健康を至上価値とする政治体制
21世紀半ば、ドイツには身体的健康を至上の価値とする政治体制〈メトーデ〉(ドイツ語で方法、手段の意)が敷かれている。歴史上のあらゆる政治システムを凌駕(りょうが)する究極の体制とされる〈メトーデ〉は科学の無謬(むびゅう)性を基盤とし、宗教の代替の役割も果たす。
この体制下で暮らす40歳以下の市民は病気を知らない。町は無菌状態に保たれ、菌やウイルスが存在する自然地域には立ち入り禁止。国が個人の食事、睡眠、運動量に至るまで細かに管理している。健康であることはもはや市民の個人的権利ではなく、社会全体のための義務である。
あたかも2020年以降3年続いたコロナ社会を批判する小説のようだが、本書『コルプス・デリクティ』が刊行されたのは2009年。当時もジョージ・オーウェルの『1984年』の21世紀版と評されベストセラーとなったが、コロナ禍で当然ながら再び注目を集め今日までロングセラーだ。
主人公は30歳の女性ミーア・ホル。弟モーリッツが女性を暴行、殺害したとして有罪判決を受け、刑務所で自殺して以来、体制に疑問を抱くようになった。DNA検査などあらゆる科学捜査の結果が有罪を示すにもかかわらず、モーリッツは法廷で潔白を主張し続けた。それは科学を唯一普遍の真理とする〈メトーデ〉を疑う行為であり、体制に対する一個人の反抗として大スキャンダルになった。
モーリッツの死後もその潔白を信じるミーアは喫煙の罪を犯して裁判にかけられる。しかし法廷で、科学的事実から体制が「真理」として導き出した結論に誤りがあったことが明らかに。〈メトーデ〉の無謬性が覆り、社会に激震が走る。体制崩壊を恐れる政権はミーアにわなをしかけ……。
刊行の2009年から現在に鋭く問う
2023年の今読むと、本書で描かれる近未来社会とコロナ禍におけるドイツ社会とのあまりの相似に、驚きを越えてそら恐ろしくさえなる。著者には未来が見えていたのか。2009年当時の著者の執筆動機は、「市民の安全、健康のため」に国家が個人の管理・監視を強化する傾向と、市民がそれを自ら求める風潮に対する危機感だった。病を避けるという至上命題を前に異論が封じられ、「科学を信頼しろ」の号令の下、トップダウンの政策を市民がおおむね積極的に受け入れたコロナ社会の萌芽は当時すでにあったのだと、改めて気づかされる。
著者ユーリ・ツェーは1974年生まれ。現代ドイツ屈指の人気と実力を誇る女性作家で、大ベストセラーを連発している。法学博士号を持つ法律家でもあり、コロナ禍で感染対策への批判がひとくくりに「反科学」の烙印(らくいん)を押され、議論が抑圧される世相を、民主主義をゆがめるとして一貫して批判してきた。
ドイツで科学の名の下に法的強制力を伴って実施された感染対策のなかには、学校閉鎖、厳格な外出制限や屋外でのマスク着用義務など、現在では「無意味だった」「弊害が大きかった」と認められているものも多い。「科学への信頼」が信仰に変われば、異なる見解は「異端」となり弾圧される。主人公の姓ホルは、中世ドイツの魔女裁判で拷問に屈せず最後まで自白しなかった実在の女性の姓だ。
個人の身体に対する決定権と責任は、全体のために公に委ねられてよいものなのか。科学的事実は人の解釈が介入する余地のない「真理」なのか。本書は14年前の世界から現在に鋭い問いを突きつける。「市民はいつも、そのときに信じたいものを信じるんですよ」─作中、体制の権力者が放つ言葉が重く響く。
ドイツのベストセラー(リーガルスリラー)
Amazon 2023年7月6日付リストより
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 Achtsam morden 注意深く殺そう
Karsten Dusse カールステン・ドゥッセ
「注意深さ」のセミナーを受講した弁護士が学んだことを応用して殺人を実行。
2 Corpus Delicti コルプス・デリクティ
Juli Zeh ユーリ・ツェー
健康を至上価値とする近未来を描くディストピア小説。コロナ禍で再度話題に。
3 Desert Star 砂漠の星
Michael Connelly マイクル・コナリー
日本でもおなじみのハリー・ボッシュがレネイ・バラードとタッグを組む最新作。
4 ℃―Celsius 摂氏
Marc Elsberg マルク・エルスベルグ
気候変動をテーマにした近未来SF。ある日中国上空に無数の飛行物体が現れ……。
5 Monster モンスター (Kindle版)
Nele Neuhaus ネレ・ノイハウス
日本でも人気のミステリー作家の新作。刑事オリヴァー&ピア・シリーズ11作目。
6 Monster モンスター(単行本)
Nele Neuhaus ネレ・ノイハウス
5位と同作品の単行本版。刊行予定はいずれも11月だが、すでに予約殺到。
7 Conte – La Famiglia コンテ―ラ・ファミリア
Olivia J. Gray オリヴィア・J・グレイ
マフィアのボスが弟を刑務所から出すために弁護士を脅迫。その後有能な弁護士は……。
8 Tödlicher Lavendel 死をもたらすラヴェンダー
Remy Eyssen レミー・アイセン
仏・プロヴァンスを舞台にした人気シリーズの第1作。法医学者を事件が待ち受ける。
9 Liar 嘘つき
Steve Cavanagh スティーヴ・キャヴァナー
娘を誘拐された父親の依頼を受けた弁護士は事件の背後の大きな闇に気づく。
10 Zu wenig Zeit zum Sterben 死ぬ時間などない 『弁護士の血』(早川書房)
Steve Cavanagh スティーヴ・キャヴァナー
マフィアに娘を誘拐され、自分に不利な証言者を殺せと脅された弁護士は……。