1994年4月からわずか100日の間に、80万~100万人が犠牲になったと言われるアフリカ・ルワンダの虐殺。発生から25年を迎えた今年4月、国内各地で追悼式が開かれた。
4月7日、虐殺後から政権を担ってきたカガメ大統領は、ベルギーや近隣諸国の首脳、虐殺後に生まれた若者たちと首都キガリの街を行進した。目的地は、追悼式が開かれる国立競技場。2.5キロの道のりを歩きながら、それぞれが悲劇に思いをはせた。
競技場に到着した人々はろうそくに火をつけ、悲劇を記憶することを誓い合った。暗闇に浮かぶ明かりは幻想的な雰囲気だったが、当時を思い出したのか、時折、悲鳴声も聞こえた。25年の歳月を経ても、家族を失った体験は人々の傷となっていた。
ルワンダは元々、多数派民族のフツや少数派民族のツチなどが共存していた。ただ、旧宗主国のベルギーが植民地政策でツチの人々を重用。独立後は、国家権力を巡る争いも加わって、民族間の関係が悪化していった。
1994年4月6日、フツ出身のハビャリマナ大統領が乗った飛行機が何者かに撃墜された。機体は今も、首都キガリにあったハビャリマナ氏の自宅近くの広場で公開されている。写真撮影は特別な許可証が必要だと言われたが、損傷が激しいエンジンや両翼部分などが残されていた。
事件後、フツの急進派は、大統領の死を「ツチの仕業だ」と主張。ラジオ局も「ツチはゴキブリだ。抹殺せよ」と群衆をあおった。武器は、銃よりも農具用の器具やナタが多用された。ツチの人々をかくまった穏健派のフツの人たちも「裏切り者」のレッテルを張られ、殺された。
ルワンダの首相を護衛していた国連平和維持部隊のベルギー兵10人も犠牲になった。彼らが立てこもった建物には、生々しい銃痕が残る。現地のガイドは「彼らは数時間にわたって100人近い兵士と銃撃戦を繰り広げた末に、殺された」と言った。
キガリから南に車で30分ほど離れたナラマという街でも今月9日、追悼式が開かれた。当時、この場所には教会があり、ツチの人々にとって唯一の避難場所のはずだった。だが、それは人々を一カ所に集めるための罠だった。ここで5千人以上が殺され、犠牲者の頭蓋骨や骨、衣服、所持品などが展示されている。
ルワンダは虐殺後に治安が安定し、順調な経済成長を遂げる。カガメ氏は8日に開いた記者会見で、「どんなに大変なように見えても、乗り越えられない問題はない」と強調。ルワンダの歴史や経験がその証明だと語った。
一方、グテーレス国連事務総長は7日、声明を発表し、「世界各地で排外主義や人種主義、不寛容という危険な動きが台頭してきている。特に、ヘイトスピーチや暴力の扇動の急激な蔓延が懸念される」と危機感を示した。そして、「ヘイトスピーチと暴力の扇動を突き止め、過去に見られたような憎悪犯罪やジェノサイドへとつながらないようにするべきだ」と訴えかけた。