サウジアラビアの「積極的中立主義」とは
「サウジに代償を払わせ、のけ者にする」
当時、大統領選の民主党候補だったバイデン氏は2019年、その前年にアメリカメディアのコラムニストだったサウジアラビア人のジャマル・カショギ氏がトルコにあるサウジアラビア領事館内で工作員に殺害されたことを受けて、サウジアラビアを強く非難し、こう発言しました。
アメリカとサウジアラビアの外交関係は、「石油と安全保障の交換」とも呼ばれ、1940年代にまでさかのぼります。
アメリカはエネルギー安全保障の観点から産油国であるサウジアラビアとの外交関係を重視してきましたが、イラクやアフガニスタンから撤退するなど、中東自体への関与を弱めると同時に、台頭する中国への対抗を念頭に、外交の軸足をアジア太平洋地域に移してきました。
トランプ大統領が就任後、最初の外遊先としてサウジアラビアを選んだのに対し、バイデン大統領はカショギ氏の問題を受け冒頭のように発言するなど、人権問題の観点からサウジアラビアに厳しい態度を示していました。
しかし、その態度が一転したのは2022年7月。バイデン大統領はイスラエルを訪問したその足で、サウジアラビアを訪問しました。大統領就任後、初めてのことでした。
訪問の最大の動機となったのは、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ軍事侵攻でした。
欧米各国がロシアへの経済制裁を科す一方で、世界的にエネルギー価格が高騰。バイデン大統領としては、サウジアラビアに対し原油の増産を求めざるを得なくなったのです。バイデン大統領はこれを機に態度を一変させました。2023年9月には、G20に合わせてインドからサウジアラビア、そしてイスラエルを経由して、ヨーロッパに通ずる「経済回廊」を実現すると発表。2022年7月のサウジ訪問の際は、ムハンマド皇太子と拳を合わせただけでしたが、この時は固い握手を交わしたのです。
さらにサウジアラビアは、対岸にあるイランとの関係では、中国を仲介役に外交関係を正常化。戦争状態にあるロシアとウクライナ双方と対話ができる関係を維持しています。
特にウクライナ関係では、ゼレンスキー大統領のG7広島サミット訪問の陰でほとんど注目されませんでしたが、ゼレンスキー大統領が日本の直前に訪問していたのはサウジアラビアです。
ゼレンスキー大統領が出席したアラブ連盟の首脳会議で、ホスト国であるムハンマド皇太子は、「我々は、ロシアとウクライナの間の仲介努力を継続し、安全保障の達成に貢献する方法で、この危機を政治的に解決することを目的としたすべての国際的努力を支援する」と述べ、2023年8月には、40カ国が出席するウクライナ和平会議をサウジアラビアで開催したのです。
サウジアラビアの近年の外交姿勢は「積極的中立主義」とも呼ばれています。
一見すると八方美人にも見えるその姿勢を他の中東の専門家はどう見ているのでしょうか。
湾岸地域に詳しいイスラエルの研究者は、その「巧みさ」を評価しています。
安全保障の対価=イスラエルとの正常化
「なぜハマスがイスラエルを攻撃したのか。理由の一つは、私がサウジアラビアと(イスラエルの国交正常化について)交渉しようとしていることをわかっていたからだ」
2023年10月7日、パレスチナのイスラム組織ハマスによるイスラエルへの奇襲作戦は世界に衝撃を与えました。この攻撃でも、サウジアラビアの影が見え隠れします。
冒頭の発言は、アメリカの首都ワシントンで開かれた会合でバイデン大統領が行ったもの。ハマスが、イスラエルとサウジアラビアの国交正常化を阻止するために攻撃を実施したという見方を示したのです。パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するハマスからすれば、同じアラブ諸国のサウジアラビアがイスラエルと関係改善すれば、パレスチナ問題の解決が置き去りにされかねないという見方で、こうした分析をする人は少なくありません。
アメリカがイスラエルとアラブ諸国の接近を促してきた背景には、イランとの関係があります。中東への関与を弱めつつ、地域大国として台頭を続けるイランを封じ込めるための抑止策としてイランと長年のライバル関係にあるサウジアラビアと、同じくイランと敵対するイスラエルを結びつけることで、いわゆる包囲網を築こうと考え、国交正常化の交渉を進めていたとされています。
これにはイスラエル側にもメリットがありました。
イスラエルとサウジアラビアには国交はないものの、水面下では交流があるとされています。それでも、正式に国交正常化が実現すれば、イスラエルとアラブ諸国の対立が、少なくとも政治レベルでは終わったことを意味し、パレスチナ問題を事実上、葬り去ることを意味するのです。ハマスはこれを恐れていたとされているのです。
交渉にあたり、サウジアラビア側は国交正常化の「対価」として、いくつかの条件をアメリカ側に提示しました。
アメリカの有力紙ウォールストリート・ジャーナルによると、NATO(北大西洋条約機構)の第5条のような集団的自衛権を含む安全保障条約の締結、F-35戦闘機などの最新型の兵器の供与、そして、核開発能力の支援を求めていたとされています。
2023年8月9日付の同紙の報道では、アメリカ政府関係者が「今後9カ月から12カ月程度でより詳細な和平案で合意できる」とする楽観的な見方すら示していました。
さらに、9月には、ムハンマド皇太子が、アメリカFOXニュースの単独インタビューに応じ、「パレスチナ問題は非常に重要で、この問題は解決しなければならない」としつつも、イスラエルとの国交正常化について、時期は明言しないまでも「日々(和平に)近づいている」と述べ、正常化の可能性にも言及したのです。
ハマスが変えた世界と、サウジとパレスチナ問題
パレスチナ問題においてサウジアラビアは特殊な立場を維持してきました。
サウジアラビアはメッカとメディナという二つのイスラムの聖地を抱えていることに加え、2002年の「アラブ和平案(Arab Peace Initiative)」を主導し、パレスチナの最大の後ろ盾となってきました。
この和平案では、国連決議242の履行、つまり1967年の第3次中東戦争以降、イスラエルが占領するすべての土地からの撤退を求めるとともに、イスラエルとの国交正常化は、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の独立と引き換えであることを明確にしたのです。
「パレスチナ国家なくして、イスラエルとの国交正常化なし」。この方針は、2020年にUAEやバーレーンなどのアラブ4カ国が、アメリカのトランプ政権の仲介によってイスラエルと国交正常化するまで守られてきました。
このため、2020年のアラブ4カ国とイスラエルの国交正常化の合意はこの方針が破られたことを意味するからこそ、衝撃的でもあり、サウジアラビアとの国交正常化が実現するかが大きな焦点となっているのです。
そうした流れの中で起きたのが、今回のハマスによる攻撃でした。
サウジアラビアが一体どのような声明を出すのかも注目されましたが、攻撃の翌日に出した外務省の声明では、一貫してパレスチナの立場を擁護し、「我々は(イスラエルによる)占領の継続や、パレスチナ人の正当な権利の剥奪、それに聖地に対して繰り返される構造的な挑発の結果として、情勢が爆発する危険性について幾度となく警告してきた」とイスラエル側を非難したのです。
その後も、度々、即時停戦を求めるとともに、10月に国連の会合の後に記者のぶら下がりに応じたファイサル外相は「和平プロセスを再開させなければならない。アラブは本気だ」と語気を強めて、パレスチナ問題の解決を求めました。
イスラエルとの正常化への影響は
最大の焦点は、今回の激しい軍事衝突が、サウジアラビアとイスラエルの国交正常化にどれだけの影響を与えるかです。専門家の見方も分かれています。
アメリカのシンクタンクCNAS(新アメリカ安全保障センター)のジョナサン・ロード氏は、米紙「ザ・ヒル」に寄稿した論考の中で、今回アメリカがイスラエルに対して極めて迅速な軍事的な支援を行ったことに触れ、「アメリカとイスラエルがパートナーシップを組んでいたことによってもたらされた安全と保障が実証される形となった」と指摘し、安全保障面の観点から、サウジアラビアをより国交正常化に傾かせ、ハマスにとっては裏目に出る可能性もあると指摘しました。
また、エルサレム戦略・安全保障研究所(JISS)のエフライム・インバル所長は、ハマスがサウジアラビアにとっては脅威でもあるイスラム組織「ムスリム同胞団」から分派した組織だという経緯を踏まえ、イスラエルとサウジアラビアの国交正常化の流れは変わらないと指摘しました。
しかし、こうした考えに疑問を呈する専門家もいます。
イスラエルを代表する著名な歴史・思想研究家であるヘブライ大学のアビシャイ・マルガリット名誉教授は、ハマスはムスリム同胞団に端を発するものの、政治的には独立して活動していると指摘。むしろ、ハマスもサウジアラビアもイスラム教のスンニ派であることや、サウジアラビアの発展に多くのパレスチナ人が貢献してきたことなども踏まえ、次のように指摘しました。
ムハンマド皇太子は若干38歳。一方のアメリカのバイデン大統領は現在81歳。2024年の年明けからは大統領選再選に向けた活動が本格的に始まり、選挙に向けた実績づくりとしてもサウジアラビアとイスラエルの国交正常化を進めたい思いが透けます。
日本の外交筋からは、「若いムハンマド皇太子が国王に即位すれば、その治世は何十年と続く。イスラム世界の盟主を自負するサウジアラビアとして、イスラエルとの国交正常化に急ぐ必要はない」と指摘する声もあります。
そして、イスラエルとハマスの戦闘から2カ月が経ち、興味深い世論調査もあります。
イスラエル寄りとしても知られるアメリカのシンクタンク・ワシントン近東政策研究所による最新の調査では、「イスラエルとの経済交流を支持する」という人の数は、2022年11月には43%に上っていましたが、最新では17%にまで低下しました。
これは、2020年にイスラエルとUAEなどが国交正常化する前のレベルで、いわゆるイスラエルとアラブの「接近ムード」は後退したと言っても過言ではなさそうです。
ただ、予想だにしないことが起きるのも中東です。
思い起こせば、UAEがイスラエルと国交正常化を果たす前、イスラエルのネタニヤフ首相は、パレスチナのヨルダン川西岸地区を併合すると宣言していました。
UAEは、アラブ和平案を破棄してイスラエルと国交正常化した際、”我々は国交正常化によって併合を止めたのだ”と主張していました。「アラブ和平案」という過去の約束をほごにした形ではありますが、このような主張をすることで、「正当化」を試みることができるのが、中東の現実主義的な外交でもあります。
サウジアラビアは、イスラエルとの国交正常化の条件として、パレスチナ問題でも大幅な譲歩を求めていたとされています。
まずはガザ地区での戦闘が集結し、その後の統治問題など課題は山積みですが、そのさらに後にパレスチナ問題がどのように扱われていくのか、サウジアラビアが大きな鍵を握っていることは間違いありません。