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イスラエルのガザ攻撃は「ジェノサイド」?ルワンダの集団殺戮と強制移動から考える

World Now 更新日: 公開日:
イスラエル軍とハマスの戦闘が再開し、安全な場所を求めて車の屋根に載って移動するガザの子どもたち
イスラエル軍とハマスの戦闘が再開し、安全な場所を求めて車の屋根に載って移動するガザの子どもたち=2023年12月1日、パレスチナ自治区ガザ南部ラファ、ロイター

現在のガザのように、ルワンダでもジェノサイドと並行して大量の強制移動が見られ、それによって国の人口構成が大きく変化した。ジェノサイドの定義と目的、および強制移動の目的を振り返りながら、ルワンダのジェノサイドの政治利用について解説したい。

筆者はこれまで、元ルワンダ愛国戦線(元反政府勢力で現政権。以下RPF)幹部数人を含むルワンダ難民、コンゴ民主共和国(コンゴ)難民、国連平和維持活動の国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の軍人、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)関係者、欧米諸国政府やNGO職員など約100人の関係者に聞き取り調査をしてきた。その過程で、ルワンダ政府がジェノサイドを政治的利用したことが明らかになってきた。

南部ハンユニスの病院でイスラエル軍の空爆によって死亡した人の遺体を前に嘆き悲しむパレスチナ人
南部ハンユニスの病院でイスラエル軍の空爆によって死亡した人の遺体を前に嘆き悲しむパレスチナ人=2023年11月15日、パレスチナ自治区ガザ、ロイター

ジェノサイドの定義と目的

そもそも、ジェノサイドとは何か。「ジェノサイド」とは、人種・種類や集団を意味する古代ギリシャ語の「genos」と、「殺害」を意味するラテン語の「cide」を組み合わせたのが語源で、1944年、ポーランド出身のユダヤ人法学者、かつ弁護士のラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)によって初めて用いられた造語だ。

その後、1948年の国連総会で「集団殺害罪の予防と処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)が採択されたことで、法的な定義が与えられた。

本条約の2条には下記のように定義されている。

ジェノサイドとは、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を集団それ自体として破壊する意図をもって行われる次のいずれかの行為をいう。

(a) 集団の成員を殺すこと

(b) 集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること

(c) 集団の全部または一部の身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に集団に課すこと

(d) 集団内の出生を妨げることを意図した措置をかすこと

(e) 集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと

ジェノサイド研究者の石田勇治氏によれば、ジェノサイドは要約すると「人間の集団としての存在を否定する行為」であり、ジェノサイドを「集団殺害」ではなく、「集団抹殺」と訳す方が適切であろうと指摘している。

ジェノサイドの定義については次の2点に留意すべきだ。

第一に、上記の定義から、被害者の数は国際法上のジェノサイドの要件として大きな意味はなく、その行為の意図が重要であることだ。なので、時おりジェノサイドを「大量殺戮(さつりく)」と訳されることがあるが、それは正確ではない。しかし集団破壊の意図を判断するのは容易ではなく、例えばアメリカにおける白人(警察も含む)による黒人の殺害はジェノサイドなのではないかという指摘もある。

第二に、ジェノサイド条約における定義が狭い点だ。

レムキン氏は、集団のアイデンティティーの破壊に大きな懸念を抱いていたが、 民族言語の使用の禁止、歴史的記念碑などの破壊など、集団の特性を破壊する目的の行為である「文化的ジェノサイド」は、条約には定義されていない。

そもそもレムキン氏はナチス・ドイツの暴力支配を告発するために、ジェノサイドという言葉を用いたが、その歴史は紀元前8、7世紀のアッシリア人によるジェノサイド的大虐殺以降、世界各地でたびたび記録されている。 ある学者によると、歴史に残る多様なジェノサイドの中で、よく記憶され、よく研究されている五大のジェノサイド(big five)とは、アルメニア、ホロコースト、カンボジア、旧ユーゴスラビアとルワンダを指す。

世界から忘れられたジェノサイド

その一方で、忘却された、あるいはほとんど国際的に認知されていないジェノサイドが世界各地で起きている。

認知されていない理由として、例えば西欧諸国が直接的、あるいは間接的にジェノサイドに関わったなど国際的な文脈や地政学的な主因が挙げられる。

前回の記事にも書いたように、1996~97年のコンゴ民主共和国東部で、ツチ主導のルワンダ軍がフツ(多数派)系ルワンダ難民数万人を殺戮し、国連はその行為をジェノサイドの特徴があると明言したのにもかかわらず、それについて国連安保理などで積極的に議論する姿勢が見られない。

コンゴ以外にも、下記のような忘れられたジェノサイドが記録されている。

  • 1803~1876年、オーストラリア大陸と周辺島でのイギリス人入植者による先住民族アボリジナルピープル6000人
  • 1843年以降、特に第1次世界大戦中、オスマン帝国でのトルコ人とクルドによるアッシリア人少なくとも3万人
  • 19~20世紀、ドイツでのドイツ人などによるロマ50万人
  • 1904~1908年、ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)におけるドイツ人によるヘレロ族6万人
  • 1950年以降、中国での中国人によるチベット族(数不明)
  • 1965~1966年、インドネシアでの共産主義者50万人
  • 1971年の東パキスタン(現バングラデシュ)でのパキスタン人によるバングラデシュ人300万人
  • 1972年、ブルンジでのツチによるフツ20万人
  • 1988年、イラク北部でのイラク系アラブによるクルド10万人
  • 2017年、ミャンマーでの軍によるロヒンギャ族(数不明)
小舟に少量の家財道具を載せ、バングラデシュに脱出するロヒンギャ族の難民たち
小舟に少量の家財道具を載せ、バングラデシュに脱出するロヒンギャ族の難民たち=1992年3月ごろ、バングラデシュ・ミャンマー国境、朝日新聞社

2003年、そして現在も続くスーダンのダルフール地方における紛争もジェノサイドだと指摘されている

日本が関わったジェノサイド(南京大虐殺、シンガポール華僑虐殺と関東大震災直後の朝鮮人虐殺)も忘れてはならない。

震災後、千葉県の習志野廠舎(高津廠舎)に収容された朝鮮人らを視察、訓辞をする山梨半造・関東戒厳司令官(左)。当時は朝鮮人が暴動を起こすなどの流言、デマが広がり自警団に暴行される事件が続発したため、軍や警察が危害防止のためとして朝鮮人、中国人を保護、検束して強制収容した
震災後、千葉県の習志野廠舎(高津廠舎)に収容された朝鮮人らを視察、訓辞をする山梨半造・関東戒厳司令官(左)。当時は朝鮮人が暴動を起こすなどの流言、デマが広がり自警団に暴行される事件が続発したため、軍や警察が危害防止のためとして朝鮮人、中国人を保護、検束して強制収容した=1923年9月28日、千葉県千葉郡幕張町実籾(現・千葉県船橋市東習志野)の陸軍習志野廠舎、朝日新聞社

ジェノサイドは主に紛争中に実行される場合が多い。

その目的について、石田氏によると、「一見無目的で不合理なジェノサイドにも実行者の様々な具体的な目的があり、ジェノサイドはそのための手段として遂行されている」。

その目的には、戦争の勝利だけでなく、経済的富の獲得、実際の脅威または潜在的な脅威の排除、現実的または潜在的な敵に恐怖を広め、信念、理論、またはイデオロギーを実行することが含まれる。 そしてさまざまなジェノサイドの共通点として、「実行者はジェノサイドを正当化し、これに人々を動員するために、敵集団を悪魔化・非人間化するための言説や表象を創出すると同時に、自衛団のアイデンティティーを強化する」を挙げている。

強制移動の目的

前述のジェノサイド条約第2条(e)は、子どものみの強制移動を指すが、(c)の「集団の全部または一部の身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に集団に課すこと」には、大人を含む強制移動が含まれる。

その理由は、法学者によると、「個人を故郷や国境を越えて、死亡率と罹患率が極めて高いことが予見可能な難民キャンプに強制移住させることは、人権侵害を伴う。これらの目的とした軍事行動は、国家的、民族的、人種的、宗教的集団の全体または一部を破壊する意図で行われたことは間違いない」。

しかし前述のように、住民の移動を強制する際に、実行者に特定の集団を破壊する意図があったのかが問われる。実行者が安全保障や経済的な理由から住民に移動を促した、あるいは一時的な避難を意図していた可能性もあるからだ。

反政府勢力RPFがルワンダ北西部ギセニに迫り、逃れようとする大勢の市民とルワンダ軍兵士を乗せた装甲車
反政府勢力RPFがルワンダ北西部ギセニに迫り、逃れようとする大勢の市民とルワンダ軍兵士を乗せた装甲車=1994年7月17日、ルワンダ北西部、ロイター

そもそも避難(displacement)とは、住民が紛争や迫害から逃れるために、安全を求めて国内外に逃亡している動きと認識されている。が、政府や紛争当事者からすると、その同じ動きは追放(expulsion, deportation)という意味を持つことが多い。

さらに難民を含む集団の移動は、戦略的な理由で促進されることがあるため、強制移動は「外交政策、または安全保障を達成するための国家戦略の一部」として起きている。なので、住民の強制移動はジェノサイドの随伴的な現象というより、ジェノサイドの目的でもある。

強制移動には、土地と資源を得るための追放という経済的目的がある。それ以外にも、特定の地域の人口構成を変化させ、「それによって人口の存在そのものを危険にさらす」目的もある。

そのような人口移動は民族と関連している。なぜなら、避難民と、移動を強制する政府などのアクターは、一般的に異なる民族集団(または人種)の出身であるからだ。

上記の人口構成の変化には主に2種類がある。

一つ目は民族浄化で、特定に地域から人々を追放し、「望ましくない」人々を浄化すること。二つ目は民族統合で、すなわち民族間の相対的なバランスを変え、望ましい民族集団の経済的・政治的力を増大・強化するために、人口が少ない地域に再定住することだ。

特に強制移動が大規模であれば、避難民の不安定化と敗北だけでなく、彼らの財産や収入の喪失、経済的・社会的疎外による貧困の一因にもなる。最悪の場合、大規模な強制移動は特定の集団を消滅することもある。

上記のことをルワンダの事例と照らし合わせながら、さらに検証してみたい。

首都キガリの虐殺記念館に展示された、1994年のジェノサイドで殺害された人々の顔写真
首都キガリの虐殺記念館に展示された、1994年のジェノサイドで殺害された人々の顔写真=2014年4月5日、ルワンダ、ロイター

ルワンダのジェノサイドと強制移動

1994年4月から7月までの100日間に、50万~80万人が殺戮されたと言われるルワンダのジェノサイド。

ルワンダでは、それに先立つ1990年にツチ主導の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線」(RPF)がウガンダからルワンダに侵攻し、フツ系のルワンダ政府との間で内戦が続いていた。1993年に和平合意が結ばれたが、その後も戦闘は続き、一般市民は殺害された。その内戦の延長線として、1994年の3カ月間、ジェノサイドが起きた。

ジェノサイドの引き金となったと言われるのが、1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領(フツ)の暗殺だ。彼が乗っていた飛行機が⾸都キガリの国際空港に着陸する直前に地対空ミサイルで撃墜され、その翌日から政府軍・⺠兵とRPFの両者による殺戮が始まった。

殺戮の端緒となった大統領暗殺は誰の手によるものだったのか。

2010年、カガメ政権下のルワンダ政府の調査委員会は、当時のフツ系ルワンダ政権内部の過激派によるものだったとする報告書をまとめた。しかし、カガメ氏の元側近だったRPF元参謀長は、フランス主導の調査に対してRPFが実行したと証言。ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)の特別調査チームも、カガメ氏が率いていたRPFが実行したと結論づけた

ICTRの主任検察官カルラ・デル=ポンテ氏は「もしRPFが大統領機を撃墜していたのなら、(ルワンダの)ジェノサイドの歴史は書き直されなければならない。この状況は何十万人もの人々の死に対するフツ過激派の責任を決して軽減するものではないが、RPFに新たな光を当てることになるだろう」とまで述べている。 言い換えると、RPFが大統領機を撃墜したのであれば、RPFがジェノサイドを事前に計画し、RPFがジェノサイドの主な責任であることを意味する。

RPFのカガメ氏は、フツを殺戮して強制退去させることで、ルワンダ北部に「ツチ・ランド」をつくるという意図的な政策を開始。RPFは1990年にルワンダに侵攻以降、穀倉地帯である北部住民を追放し続けた結果、主にフツの住民約100万人が国内避難民となった。

ルワンダ政府軍の基地を制圧した後、トラックに迫撃砲などの弾薬を積み込む反政府勢力RPF
ルワンダ政府軍の基地を制圧した後、トラックに迫撃砲などの弾薬を積み込む反政府勢力RPF=1994年5月23日、ルワンダ、ロイター

同時に、RPFは、ツチ、フツを含むハビャリマナ政権の政治家、知識人、野党指導者、教師、実業家、RPFの反体制の人々を無差別に殺害した。ルワンダ政党の主要メンバーが一斉排除されて政治的空白が生まれる中、その政治的地位をウガンダなどから帰還したツチ元難民で埋めた。

1994年7月に、RPFが軍事勝利した。ジェノサイドによって80~100万人が殺戮され、同時期に旧政府の与党全員を含むルワンダ人250万人が国内外に逃亡した。当時の人口が700万人だったルワンダは、人口の半分が殺されたり避難したりしたことにより、国土の半分が「空き地」「空き家」になった。それらの多くは多数派フツが所有していたものだ。

RPFの軍事勝利後に、1959年の「社会革命」で隣国ウガンダ、タンザニア、コンゴ、ブルンジなどに避難していたツチ難民が帰還したのだが、彼らの中には国外で生まれ、帰還した際に初めてルワンダの地を踏んだ者もいる。家などの所有物がない彼らは、フツ避難者や死亡者が所有していた空き家や空き地を不法占拠した。それは国連によると、最も頻繁な人権侵害の形態の一つだった。

言い換えると、1959年のツチ難民の帰還とルワンダでの定住(空き地と空き家の不法占拠)、そしてRPF主導の政権転覆を実行するために、フツの人口追放と殺戮、つまりジェノサイドが必要だったと言っても過言ではない。

現実に、現政権のRPFは国民にさまざまな形で恐怖心を植え付けることにより、自称「望ましい」民族集団であるツチの経済的・政治的力を強化し、「望ましくない」フツやRPF体制に賛同しないツチの永久的追放に成功した。

ジェノサイド後、「ツチ=犠牲者、フツ=加害者」というレッテルが貼られたことにより、無辜のフツ市民でさえ、「ジェノサイド加害者」と間違って呼ばれることがある。これにより「敗者」であるフツのアイデンティティーも弱体化、あるいは消滅する可能性がある。その意味では、フツの「文化的ジェノサイド」も実行されたのだ。

そして「ジェノサイドを止めた」と標榜するRPFによるジェノサイドの政治利用はルワンダにとどまらず、隣国コンゴでも見られている。

現在のガザを見ると、ルワンダ同様にパレスチナ人がガザ地区からも追い出され、ふるさとに永遠に帰還できないのではないかと懸念を抱く。1948年、イスラエル軍によるパレスチナ人の村落の破壊により、大多数のパレスチナ人が恒久的に退去されたナクバ(アラビア語「大厄災、大惨事」の意)のように。ルワンダのジェノサイドの実態と影響について、今後さらに深堀りしたい。