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部下から直言、上司ならどう対応?有能な人を無能者に変える「欠陥システム」の正体

桃野泰徳の「話は変わるが」~歴史と経験に学ぶリーダー論 更新日: 公開日:
東京市長だったころの後藤新平
東京市長だったころの後藤新平=1920年、朝日新聞社

少し前のことだが、定年退職したばかりの友人と一杯飲んでいた時のことだ。

「桃野さん、意外かもしれませんが私、キャリアを踏み外したことがあるんです」

友人というのもおこがましいほどのエリートで、事務次官候補の要職にまで昇った高級官僚である。

現役中はもちろん、退職後にもテレビ出演や政治への誘いが続いている元高官からの意外な話に驚き、聞き返す。

「そんな事があったとは驚きました。一体何があったのですか?」

「大したことではありません。上司の推進する政策が明らかに間違っているので直言したら、コースから外されました」

中央省庁の、とりわけ最高幹部の出世レースは過酷だ。いったんコースから外れた人が本線に戻れることなど、そうあるものではない。

そのため半信半疑で、質問を重ねる。

「ご退職時の職位を考えると、にわかに信じられません。なぜ本線に戻れたのでしょう」

「おもしろいでしょう、それが上司に直言したからなんです」

「…意味がわからないのですが」

すると元高官はニコリと笑い、経緯を話し始める。

それを聞き終えた私は、納得しつつも一つのことを確信し、暗澹たる想いになった。

(日本には、優秀な人ほど無能者に変えてしまう根本的な欠陥がある…)

「これはお前の勲章だ」

話は変わるが、明治から昭和にかけて活躍した、後藤新平という官僚・政治家についてだ。

台湾総督府民政長官、東京市長、内相・外相など様々な要職を歴任するも、今もその評価が揺れる変わり者である。

後藤が生まれたのは、1857年6月の江戸時代最末期のこと。

幼い頃から聡明で、16歳で医学校に入学し医師の道を志すとすぐに頭角を現し、1881年には24歳の若さで愛知県医学校長を任され、愛知病院長まで兼任してしまう。

そして1882年に内務省衛生局に呼ばれると、出世のスピードは勢いを増す。

28歳で衛生局第二部長に昇り、32歳でドイツ留学を命じられ、帰国後は35歳で衛生局長にまで昇り詰めてしまった。

まさに絵に描いたような、順風満帆の出世街道である。

しかしそんな後藤には、若い頃から一つの“危うさ”があった。ルールや規範よりも、自分の信念を貫く性格である。

1882年、愛知病院長で24歳の時のこと。

「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で有名な、板垣退助暗殺未遂事件が岐阜で発生する。

この際、暴漢に刺され重傷を負った板垣の治療を求め、愛知病院には何度も電報が打たれる。

管轄外の医療には許可が要るため、県に許可を求める後藤。

しかし県は、自由民権運動の象徴である板垣の治療で政府とトラブルになることを恐れ、後藤に許可を出さない。

自由民権運動で知られる板垣退助
自由民権運動を進めたことで知られた板垣退助=朝日新聞社

この事態にしびれを切らした後藤はついに、無許可のまま往診に向かい、板垣の治療にあたったのである。

さらにこの際、板垣の治療中に後藤はこんなことまで言ってしまう。

「ご本望でしょう」

自由民権運動に命をかけている板垣が刺されたまさにその時、重傷の本人に向かって、何を言うのか。

それはそうだろうが、言っていいこと、言っていい状況というものがあるだろう。

しかしそんなことをいわれた板垣もまた、こんなことを返す。

「君が政治家でないのは、残念だ」

近代日本を代表する英傑たちの、とても印象深いエピソードの一つである。

とはいえ、そんな後藤の”危うさ”が、ついに問題を起こす時が来る。

35歳の若さで衛生局長に昇った後藤のもとに、元相馬藩家臣の錦織剛清が訪れると、こんな事を言う。

「旧藩主相馬誠胤を精神病者に仕立て財産を乗っ取ろうとしている者があるので懲らしめたい。そのため費用もかかるので借金の保証人になって下さい」(岩手県奥州市立後藤新平記念館の公式サイトより)

世にいう「相馬事件」だ。概略、お家騒動で主家を追い出し財産を盗み取ろうとする者がいるので、これを阻止したいと考えた旧家臣が、後藤に助けを求めたものである。

この際、後藤は彼を支持し支援するのだが、結果として、錦織の主張は退けられる。

さらに誣告罪(ぶこくざい)で訴えられ逮捕されてしまい、後藤も連座で獄中に放り込まれることになってしまった。

投獄された後藤は内務省衛生局長という要職に留まることはできず、官職から放逐される。

その後、証拠不十分で無罪になるが、復職は叶わず食い詰めることになるのである。

無理もないだろう。

板垣事件の越境治療など、記録に残っているだけでも多くのムチャを重ねてきた後藤だ。

職を失うのも、ある意味で時間の問題だったということである。

ではなぜ、そんな後藤がその後、官僚・政治家として人臣を極めるまで“本線復帰”することができたのか。

日清戦争で、日本が勝利した時のことだった。

後に日露戦争でロシアを打ち破ることになる児玉源太郎は、将兵たちの帰国にあたり、検疫責任者を任されていた。

しかし検疫作業とは、凱旋で鼻息も荒い将兵を港に留め置き、ストレスを与える過酷な任務である。

その現場責任者である医師を誰にするか考えあぐねていた児玉は、食い詰めていた後藤に目をつける。

高級官僚でありながら、保身よりも信念を貫くことを選び、職を失った根性を気に入ったからである。

児玉源太郎
児玉源太郎=朝日新聞社

後藤は児玉の期待に応え、一切手を抜かなかった。

どれほど高位の軍人・高官から脅されても特例を認めず、徹底的に検疫を実施するよう指導力を発揮する。

その結果、日本国内に目立った疫病が持ち込まれること無く、数十万人の帰国という大事業は無事、成功裏に終わるのである。

歴史上、特筆すべき偉業であったといって良いだろう。

そして検疫作業を終え、退任の挨拶に訪れた後藤に児玉は、こんなことを言った。

「これはお前の勲章だ、誇りに思え」

そういうと大きな箱をひっくり返すが、そこにあったのはクレームの山。

後藤をクビにするよう求め、また個人攻撃するなど、過酷な批判が連ねられている手紙の数々である。

後藤が仕事に集中している時、その上司である児玉はずっと、あらゆる方面からの“サンドバッグ”になっていたのである。

それを理解した時の後藤の心中は、いかばかりだろう。

信念を貫き通すには、勇気が要る。

その時、信念と同様に大事にすべきものはきっと、責任を取りきってくれる上司であり、リーダーなのだろう。

実力はあるが跳ねっ返りで扱いづらい後藤だったが、これ以降、児玉に全力で仕えた。

そして児玉は児玉で、台湾総督に就任する際に後藤を民政長官に抜擢するなど、大きな仕事を任せ続ける。

このようにして“本線復帰”を果たした後藤はその後、南満州鉄道総裁、東京市長、内相・外相と要職を駆け上がっていくことになる。

欠陥システムの正体

話は冒頭の、友人との飲み会についてだ。

(日本には、優秀な人ほど無能者に変えてしまう根本的な欠陥がある……)

元高官からの話を聞き、なぜそんなことを確信したのか。

「本線を外された後、ある上司に仕えました。後にトップに昇る人で、一番勢いのあった時です」

「はい」

「ところがある日、その上司の予定表を確認したら規則上、問題になりかねない会合が入ってたんです。秘書に聞くと、上司のたっての希望で入れざるを得なかったと答えました」

それを聞くと元高官は急ぎ、上司のもとに向かった。

そして会合への出席を取りやめるよう進言し、体を張って予定をキャンセルさせてしまうのである。

「勢いのある最高幹部に、よく直言できましたね」

「桃野さん、本音を言います(笑)。実は私、本線を外れてたのでもう怖いものがなかったんです。ですので開き直り、自分が本当にやるべきことに集中できただけなんです」

「そういうことですね。しかしそれがなぜ、本線復帰に繋がったのですか?」

すると元高官は要旨、こんなことを語った。

自分を本線に復帰させてくれたのは、その時の上司であること。

自分を引き上げてくれた理由を退職後、聞きに行ったことがあること。

“最後の5年間で、俺に正しいことを直言してくれたのはいつも、お前だけだった”

と、その理由を教えてくれたことなどだ。

上司に直言したことでコースを外された元高官は、より器の大きな上司に直言したことで、キャリアを取り戻したということである。

いい話を聞かせてもらった一方で、しかし複雑な後味が残った。

これは、失うものがあったら正しさの為にリスクを取ることが難しい、という話でもあるからだ。

そしてそれは間違いなく、大多数の組織人の本音のはずである。

順調にキャリアを重ね役職を昇ると、人はリスクを取る理由がなくなる。

このようにしてリーダーたちは、部下や組織に対し、いつしかこんな事を言い始める。

「そんなことをして、なにかあったらどうするんだ」

「失敗したら、どうするつもりなんだ」

まさに、有能であったはずの人を無能に変える、どうしようもない欠陥システムである。

このようにして、果敢にリスクを取って挑戦した人はコースを外れていき、リスクを取ろうとしない無能なリーダーが上に昇っていくことになる。

そして話は、後藤新平についてだ。

彼もまた、若い頃から信念を貫きリスクを取り続けた結果、一度キャリアを失った。

その彼が再び本線に戻れたのは、児玉源太郎という文字通り将器の人の目に止まったからだが、こんな幸せな出会いなど、なかなか期待できるものではないだろう。

それは元高官も同じだが、信念を貫き、正しいことを進言しても“上司ガチャ”で、結果は180度変わってしまう。

リスクを恐れるリーダーばかりが上に行く社会で、組織が強くなるはずなど絶対にない。

リーダーのポジションにある人には、ぜひ考えて欲しい。

後藤新平のような部下をもった時に、その進言を受け入れ、責任を取りきることができるか。

後藤と元高官の事例が、その役に立つことを願っている。

社団法人東京放送局(NHKの前身)の初代総裁を務め、仮放送局の開所式であいさつする後藤新平
社団法人東京放送局(NHKの前身)の初代総裁を務め、仮放送局の開所式であいさつする後藤新平(中央)=1925年3月、東京・芝浦、朝日新聞社