11月3日の米国大統領選挙から1ヶ月が経ち、トランプ大統領はいまだに敗北宣言を出さずに選挙不正を訴え続けてはいるが、ほとんどの州で選挙人が確定し、12月14日の選挙人による投票でバイデンが次期大統領として選出されることはほぼ間違いないと思われる。トランプ大統領も、バイデン陣営が政権移行の手続きを進めることを認め、選挙人投票で負けた場合はホワイトハウスを去ると明言している。それまではおそらく根拠の乏しい選挙不正を訴え続け、最後のあがきを止めないだろうが、2021年1月20日にはバイデンが大統領に就任することはトランプ大統領も認めていると考えて間違いないだろう。
むしろ、現在焦点を当てるべきは、残り少ない任期となりつつも、来年1月20日までは大統領であり、最高司令官としての権限を持つトランプが何をするか、という点であろう。トランプ大統領が失職後に何をするかは明らかではないが、一部には2024年の大統領選に出馬するという憶測もあり、また息子のドンJr.や娘のイヴァンカを出馬させる可能性もある。トランプ大統領の次男のエリックの妻であるララ・トランプは2022年のノースカロライナ州の上院選に出馬することを表明している。
このように、トランプ大統領の血縁が政治の世界に入るとなると、ケネディ家やブッシュ家のような「王朝(dynasty)」を作る可能性もある。そうなると、トランプ大統領は、今回の選挙で得た7400万票を将来の「トランプ王朝」に引き継がせるためにも、バイデン政権が政策を実施することを難しくし、できるだけ失策だらけの政権にすることで、バイデン政権、民主党の支配を倒す存在としての「トランプ王朝」を確立するうえでも、残りの任期でできる限りのことをすると見られている。
そんな中で起きたのが、11月27日のイランの核科学者であり、イランの核開発プログラムの中心的存在であったモーセン・ファクリザデ(Mohsen Fakhrizadeh)の殺害である。ファクリザデは国連安保理の制裁でも制裁指定リストに載っており、筆者が国連のイラン制裁専門家パネルの委員を務めていた時も、ずっと追いかけていた人物であったが、その半生は謎に包まれており、核開発への関与の仕方や活動はおろか、写真すらほとんど存在していなかった。そんな中で白昼堂々とファクリザデが殺害されたのは驚きであると同時に、その殺害がもたらすポスト・トランプ時代の中東秩序への影響が懸念される重要な出来事である。ここでは、ファクリザデ殺害事件が何を意味し、中東に何をもたらすのかを考えるうえでの補助線を引いてみたい。
謎に包まれた核科学者
ファクリザデは1957ないし1958年にシーア派の聖地コムで生まれたとみられ、1979年のイラン・イスラム革命と同時に革命に身を投じ、革命防衛隊に配属された。1980-88年のイラン・イラク戦争にも従軍した。その頃の写真は残っているが、その後はほとんど写真すら残っていない(殺害後、いくつかの通信社が撮影していた写真を公開している)。イスファハン大学で核放射線を学び、核物理学の学位を得たといわれている。その後、革命防衛隊の幹部養成学校でもあるイマム・ホセイン大学で研究を続け、教鞭も取っていたといわれている。
1990年代に核開発プログラムが国防省に移管されると、ファクリザデは防衛部門の核技術開発の部門長となり、のちにAMAD計画と呼ばれる核兵器開発計画に従事することになる。しかし、2002年にイランの核開発プログラムが暴露されると、当時の改革派政権であるハタミ政権は核兵器開発を中止すると宣言し、それ以降はファクリザデも核兵器開発から遠ざけられることとなった(その決定に対しファクリザデは強く憤っていたという話も伝わっている)。ファクリザデが完全に核兵器開発から離れたのかどうかは定かではない。国連は安保理決議1747で国防軍需省の研究者として彼を制裁指定し、2018年にイランの機密文書を入手し公開したイスラエルのネタニヤフ首相はファクリザデがイランの国防イノベーション・研究機関(SPND)の所長であると紹介している。
このように、その過去が全て明らかになっているわけではなく、どのように核開発に関与していたのかも明確ではないが、こうした情報や写真が出回っていないということ自体が、彼の存在の重要さを物語っている。イラン国内では2010年から12年にかけて少なくとも4人の核科学者、1人のミサイル技術者が殺害されており(イスラエルの関与が強く疑われている)、情報を公開することで暗殺の標的になってしまうという恐れがあると考えられていた。2010-12年は生き延びたファクリザデが今回殺害されたのも、2019年に最高指導者ハメネイ師による表彰式に出席し、その際に撮られた写真が公開されたことでファクリザデの「面が割れた」ことが原因ではないかと考えられている。実際、上述したネタニヤフ首相が彼を紹介した際に使った写真も革命防衛隊の兵士としてイラン・イラク戦争を戦っていた時の写真であり、非常に古いものであった。ここから見ても、ファクリザデの情報がいかに秘匿されていたかがわかるだろう。
殺害の目的は何だったのか
ファクリザデはしばしば「イランにおけるオッペンハイマー」と言われ、イランの「核開発の父」とみられてきた。彼がリーダーシップを発揮し、核の闇市場から入手した技術を基に遠心分離機を大量生産し、また、2009年には完全に終了したといわれる核兵器開発に向けての要素技術の開発においても大きな役割を果たしたことはおそらく正しいだろう。しかし、イランの核計画はすでにファクリザデ個人の力で支えられているものではなく、アメリカで原子力技術を学んだ、原子力庁長官のサレヒなどに代表される多くの核技術者が存在しており、ファクリザデが殺害されたことで核プログラムが立ち行かなくなるということはないだろう。
となると、ファクリザデを殺害した首謀者(ザリフ外相はイスラエルの可能性を強く示唆しているが、それを立証することはまだできていない)は核プログラムを壊滅させるのではない、別の目的を持っていたと考えられる。いったい何を目指していたのだろうか。
仮にイスラエルが殺害の背景にいると考えると、その目的はおそらくバイデン政権誕生の前にアメリカが核合意に復帰することを困難にすることを目的としていると考えるのが最も合理的な説明となる。イスラエルはオバマ政権時代からイランとの交渉や核合意を結ぶことに反対しており、イランがわずかでも核開発の能力を維持することは認めがたいことであるという立場を鮮明にしてきた。トランプ政権がイラン核合意を離脱し、イランに最大限の圧力をかけることを強く支持してきた。そのトランプ政権が終わり、核合意への復帰を公約に掲げるバイデン政権が誕生することになると、イスラエルとしては望ましくない状況が生まれることになる。
それを避けるために、イランの核開発の象徴的な人物であり、イランが必死に隠そうとしているファクリザデを殺害することで、イランがイスラエルに対して報復攻撃を行う、ないしは、怒りに任せて暴走し、地域における軍事行動を強化するようなことがあれば、バイデン政権であっても中東の秩序を乱し、同盟国を脅威にさらすイランと交渉し、核合意に戻ることは困難になるだろう。イスラエルが殺害したという仮説に立てば、イランを戦争に引き込もうとする戦術としてファクリザデを殺害したと考えると、一応の辻褄は合う。
また、イランが必死に隠そうとしているファクリザデを殺害することで、イランの防諜能力の限界を明らかにし、誰でも暗殺の対象になりうるということを示すことでイランの政治指導部を恐怖に陥れ、こうした事件を防ぐことができなかったロウハニ大統領を責め、2021年6月のイランの大統領選挙において保守強硬派に有利な状況を作ることを目的としていると考えることもできる。ただし、ファクリザデの警護を担当しているのは革命防衛隊であり、殺害された時も警護の車が3台ついていた(1台は到着地の安全を確認するために車列から離れていた)と言われている。そうなると、ファクリザデが殺害されたのは革命防衛隊の落ち度ということにもなるため、イラン国内の政治闘争に起因した暗殺とは考えにくい。
イランはどう反応するのか
このような状況の中でイランはどのように反応するのだろうか。革命防衛隊や保守派はこの事件に憤り、強い報復措置をとることを求めている。また、穏健派であるロウハニ大統領も「適切な時期に報復しなければならない」と訴えており、何らかの行動をとる可能性はある。
しかし、イランにとって、トランプ政権の4年間、とりわけ2018年5月にイラン核合意から離脱した後に実行したアメリカの単独制裁によって経済状況は極めて厳しい状況にあり、さらに新型コロナウイルスの蔓延によって中東では最大の被害が出ている状況で、アメリカの制裁による医薬品などの不足に苦しんでいる。こうした状況の中、イラン核合意に復帰することを明言しているバイデンが大統領になることに期待していることは間違いない。そうなると、仮にイスラエルがアメリカの核合意復帰を妨害するためにファクリザデを殺害したとしても、その罠にはまり、無謀な行動に出ることはイランにとっても益がないと考えていることは間違いないであろう。
また2020年1月に国民的英雄であった革命防衛隊クッズ部隊のソレイマニ司令官が殺害された時も、イランは米軍基地を狙ってミサイル攻撃を行ったが、意図的に死傷者を出さないように標的をコントロールし、紛争のエスカレーションを避ける選択をした。今回はファクリザデが隠された存在であったこともあり、国民の中には彼を知らない人も多数いるほど、国内での報復を求めるボルテージは上がっていない。その意味では、イラン指導部は国民感情に押されて攻撃せざるを得ないという状況にもない。
そう考えると、当面はファクリザデの殺害に対する報復攻撃や、イスラエルの要人を殺害すると言った「しっぺ返し」をすることもないであろう。イランが行動を起こせば自らを窮地に追い込むことになるというのは、ソレイマニ殺害の時と状況は似ており、ここはイランが自制せざるを得ない状況にあるだろう。
しかし、こうした犠牲を払い、自制することによって、バイデン政権はイラン核合意に復帰せざるを得ない状況が生まれる。上述したように2021年6月にはイランの大統領選挙が行われることになっており、このままアメリカが核合意に復帰せず、制裁も解除されないことになれば、ロウハニ大統領や穏健派に対する取り返しのつかないほどの失望が高まることは間違いない。それは結果として保守強硬派の大統領を生むことを示唆しており、そうなれば、核合意復帰どころか、さらに攻撃的な選択をすることで中東地域の秩序が一層不安定になるという恐れもある。
国内でも対立を抱えるバイデン政権
バイデン政権としてはただでさえ核合意復帰を公約に掲げることでイスラエルや同じく核合意に批判的なサウジアラビアやUAEなどの湾岸諸国との関係も悪化するリスクを背負っている。そのリスクを抱えながらも核合意に復帰するとなれば、これらの国々との関係は悪化し、バイデン政権の中東政策は極めて難しいかじ取りを迫られるだろう。シェール革命によってアメリカがエネルギーを自給できるようになり、かつてほど中東の原油やガスに依存しなくて良くなったことで、多少の行動の自由ができたことは確かだが、それでもトランプ政権がイスラエルや湾岸諸国との関係を劇的に変化させたことで、すでにバイデン政権にとってはハードルが高くなっている。
加えて、バイデン政権はイラン核合意への復帰に強く反対する共和党だけでなく、民主党内にも核合意復帰に反対する政治家もいるため、国内においても難しい政治的調整を行う必要がある。トランプ政権時代に核合意離脱を支持する勢力が一層強まり、それがトランプ大統領の「岩盤支持層」を支えていたと考えると、その支持層を引き継ごうとする「トランプ王朝」の後継者や共和党の「ミニトランプ」と呼ばれる政治家たちは一層激しくバイデン政権を批判するであろう。また、民主党内にも無条件での核合意復帰ではなく、核開発以外の問題(ミサイル開発や武器輸出)に関しても何らかの合意ができない限り復帰すべきでないとの意見もある。
そんな中でバイデンは2021年1月に大統領に就任してから5ヶ月の間に核合意復帰の目処を立て、イランで保守強硬派の大統領が生まれることを避けつつ、イスラエルや湾岸諸国の反発を抑え、国内での反イラン勢力や核合意復帰反対の勢力に対峙するという、極めて難しい状況に置かれている。そんな中でファクリザデが殺害されたことでイランが暴走すれば、このギリギリの調整すら不可能になる。そのことをイランも十分承知しており、可能な限りバイデンに対して核合意復帰・制裁解除の道を開いておくために、報復することなく自制するしか選択肢はない。
果たしてこうした極めてデリケートなバランスが最後まで維持できるのか、トランプ大統領の残りの任期でさらに何かを仕掛けてくるのか、というところに焦点は移っている。ここでトランプ大統領がさらなる行動を起こし、イランの堪忍袋の緒が切れるまで攻撃を続けることになれば、その後の中東情勢は取り返しのつかないことになるかもしれない。そうなれば、原油の8割を中東に依存する日本としても穏やかではいられない。選挙結果がはっきりしたとしても、まだまだ気を抜くことはできないであろう。