、かつてしま模様の服の収容者が点呼のため並ばされていた。「彼も、ここから見ていたかも知れません」。博物館のアストリット・レイ副館長が言った。
彼とは、ドイツ中部に住む99歳の男性のことだ。1943~1945年に収容所の看守を務め、収容者の大量殺害を手助けしたとして、昨秋、起訴された。裁判でのやり取りに耐えられるかどうか、医師らの鑑定が慎重に進められている。
101歳に禁錮5年の判決
殺人罪の時効を撤廃したドイツでは、今もナチスの犯罪追及が続く。2022年6月には同じザクセンハウゼン強制収容所で看守を務めていた男性(当時101)に禁錮5年の判決が、同年12月には別の強制収容所の速記係だった女性(同97)に執行猶予付き禁錮2年の判決が言い渡された。
こうした裁判を可能にしたのは、2011年の司法判断だ。それまで、検察当局は当事者が殺害に直接関与したことを第三者らの証言などで立証しなければならなかった。しかし、時の流れとともに、直接的な証拠や証言を集めるのは極めて困難になる。
ドイツ占領下のポーランドにあった強制収容所の元看守(同91)に禁錮5年の判決を言い渡した2011年のミュンヘン地裁は、大量殺人を目的とした収容所に勤務した事実を証明できれば、殺人幇助(ほうじょ)罪が成立すると導いた。大量殺人マシンと化した組織の「歯車の一部」と認定されれば、罪は免れなくなった。判決を追い風に、当局は改めて訴追の可能性がある人物のリストアップを進めた。
元捕虜の看守も起訴
英紙ガーディアンによると、2011年に判決を受けた元看守はウクライナ出身の旧ソ連軍兵士。ドイツ軍に捕虜にされ、看守になった。イスラエルの裁判所で別の収容所の看守だったとして死刑判決を受けたが、「人違い」が判明、釈放されるという複雑な経緯をたどった後の有罪判決だった。元看守は裁判で黙秘したが、「私はナチスの被害者で加害者ではない」と主張。判決後、弁護士は「外国人がドイツの犯罪の代償を払わなければならないのか」と憤った。元看守は控訴したが、2012年に高齢者施設で亡くなった。
下級職員らに対する裁きが続く現状に、ナチスの犯罪訴追に携わった関係者の一人は「判決は良かったが、遅すぎた」と漏らした。もう少し早ければ、上級幹部らの訴追ができたという意味だ。彼らはすでに世を去っている。
「小さな任務も収容所を支えた」
訴追を続ける理由はどこにあるのだろう。レイ副館長は被害者の証言を集め、99歳の元看守の所属した隊がどんな任務に就いていたかなど、訴追に向けた情報収集に協力した。「彼は直接手を下していないかもしれない。しかし、収容所は多くの人間によって運営されていた。小さな任務でも、それがなければ動かない、とても複雑な組織だった」
ザクセンハウゼンでは、過酷な強制労働や病気、飢え、処刑などにより、数万人が命を落とした。そして、ナチスの犠牲者には、子どもも、高齢者もいた。「被害者は自分の受けた痛みを決して忘れられない。証言し、被害を認めてもらう機会が必要です。そして、ここで何があったかを伝えなければならない」
訴追を支持する世論
独ツァイト紙が2020年に実施した世論調査によれば、「裁きを受けていない生存中のナチスの加害者は今日でも裁かれるべきか」との質問に、「全くその通り」「そう思う」が76%にのぼった。
それでも、当時10代後半~20代前半だった下級職員らも90代。現在、裁判の可能性があるのは4人。ザクセンハウゼンの生還者もわずかとなり、ドイツ、イスラエル、米国、ロシアなどに暮らしているという。