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便利すぎる社会の弊害とは何か「不便益」を研究する京都先端科学大の教授と考えた

LifeStyle 更新日: 公開日:
インタビューに応じる京都先端科学大の川上浩司教授
インタビューに応じる京都先端科学大の川上浩司教授=2024年3月8日、京都、関根和弘撮影

――川上さんは「不便益」についての研究を進めています。そもそも、不便益とはどういうものなのでしょうか。

よく「負の便益」と勘違いされるのですが、「不便益」というのは、不便だからこそ得られる益のことです。英語では「benefit of inconvenience」と表現します。

世の中にあるいいこと、つまり「益があること」の中には「不便じゃないと得られない」ものがある、というのが私たちの主張です。では、それはいったいどういうものなのか。それを具体的に明らかにしていこうというのが研究テーマになります。

例えばものをデザインする時に、ユーザーにあえて「不便」を与えます。そしてその結果として「益」を見いだしていく。これが不便益をシステム的に利用する方法論のひとつになります。

ここでポイントとなるのが「人間はどう考えるか」というところです。中心にあるのは人の心なんですね。

――「不便益」の研究を始めたきっかけは何だったのですか。

まだ学生だった1985年くらいからずっと、人工知能を研究していました。当時、僕は人工知能の技術を活用して、「物を自動的に設計してくれる」システムを作ろうとしていました。今でいう生成系AIですね。新しいアイデアを生み出すような、そういう人工知能を作ろうとしていたわけです。

当時の僕は、「機械に、最も知的なことをやらせてやろう」と考えていました。では、最も知的なことって何だろうかと考えていくと、多分クリエイティブなこと、新しいものを作り出すことだろうと思ったわけです。よし、じゃあ挑戦してやろう、という感じで取り組んでいたのですが……まあ早すぎましたよね。

いわゆる「第2次AIブーム」のころでしたが、当時の技術というのは、画像認識や文字認識すらなかなか実現できないようなレベルで、いま私たちが見ている生成系AIなんて全然手が届かない。そんな時代でした。

岡山大学で研究を続けていたのですが、僕の師匠にあたる先生が新しい研究室を立ち上げるというので、スタッフとして参加するため京都大学に戻ってきました。1998年のことでした。

人工知能の研究ができるんだろうなと思って帰ってきたら、そこでの最初のミーティングで、師匠が言い出したのが「不便益」という考え方だったんです。僕自身も最初はその内容がよく理解できず、しばらくは傍観していました。

師匠は教授室に閉じこもるタイプではなくて、いつも学生のいる部屋に来て、一緒にコーヒーを飲みながらいろいろな話をしている、そういう方でした。

そこで不便益に関する様々な話を聞くうちに、不便益の研究というのは工学的な観点でも実現できるのではないかと少しずつ思い始めたのが、この研究を始めるきっかけになったような気がします。

――ご専門は「システム工学」ですが、それが不便益とどのようにつながってくるのでしょうか。

よく出される例に「セル生産方式」のメリットがあります。私が不便益について研究を始めて間もない2000年前後に、企業の工場で相次いで導入されていた生産方式です。

それまでの工場作業では、様々な作業を分割して担当者ごとに割り当て、ベルトコンベヤーで流れてくる部品を少しずつ組み立てて製品にしていく「流れ作業方式」が主流でした。

これに対して、少人数で構成されたチームで様々な作業をすべて担当し、部品を製品のかたちにまで組み上げていくのが、セル生産方式の基本的な考え方です。

次々と完成品が組み上げられていくブロックセル生産工程
次々と完成品が組み上げられていくブロックセル生産工程=静岡県袋井市、撮影・朝日新聞

もともとは「多品種少量生産」のために考え出されたもので、大量生産に対する能率を考えれば、流れ作業方式の方が有利です。客観的に考えれば、覚える作業が少なくて済む流れ作業方式の方が「便利」であり、様々なことを覚える必要があって準備や作業に手間も掛かるセル生産方式は「不便」だといえます。

でも実際に現場で作業をしている人に聞くと、確かに効率だけを考えればベルトコンベヤーによる流れ作業方式に軍配が上がるものの、部品を組み上げて目の前で製品が出来上がるセル生産方式の方が、喜びや充実感があるというんです。

セル生産方式の方が、モチベーションが上がってスキルも上がっている。モチベーションとスキルが相互に高め合うという現象が起きていることがわかってきました。

一見すると不便と思われることを実際にやってみると、様々な益がある。これがまさに「不便益」だというわけです。 

こういう説明をすると、不便益というのは「多品種少量生産に適したアプローチの仕方」といった客観的現象として捉えられることもあるのですが、そうではありません。

最初に申し上げたとおり、不便益を考えるときにはかならず「人間を含めた系」を考える必要があります。そこで大事なのは人の感じ方、捉え方です。「不便だけれども益がある」と考えるのは、あくまで人です。人がまったく介在しない系では、「不便益」の考え方は成り立たないんですね。

――「不便」なのに「益」がある。なぜ人間はそんなふうに感じるのでしょうか。

学生と一緒になって、不便とは何か、益とは何かを書き出してみたことがあります。

「機能などが限定的」「コンパクトではなく大きい」「目的を果たすのに時間が掛かる」など、私たち「不便」だと感じることは、12の項目にまとめることができました。

一方で、「主体性を持てる」「工夫のしがいがある」「自分だけという特別感がある」といった「益」として捉えられること、こちらは8項目に分類しました。

川上浩司氏が学生と考えた「不便とは何か、益とは何か」の一覧
川上浩司氏が学生と考えた「不便とは何か、益とは何か」の一覧=GLOBE+編集部作成

不便にすることで、常に益があるというわけではありません。単に不便になっただけで、益がまったくない、そういう場合ももちろんあります。

でも「不便にすると益がある」と、人が感じる場合は確かにある。ではなぜ、そんなふうに感じることがあるのか。正直なところ、その理由についてはよくわかっていません。

ただ、工学の立場からいえば、実際にそう感じるわけだから「そういうものだ」というふうに捉えて、それを前提にした製品やサービスを考えていく、そういうアプローチも重要になってくるわけです。

電子レンジの例が説明しやすいと思います。

最近の電子レンジのインターフェースでは、このボタンを押しさえすれば、あとは機械が勝手に最適な温め方を判断して実行してくれる、というような便利な機能が付いています。

それに対して、例えば温める出力と時間を手動で設定して、というアプローチは、いろいろなことを考える必要もあるし、手間も掛かる。つまり不便なわけです。

でも手動の場合は、例えばちょっと手が滑ってなんか違う設定になったけど、まあいいや、これでスタート、などとやったみたら、想像以上にいい結果のベストな温め具合になった、という可能性があるわけですよね。

ところが「これで一発ボタン」なんていうのは、誰がやっても同じような結果が出るようにデザインされているわけです。ボタンをちょっと斜めに押したら何かが変わるとか、そんなこともあり得ない。

逆に言うと、それを使っている限り、手動のときのように偶然、自分にとってのベストを見つける、なんていう可能性もゼロなわけです。それをデザインした人が作り込んだかたちのものができて、それがきっとおいしいに違いないと思うしかないわけですね。

でも自分で手間を掛けてやれば発見もできるし、自分なりの「マイベスト」も実現できる。これがまさに「不便の益」。手間を掛けたからこそ得られる益になるわけです。

写真はイメージです=gettyimages

――私たちは便利さを追求する中で、技術の進歩を手に入れてきました。工学はまさにそのための学問という部分もあると思います。一方で、そういった便利さの代償として、我々は手を動かす楽しみとか、自分の好みにぴったり合ったものを見つける喜びといった「益」を得る機会を失ってしまってもいる。とても皮肉なことのように思えます。

それはそのとおりだと思っています。だから私たちが「便利の追求」をするときには、二つのアプローチがあることを知っておく必要があります。

一つは、人の手間を省くというアプローチ。私たちがよく目にするもので、実はデメリットもあるということは、ここまでの話で理解いただけると思います。

もう一つのアプローチが「不便益を得るための便利」を追求すること。わかりやすく言うと、「あえて手間をかけさせてくれるようにする」ことですね。

自動車のギアを変えるトランスミッションは、今はオートマチックのAT車がほとんどだと思います。人間が変速する手間を省いてくれて非常に便利です。

けれども、今でもマニュアルのMT車も売られていて、手に入れることができます。

その理由はいくつかあると思いますが、例えば「うまく使えば燃費がいい」「悪路走行に適している」といった客観的な理由は、不便益を考えるときにはそれほど重要ではありません。

何度も繰り返しているように、重要なのは人間の考え方や捉え方、感情です。MT車を運転したときのあのサクサクッ、スカッとはまるような感触が好きだ、それを感じていたいという人は、手間が掛かるMT車を運転するしかない。便利なAT車ではダメなわけです。

不便益に対してよくあるもう一つの誤解が、ノスタルジーというか、懐古主義的なものとつながっているのでは、というものです。MT車のような例を挙げると「昔は良かったね」という文脈で語られてしまうことがあるのですが、それは不便益ではありません。

僕らは工学の研究者なので、やはり新しいものを生みだしてこそ、という面があります。単に昔に戻るのではなくて、何かを不便にすることで新しいものを生み出していくことが大切です。

昔は良かったね、で止まらずに、ではなんで昔は良かったのかということを追究して、どんな不便がどんな影響を与えていたのかというところまで、きちんと考察する。その結果、それが新しい物事のデザインに使えるようになれば、それはすごく大事な視点やアイデアになると思うんですね。

ノスタルジーそのものを否定するわけではもちろんありません。でも、不便益というならば、そこからちゃんと新しいものの見方と、それをデザインとして使える知見を得られるか、そこがポイントなんです。

インタビューに応じる京都先端科学大の川上浩司教授
インタビューに応じる京都先端科学大の川上浩司教授=2024年3月8日、京都、関根和弘撮影

――実は私たちが気付いていないだけで、世の中には不便だからこそ益があるというものが、まだまだ隠れているのかもしれません。それに気付くためのヒントのようなものはあるのでしょうか。

なにか不便なことに直面したときに、従来の考え方であれば、「不便さ」を即座に否定する方向で考えると思うんです。不便は嫌だ、だから不便さを取り除き、便利にしようとして、思考をめぐらせる。

そうではなくて、不便に直面したときに「この不便には何か益はないのだろうか」と考える。不便の中に益を探す、ということですね。そうすることで視野も広がり、物事に対する考え方・捉え方も柔軟になるはずです。

もちろん、不便なだけで益が全然ないケースも存在します。でも、それはそれでそういう事実を見つけたということを楽しむ。そういうスタンスでいることが大切ではないでしょうか。

逆のアプローチとして、あることが便利すぎるからちょっと不便にしてみたら、そこに益を見つけ出すことができた、そんなケースもあります。

JR京都駅には、お土産を扱う大きな店舗がたくさんあって、そこをぐるっと回れば京都の有名なお土産の多くは手に入ってしまうんですね。

それは便利すぎるということで、京都市内のあちこちに散らばっているそれぞれのお店の本店を、あえて時間と手間を掛けてめぐってみる、そんな企画を考えてみました。

実際にやってみると、たしかに不便ではあるのですが、それでも実際に街を歩くことで、突然雨が降ってくるといった様々な出来事が行く先々で起こり、意外に楽しい。なによりも思い出として記憶に残ることがわかってきました。

本来、旅行というのはそういうものだと思うんです。効率的に名所をまわるというのも確かにいいのかもしれませんが、特に目的もなく街中をぶらっと歩いているときにちょっとした抜け道を見つけるなど、そういったサプライズ的な体験こそが旅行の醍醐味(だいごみ)ではないかと。

この企画は、掲載したお店の協力を得て、それぞれのお店ではんこを押してもらえる「御朱印帳」のようなものが付いた本になりました。

多くの参拝者でにぎわう清水寺
多くの参拝者でにぎわう清水寺=2023年12月、京都市東山区

――みんなで話し合う中で不便益のアイデアを見つける、そんなワークショップも開いているそうですね。

「新しい不便益なものをデザインしましょう」ということで、どんなふうに考えるかというのは、参加者の方に自由にやってもらっていたんです。それを見ていると、不便益にたどり着くパターンは、どうやら三つくらいあることに気がつきました。

一つ目が、とりあえずまずエイヤッという感じで、今あるものを不便にしてやれ、というやり方。そして不便にした後に、これに益があるかどうかを考えるというもの。これがいちばんわかりやすい。「価値発掘型」と名付けています。

二つ目は、これまでの様々な不便益の具体例を確認して、それらを思い返しながら新しくアイデアがひらめくのを待つ、そういうやり方です。僕たちはこれを「創発型」と呼んでいます。

三つ目は工学部で学んだ人に多い発想法で、便利すぎて害があるから、その害を取り除く方法として不便にするというもの。「問題解決型」ですね。

実は最近、非常にプロフェッショナルっぽい新しいアプローチに出会いました。イタリア人の研究者が名付けた言葉から「意味のイノベーション型」とでも表現すべきアプローチです。

不便なことそのものは何も変わっていないにもかかわらず、その「意味付け」を変えることによって、不便を益に変えることができるというものです。

例えば、京都・嵐山のとある旅館は陸路ではたどり着けず、わざわざ小舟に乗り換えないと訪れることができません。しかしそれが「秘境感を醸し出している」という理由で大人気になっているというのです。

アクセスが悪いというのは「不便なこと」のはずなのに、それをうまくプロデュースすることで「行ってみたい」という益に変えた。そういう発想もあるのだということに気付かされました。

不便益のポイントは客観性ではなく人間の主観だということを何度も述べていますが、これなどはまさにその典型例だと思います。アクセスが悪いという「客観的事実」は何も変わっていない。ただ、それを受け取る人間の捉え方が変わっただけで、新たな益が見いだされたわけです。

――ワークショップから生まれた企画の中で、特に印象に残っているものはありますか。

京都の街を舞台におこなった「左折オンリーツアー」という企画は、まさにこれが不便益だと思っています。

交差点があったら、左折は何回してもいいけれど、右折は絶対にしてはいけないというルールに従い、京都市内を観光します。

ここを右に行けば目的地だということがわかっていても、絶対に右に行っちゃいけないんです。その場合は、その交差点を通り過ぎて左折を3回して目的地に向かわなければならない。

これって、どう考えても無駄ですよね。でも、何か楽しそうな気がしませんか?

確かに時間も手間も掛かります。でも、先ほども少し言いましたが、旅行というのは本来そういうものではないかと思うわけです。

名所をたくさん詰め込んでまわったツアーって、実は思い返してみるとあまり覚えていないですよね。どこに行ったとか、どうやって行ったかとか。

旅行においては、名所と呼ばれるところに行くこと自体がそんなに楽しいわけではなくて、行くまでの道中というかプロセスとかが楽しいはずなんです。京都の空気を吸ったとか、街中を歩いて雰囲気を感じただとか、そういうことが京都のツアーだと思うんですよ。

旅行を楽しむということだけを考えれば、もしかすると、目的地に着かなくてもいいのかもしれません。

――旅行ひとつとっても、「便利さ」の裏で私たちが失ってしまっていることがいろいろとある、ということですね。

学ぶ機会であったりとか、スキルアップする機会であったりとか、そういうことは、実は不便さの中にこそ存在している、そういう場合も少なくないと思います。

先ほど例に挙げた電子レンジのケースでも、自分にとっての最適解であったり、それを見つける楽しさであったり、それを見つけてやったぜという達成感であったりとか。

世の中に便利な物事はあふれかえっていて、ある程度は受け入れざるを得ないところもありますよね。便利になったのだからいいじゃないかという考えのもとで、すんなり受け入れてしまっていることもたくさんある。

でも一方で、そのことによって失っているものがたくさんあることには、意識しないと意外と気が付いていない。不便益の研究を続けていると、あらためてそう思います。

私たちはネットで注文すればおいしい料理を自宅まで届けてくれる、そういう時代に生きています。でも、実は料理すること自体がとても楽しいと感じる人もいるわけです。

どこまで自分で料理できるか、つまりどこまであえて手間を掛けさせてくれるか。そういう観点から、いろんなバリエーションのサービスも増えています。材料だけを届けてくれるとか、野菜を切るところまではやってくれているとか、ユーザーが自らやりたいと思うレベルに合わせてくれるサービスが今、次々に出てきています。

ああいうサービスを世の中で売り出している人たちっていうのは、便利さという尺度だけでは測れない「自分でやれることの楽しさ」を、実はみんな持っているということに、おそらく気が付いているんです。だからこれは売れるに違いないということで、そういったサービスが開発されたのだろうと思うんです。

写真はイメージです=gettyimages

――不便益の中心にあるのは人間の考え方である、ということを一貫して主張しています。「人の心」にこだわる理由は何でしょうか。

先ほど、物事を便利にする方法は2種類あるという話をしたと思います。新しく便利なものを作るとなると、どうしても人の手間を省くというアプローチを考えがちです。

でもそれだけじゃなくて、あえて手間を掛けさせてくれることで益があるという選択肢も、特に僕たちのような工学畑の人間はきちんと準備しておかなければならないと思うんです。

例えば乗用車の話でいうと、自動運転が便利だ、となって技術が発達していったとしても、人間が自分で運転できる車は絶対に残しておく必要があります。

ここをしっかりと抑えておかないと、「自動運転と手動運転が混在していると、かえって事故が起こるから、人間による手動運転は禁止する」というような世の中になりかねません。

人間が人間であるためには、自分が主体的に生きているという感覚が必要です。生かされているのではなく、生きているという感覚。それは、やはり自分が主体的に何かしたり動いたりしないと、得ることができないものだと思います。

機械にやらされているのではなく、あくまで人間が機械に対して命令を出す。それがあるべき姿なのかなと。人のおこないを中心に考えるべきで、人間を疎外しちゃダメなんです。

写真はイメージです=gettyimages

今、注目されている物流の問題も同じです。

多くの人の努力によって支えられた高品質な日本の物流システムのおかげで、私たちはネットで注文すれば、多くのものは翌日に、場合によってはその日のうちに商品が届くという、まさに究極の便利さを味わうことができます。

ただ、これを不便益の視点で見ると、現状は消費者側が「不便益を奪われている状態」だと思うんですよ。

今のような物流システムがまだなかった昔は、注文した商品がなかなか届かないというのも珍しいことではありませんでした。今と比べると、それは確かに不便ということになります。

でも、どうでしょうか。あの待ち遠しい感じとか、ようやく届いたときのうれしさとか、予想より早く届いたときの驚きとか。人の心の視点で考えると「益」は確かにあったはずです。

今の「すぐに配達されて当然」というのは、裏を返せばそういう喜びみたいなものが奪われてしまっているという状態です。ただ、今の消費者側に、そういう認識があるのかどうか。ひそかに奪われているんですよ、そういうドキドキしていた感情のようなものは。

先ほどお話ししたワークショップの中で、学生から出たアイデアのひとつに「ラグメール」というものがあります。

電子メールの長所のひとつに「すぐに届く」というのがあって、それは確かに便利なわけです。でも、それを不便にして、あえてタイムラグをつくってみようというものです。

太陽系の天体になぞらえた「水・金・地・火・木・土・天・海・冥」というボタンがあって、例えば「水星ボタン」でメールを送るとすぐに届くのですが、金星、地球となるにしたがってだんだん届くのが遅くなっていく。

最後の「冥王星ボタン」に至っては、今から10年以内に届くという仕様になっています。しかも、いつ届くのかという正確な日時もわからない。もしかして明日届くかもしれないし、きっちり10年後になるのかもしれない。 

メールは、事務連絡のような場合は確かに早く届いた方がいいわけです。でもよく考えてみると、例えば数年後の自分に今の気持ちを伝えたいとか、何かを語りたいとか、そういう使い方をするのであれば、ラグがあってしかもいつ届くのかわからないドキドキ感があったほうが、間違いなく楽しいわけです。

物流のドキドキというのも、それに似ているのではないかと思います。そういう視点で捉えることができれば、今まで気付かなかった新たな解決策も見つかるかもしれません。

――不便益の考え方は、これからの世の中でどのように広まっていくと考えていますか。

不便益で得られる「益」というのは、必ずしもすべての人が納得するようなものである必要はない、というのが僕の考え方です。

僕の場合は、手間を省く方向の便利さは選択肢のひとつとしてあってもいいとは思いますが、やはり不便益を得られる便利さの方によりひかれます。もちろん、そうじゃない人もいると思いますが、それでいいと思います。

学生のアイデアが商品になった「素数ものさし」もそうです。簡単に長さを測れる物差しは便利すぎるということで、2、3、5、7、11……というふうに素数だけの目盛りを入れた物差しを作りました。

学生のアイデアで誕生した「素数ものさし」
学生のアイデアで誕生した「素数ものさし」=2024年3月8日、京都、関根和弘撮影

例えば2センチを測りたければ3と5の間、4センチを測りたければ7と11の間を利用しなければいけません。ふつうの物差しに比べれば面倒で不便ですが、ちょっとした測定で頭を使うことで知的好奇心を刺激され、発見のうれしさや達成の喜びを感じる人もいます。

京都大学の生協で売り出したところ、大人気となって生産が追いつかず、しばらく品切れ状態が続きました。今でも売られているベストセラー商品になりました。

竹製で懐かしさを感じる「素数ものさし」が売れた理由は、もちろんノスタルジーにあるわけではありません。今まで世の中にまったく存在しなかったものである、ということが重要で、昔使っていた竹の物差しをただ復活させたわけではないのです。

科学的に効果が証明されている不便益もあります。

ある高齢者向けのデイケアセンターでは、施設内に段差や坂、階段といったバリア(日常生活で障害となる可能性のあるもの)をあえて配置しています。そういったものをなくす「バリアフリー」に対して、「バリアアリー」と呼んでいます。

そういったバリアの存在が、実は入居者の身体能力が衰えるスピードを緩めてくれるということがわかってきました。日常生活の中で様々なバリアと接することが、ちょっとした訓練になっているんですね。

バリアは不便なものだから全部排除する、というのではなくて、その不便に実は「益」があったんだということに気付いた。だからバリアをあえて新しく設置したということです。 

ただ、実際に「バリアアリー」の施設を運営していくには、入居している高齢者を見守るスタッフの側にも結構スキルが必要だということもわかってきた。

せっかく「バリアアリー」にしているわけだから、常にスタッフが手を添えていてはダメで、これ以上はまずいというギリギリを見極めて、そこで初めて手を添える。そういうギリギリを見極めるというスキルは、なかなかそう簡単には育たないらしいんですね。

学生にも、どんな不便がどういう益をもたらすのか、その機序というかメカニズムみたいなものをクリアにしたいねという話をしていて、それでいろんな実験もやっています。

こういうタイプのこういうふうな不便に対して、こういうふうに工夫を加えるとこんな益が現れる、というようなことも、もう少し詳しく調べたいと思っています。今はまだ、そのあたりの関係性がぼやっとしているのが現状なので。

原因があって結果が出るということはわかっているのですが、そのつながりのようなものは、まだ見えてきていない。そこにはきっと、人間の感情が関係しているはずです。まだまだ研究のしがいがある分野だと、そう思っています。

研究室にある「不便益」と書かれた布
研究室にある「不便益」と書かれた布=2024年3月8日、京都、関根和弘撮影