両親を殺されても「和平」求める男性
エルサレムにあるイスラエル国会「クネセト」の前に張られたテント。中には発電機が持ち込まれ、冷蔵庫や電子レンジまで置かれている。集まっているのは、ハマスによる攻撃を防げなかったネタニヤフ政権の退陣を求めるイスラエル市民だ。
このグループの中心人物とも言えるのが、マオズ・イノンさん。イスラエル南部のネティブ・ハアサラ出身で、イスラエル国内やパレスチナのヨルダン川西岸、さらには隣国ヨルダンへの観光ツアーなどを行う会社を営んでいる。
しかし、10月7日、ネティブ・ハアサラの実家で暮らしていた両親のビルハさんとヤコビさんはハマスによって殺害された。朝7時半、木造の自宅に戦闘員が爆弾を撃ち込み、燃え盛る炎の中で亡くなったという。イノンさんは、「とても言葉には表現できない。悲しみの海で溺れているかのうようだ」と話した。
ハマスなどの戦闘員はイスラエルに侵入した後、破壊の限りを尽くした。家を焼き払い、中に暮らしていた罪のない市民を惨殺。女性らへの性暴力も報告されている。殺害された人の数は1200人に上り、1948年にイスラエルが建国されて以来、最大の被害とも言われている。
ネタニヤフ首相はハマス殲滅を目標に掲げて、ガザ地区への軍事作戦を続け、12月12日時点でのガザ地区の死者数は1万8000人を超えた。ここには女性や子ども計1万2000人を含む。エルサレム中心部では、度々、右派支持者の若者が集まり、ハマスを完膚なきまでにたたきのめすべきだと政府に発破をかける姿を見かける。
右派支持者の男性は「ハマスやイスラム聖戦は、IS(過激派組織「イスラム国」)のようなもので、世界がISを潰したようにハマスも潰すべきだ」と語った。
しかし、両親を殺害されたイノンさんは、「復讐」を求めるような社会の風潮に待ったをかける。
イノンさんの会社ではパレスチナ人も働く。悲劇の後、パレスチナ人の同僚からも多くの追悼の連絡があったという。さらに、筆者が取材したこの日は、クネセトのアラブ系の議員が追悼に訪れていた。イノンさんは、困難な時だからこそ、和平への声を上げるべきだと言うという。
「和平は可能だからこそ私は泣いているのです。和平は実現できるのです。なんの理由もなく、私たちは自分たちを犠牲にしあっているのです。私自身が、イスラエル人とパレスチナ人が信頼を築くことができるという証左です。今こそ可能性を感じます。イスラエルは大きなトラウマを負いました。しかし、そのトラウマを治すためには、希望を与えることが必要なのです。最後の一人になっても声を上げ続けます」(イノンさん)
オスロ合意から30年、右傾化するイスラエル
くしくも今回の悲劇は、1993年にイスラエルとパレスチナが「オスロ合意」を結び、和平への歩みを踏み出してから30年目の年に起きた。和平交渉は2014年を最後に行われておらず、和平プロセスはもはや「死に体」だ。今でこそ欧米各国のリーダーが和平交渉の再開を訴えるが、再開の兆しはない。
この間、イスラエルでは政治や社会の右傾化が続き、2022年11月の総選挙では、ネタニヤフ氏率いる強硬右派「リクード」が第一党にとどまり、パレスチナ人の排除などを訴える宗教極右政党「宗教シオニズム」と連立した。史上最もパレスチナに対して強硬な政権が発足した。
逆にパレスチナとの和平を訴え続け、連立政権に参画したこともある最左派の政党メレツは、イスラエル社会で「極左」の烙印を押され、総選挙では議席獲得のための最低得票率(3.25%)を獲得できず議会から姿を消した。左派の不人気が鮮明となった。
しかし、今、イスラエルの左派による「和平」を求める声が再び表舞台に顔を出しつつあるとも感じる。
その背景の一つが、今回、特に被害が大きかったのは「キブツ」(Kibbutz)と呼ばれる集団農場だ。例えば、キブツのうちガザ地区に近い南部のニールオズやベエリの集落では多くの住民が殺害されたり、人質にされたりした。
2022年の総選挙の結果を見ると、こうした南部のキブツが、いかに左派色の強かった地域かが伺える。
左派の労働党やメレツが4割以上の支持を獲得し、右派の支持率は10%程度かそれ以下にとどまる。筆者が会ったニールオズ出身の女性も、子供が人質に捕らわれている中でも、将来的には和平を信じているし、パレスチナと対話しなければならないと話していた。
このため、人質の家族とネタニヤフ政権の会談の場が持たれると、政権に対して批判的な声も聞かれ、政権側は非常に神経質になっているとも言える。
衝突しか知らない若者たちが望む和平
さらに、オスロ合意から30年が経った今、「和平の機運」などというものを感じたことがない世代も増えている。
エルサレムにあるヘブライ大学の学生ドロン・ベンシャハルさん(25)は、10月7日のあと、一人で人質解放を求めるサイレントデモをエルサレムで行った。しかし、政権批判に対し敏感になっていた警察と衝突。その後もドロンさんがデモを続けると、週を追うごとに次々と人が集まるようになった。
ドロンさんの両親は、かつては和平支持者だったそうだ。オスロ合意を結んだイスラエルのラビン首相が2年後の1995年、和平に反対していた極右思想のイスラエル人に暗殺されたことで、和平を諦めたという。
オスロ合意後に生まれたドロンさんは、「和平の機運」など知らない世代だ。パレスチナとの関係で知っているのは、繰り返される衝突だけ。人生のほとんどをネタニヤフ政権下で過ごしてきた。ただ、今回の悲劇を受け、今ようやく「和平」を口にすることができるようになったと感じている。
和平推進の機運は高まるのか
イスラエル社会にはいまだ、ハマスの攻撃による大きな衝撃が残り、ガザ地区での軍事作戦も続く中、市民はまだ自制的であるように見える。オスロ合意後にガザ地区に行ったことがあるというヘブライ大学のアビシャイ・マルガリット名誉教授は、こうした動きが和平につながるかどうかは、アメリカが鍵を握ると指摘する。
マルガリット名誉教授は、オスロ合意のプロセスを抹殺してきたのは、ネタニヤフ首相をはじめとしたリクードだと指摘する。
イスラエルの最新の世論調査では、今、総選挙が行われれば、ネタニヤフ首相率いる右派リクードは、120議席中18議席と前回よりも半減すると見込まれている。
ユダヤの祭日中に起きた今回のハマス攻撃は、イスラエルでは「ヨムキプール戦争」とも呼ばれる1973年の第4次中東戦争と比較される。当時も、軍の情報収集の失敗が指摘され、労働党政権のゴルダ・メイア首相は最終的に責任をとって退陣。これがきっかけとなり、右派リクードが台頭していったとも指摘されている。
今回のハマス攻撃を受け、社会の中で徐々に上がる声がどのようにこの地域を変えていくのか、イスラエルは一つの歴史的転換点を迎えていると言っても過言ではない。