日本時間の8月14日未明に突然発表されたイスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)の和平協定の締結合意は相当な驚きを持って世界中で受け入れられた。トランプ政権になってからイスラエルとUAEは水面下での接触の機会が増えており、ガザ地区での人道危機に関するホワイトハウス会合(2018年3月)、イランに対抗するホワイトハウスでの戦略会議(2019年8月)、イスラエルからUAEへのドローン売却(2019年8月)、UAEを拠点にしたイスラエルのスパイ活動(2019年10月)、UAEの携帯アプリを通じた国民情報収集にイスラエルが協力していたこと(2019年12月)など、両国の関係は深まっていた。こうした動きは様々な形で報じられていたため、事情通の間では両国の関係が進展し、それがトランプ政権が進める中東和平案に何らかの影響を与えることは予想されていたが、それでもいきなりの国交正常化はさすがに想定の範囲を超えたものであった。ここでは「なぜ、今、突然に」こうした国交正常化まで進んだのかについて補助線を引いてみたい。
バイデン政権誕生の恐怖
イスラエルとUAEを結びつけたのは間違いなくアメリカだが、本当の主役は現在のホワイトハウスの主であるトランプ大統領ではなく、11月の選挙で勝つかもしれないバイデン元副大統領と考えると、今回の国交正常化を両国が急いだことを説明しやすい。
バイデンは言うまでもなくオバマ政権の副大統領であり、現在のトランプ政権はオバマ政権の実績をひっくり返し、パリ協定からの脱退やTPPからの脱退だけでなく、オバマ政権が渾身の力を込めて成立させたイラン核合意からも脱退した。バイデンは自らの選挙公約の中で、「イラン核合意に再加入する」と明言しており、同盟国との関係を強化して、合意に基づくイランの核開発の制限を強化することを訴えている。バイデンからすれば、自らも深く関わったイラン核合意は核不拡散を徹底するための第一歩であり、オバマ政権の「核なき世界」を引き継ぐ意味でもイラン核合意への再加入はバイデン政権の1丁目1番地という位置づけである。
こうしたバイデンの姿勢に対し、UAEやサウジアラビアなどの湾岸諸国は強い懸念を示している。オバマ大統領がイランとの核交渉を進める間も、何度となく交渉の停止を申し入れ、核合意に強く反発してきたUAEは、同じくイランと敵対するトランプ政権との関係を深め、イランに対する強い姿勢を見せ続けていた。UAEからすれば、バイデン政権がイラン核合意に復活することで、イランは合法的に核開発を継続し、地域の脅威になるだけでなく、経済制裁が解除されることによって湾岸地域のパワーバランスが変化することも懸念している。そのため、トランプ政権がイランに対して「最大限の圧力」をかけ続けることを期待していた。
しかし、11月の大統領選挙に向けてバイデン陣営が勢いを持ち始め、世論調査などでトランプ大統領の再選が難しくなるという状況を見て、バイデン政権が誕生した場合のシナリオも考えて対応せざるを得なくなった。そこで、トランプ大統領がホワイトハウスにいる間にイスラエルとの関係を強化し、バイデンが勝ったとしてもイランとの交渉を阻止できるように手を打ったものと思われる。こうした背景から、段階的な国家間関係の強化ではなく、一気に国交正常化に進んだものと考えると辻褄が合うように思われる。
動かないサウジアラビア
では、同じくイスラエルとの水面下での関係を積み上げ、イラン核合意に反対し、バイデン政権の誕生を恐れるサウジアラビアは、今回のイスラエルとUAEとの国交正常化に関して何も反応せず、UAEと行動を共にするという気配を見せていないのだろうか。サウジアラビアの実力者であるムハンマド皇太子(Mohammed bin Salman:MbSと称される)は、UAEの実力者であるムハンマド皇太子(Mohammed bin Zayed:MbZと称される)とともに次世代を担う政治リーダーとして湾岸諸国を引っ張っており、MbZとMbSはイエメン内戦での介入やカタールとの断交でも歩調を合わせて協力する関係にあるだけに、今回のイスラエルとUAEの国交正常化をMbZがMbSと協議せずに一方的に行ったとは考えにくい。
それでもサウジはUAEと歩調を合わせなかったのは、サウジ国内にはイスラエルとの国交正常化に対して反対する勢力が強く存在し、それほど行動の自由がなかったからではないかと考えられる。MbSはこれまで自らに権力を集中させるために政治的なライバルとなり得る王族を逮捕し、ホテルに軟禁するなど、実力をもって封じ込めてきたが、その荒っぽい手法は多くの反発も呼んでいる。また2020年に入ってからサウジとロシアの間で原油価格を巡る争いがあり、それに加えて新型コロナウイルスによる経済活動の停止が原油の需要を大きく引き下げ、原油価格が大幅に下落した。その結果、サウジの経済状況も不安定となり、MbSの足下は不安定になってきている。そのような状態で、これまでの宿敵であるイスラエルと国交正常化することは、「アラブの大義」を信奉するグループが少なからずいるサウジアラビアでは政治的紛争を引き起こす結果になりかねない。そのため、サウジはそう簡単には動けないと見るべきだと考える。また、サウジが動かない限り、「イスラエル対アラブ」という構図そのものが動くこともないであろう。UAEは重要な湾岸諸国の一つではあるとはいえ、UAE、バーレーン、オマーンなどがイスラエルと国交正常化しても、サウジが動かない限りは大きな中東の勢力関係の構図が変わるとは考えにくい。
鍵を握るのはイスラエル
それでも今回のイスラエルとUAEの国交正常化は中東情勢に大きなインパクトを与えることになるだろう。その鍵を握るのはイスラエルである。今回の国交正常化は、UAEの駐米大使であるユセフ・オタイバ(Yousef Al-Otaiba)が大きな役割を果たしたが、彼は「イスラエルが入植地の併合を止めることがレッドラインである」とイスラエル紙に寄稿しており、今回のイスラエル・UAE・アメリカの共同声明でも「イスラエルは米国大統領が提示した『平和へのビジョン』に規定される地域に対する主権の宣言を一時停止(suspend)する」となっている。この『平和へのビジョン』で示されたのは、現在、国際法上違法とされるヨルダン川西岸での入植地の併合問題であり、イスラエルは長年にわたってこれらの入植地をイスラエルの一部として主張してきたが、それを「一時停止」する。これはUAEが示したレッドラインと共通するところがあり、これを条件にUAEは国交正常化を受け入れたと考えて良いだろう。
しかし、問題はイスラエルが入植地の併合を諦めたわけでも、恒久的に停止したわけでもなく、一時的に停止するだけであり、いつでも再開可能だという含みを持っている。イスラエルのネタニヤフ政権は3度の総選挙を経ても組閣が出来ず、4度目の総選挙に突入するギリギリのタイミングで野党第一党の「青と白」を分裂させ、党首のガンツ元参謀総長を政権内に引き込んで国防大臣のポストを与え、1年半後には首相を交代するという条件でなんとか成立させた、極めて不安定な連立政権の上に成り立っている。この政権にはヨルダン川西岸はイスラエルの領土であると強硬に主張する政党も含まれており、入植地の併合も強く押し進めている。それだけにネタニヤフ首相はいつまで極右政党の圧力に耐え、入植地の併合を停止し続けられるかが鍵となる。言い換えれば、ネタニヤフ首相が極右政党の圧力に負けて入植地の拡大や併合の主張を始めれば、UAEとの国交が断絶するという可能性もある。実際、ネタニヤフ首相は、ヨルダン川西岸の主権を放棄したわけではないと強調している。
つまり、UAEからすれば、今回の国交正常化はイスラエルとの関係を強化することでバイデン政権への牽制やイランへの対抗、二国間の経済協力などの側面だけでなく、イスラエルの行動を制約し、パレスチナ自治政府の管理する地域が浸食されるのを防ぐことを狙っているとも言える。もしイスラエルが入植地の併合を再開すれば、国交を断絶し、今回の正常化の成果を無に帰すことも出来るとして、イスラエルに対する圧力をかけると言う考え方なのであろう。
見捨てられたパレスチナ
UAEからすれば、今回の国交正常化はイスラエルの入植地併合を食い止めるための手段ではあるが、パレスチナから見れば、これまでアラブ諸国はイスラエルとの国交を樹立したエジプトとヨルダン以外はイスラエルを敵対的存在として認識し、パレスチナ自治政府が国家として承認され、二国家共存解決(two-state solution)を目指す味方であった。しかし、そのアラブ諸国の一員であり、イスラエルとは直接国境を接していないUAEがイスラエルとの国交を正常化したことは、これまでパレスチナが拠ってきた「アラブの大義」が崩壊し、見捨てられたという意識が強くなるであろう。実際アッバス議長は今回の決定を激しく非難しており、「卑劣な裏切り」だと評価している。
とりわけ、パレスチナへの圧力を強めているイスラエルとの国交正常化を進めることは、イスラエルの行為を不問にし、その行為に報酬を与えるようなものだという見方が強い。しかし、パレスチナからすれば、このイスラエルとUAEとの関係強化を止める手段は何もなく、他のアラブ諸国もUAEの行動を止めていないだけに、更なる孤立化の可能性があるとして恐れている。
今回のイスラエルとUAEの国交正常化によって最も割を食ったのはパレスチナであることは間違いないが、イスラエルがパレスチナ人居住地域に巨大な壁を張り巡らせ、かつてのインティファーダのような抵抗運動や、テロによる抗議も出来なくなった今、イスラエルにとってパレスチナからの脅威は極めて小さくなり、中東における権力構造のバランスの中で、パレスチナは存在感を失いつつある。トランプ政権が進める『平和へのビジョン』も極めてイスラエルに有利に作られており、パレスチナが本格的な二国家共存による解決を目指していくのは一層困難になっている。
今後の中東情勢はどうなるのか
イスラエルとUAEの国交正常化は歴史的な出来事であることは間違いないが、イスラエルの国内事情から入植地の併合が進んだり、11月の米国大統領選でトランプ大統領が再選されず、バイデン政権になれば、イスラエルとUAEの関係はまた変化していく可能性がある。また、サウジアラビアが国内的な制約からUAEと歩調を合わせず、イスラエルとの敵対的関係を継続するとなれば、今回のイスラエルとUAEの国交正常化は、中東の勢力関係の構図を大きく変えることにはならないだろう。
しかし、イスラエルとUAEの共通の敵であるイランにとって見れば、この国交正常化は、イスラエルを敵とすることで保てていた湾岸諸国との関係をさらに希薄化させる効果があると見ているであろう。UAEにとってはペルシャ湾の対岸にあるイランは安全保障上の脅威ではあるが、制裁で経済的困窮に喘ぐ国でもあり、UAEがイラン経済に与える影響も大きく、制裁下でも貿易は継続していた。それだけにUAEがイスラエルとの国交正常化を進め、イランとの経済関係がより希薄になるとイランにとっても不利な状況となる。こうしたことがイランの暴発や過度な反応を引き起こさないことを願う。もっとも、アメリカの対イラン圧力は大統領選挙に向けて増す一方であり、ベネズエラ向けの原油が拿捕され、差し押さえられ、10月に期限切れとなるイラン武器禁輸措置を継続するための安保理決議案が提出され(結局不採択)、さらには過去の安保理決議の復活が議論されている。UAEとイスラエルの国交正常化はこれらの問題に比べれば、間接的な意味しかなく、イランが直面する問題としては大きな脅威にはなってはいない。