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自分たちだけ生き延びたい…核シェルターが登場する物語が描く人間の二つの「不可能」

World Now 更新日: 公開日:
作中に核シェルターが登場する『北斗の拳』究極版第1巻の表紙
作中に核シェルターが登場する『北斗の拳』究極版第1巻の表紙=©武論尊・原哲夫/コアミックス 1983

2022年2月に始まったロシアによる侵略戦争で、ウクライナの市民らが地下に避難し、身を守っている。旧ソ連時代につくられた核シェルターも、表舞台に引き戻された。

SFの世界の存在だと感じていた核シェルターが、「冷戦の亡霊」のように日々のニュースに現れたことに衝撃を受け、取材したいと思った。

スイスやフィンランドは、核戦争の危機が迫った冷戦時代から市民のための核シェルターを整備し続けてきた数少ない国だ。いくつかシェルターを訪ねると、壁も扉も分厚く頑丈そうで、しばらく生活できるという換気装置も備えていた。だが、核シェルターがあるアパートの住民に話を聞くと、核攻撃から守れるとは、はなから考えていなかった。

実際、これまで核シェルターが使われたことは一度もない。核兵器から身を守るという想定自体が、「いわばフィクションのようなものだ」。日本近代文学が専門で、原爆文学研究会の事務局長も務める福岡大学の中野和典教授(48)はそう指摘する。

フィクションの世界では、特に冷戦時代に核シェルターの物語が数多く生み出された。

『風が吹くとき』 レイモンド・ブリッグズ作、さくまゆみこ訳、あすなろ書房
『風が吹くとき』 レイモンド・ブリッグズ作、さくまゆみこ訳、あすなろ書房

1982年に英国で発表されたレイモンド・ブリッグズの『風が吹くとき』では、英国の田舎町で暮らす老夫妻が、政府広報の指示を参考に、自宅の片隅に外したドアを立てかけ、クッションをかき集めて「死の灰を避けるシェルター」をつくる。これらの対策は、実際に英政府が1980年に発行した冊子で核戦争への備えとして紹介されていたものだ。

物語の中盤、見開きいっぱいの白いページが核ミサイルの爆発を告げる。「政府の救助隊がじきに来る」と信じる2人だが、放射線によって少しずつむしばまれ、衰弱していく。素朴で温かみのある絵が、核戦争の残酷さや人間のもろさを一層際立たせている。

限られた空間に閉じこもり、危機を生き延びるという核シェルターの存在を、多くの作家は、聖書の創世記に出てくる「ノアの方舟」と重ねて描いてきた。モルデカイ・ロシュワルトの『レベル・セブン』や安部公房の『方舟さくら丸』を例に挙げ、中野教授はこう説明する。

方舟神話では、神に選ばれた人間ノアが家族とともに様々な生物をつがいで方舟に乗せ、神の起こした大洪水を生き延び、水が引いた後の世界で再び栄える。対照的に、シェルターの物語では「自分だけ、人間という種だけ」が生き延びればという排他性が浮かび上がる。登場人物たちは、核兵器で互いに破壊し尽くすまで行き着いてしまった人間に、核シェルターに入ってまで生き延びる価値がそもそもあるのか、自問する――。

「シェルターで生き延びるという状況自体が、人間の暴力性や政治的な限界を表している。実際には誰も使ったことがない核シェルターという一種のフィクションに対し、そんなことが技術的にも倫理的にもあり得るのか、とフィクションによって問いかけている」

シェルターで誰をいつまで守れるのか。生き延びた「方舟の先」に何があるのか。その答えが出ないよう、フィクションの存在のまま、とどめておくことが重要なのではないだろうか。それには、核シェルターが使われるような事態そのものを引き起こさない、人間同士のたゆまぬ努力が求められる。

――シェルターの物語には、どのような作品がありますか?

私が子どものころに最初に核シェルターを意識するきっかけになったのは、週刊少年ジャンプで連載されていたひらまつつとむの『飛ぶ教室』(1985年連載開始)でした。校庭に核シェルターが作られている小学校が舞台で、大掃除をしているときに核戦争が起き、子どもたちが一人の先生とシェルターに避難するところから物語が始まります。当時、ものすごく強烈でした。

同じく少年ジャンプの『北斗の拳』(原作・武論尊、漫画・原哲夫、1983年同)にも核シェルターが登場しますし、核兵器やシェルターが明示されてはいませんが、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(1982年同)も、世界の破滅から物語が始まります。

当時、アメリカとソ連が互いを越えようと競争を続け、世界には核兵器が6万発以上あった。そんな時代を映し出していたのだと思います。

――シェルターの存在は、文学の世界ではどのように描かれてきたのでしょうか?

安部公房の『方舟さくら丸』(1984年)や大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』(1973年)、海外の作品でモルデカイ・ロシュワルトの『レベル・セブン』(1959年)など、冷戦下、核シェルターが登場する文学作品も数多く生み出されてきました。

対談する作家の安部公房さん(左)と大江健三郎さん=1990年11月、朝日新聞社撮影
対談する作家の安部公房さん(左)と大江健三郎さん=1990年11月、朝日新聞社撮影

これらの作品は、聖書の「ノアの方舟」の神話に核シェルターを重ねて描き、両者の「ズレ」を示しています。そこから見えてくるのは、「二つの不可能性」です。

――「二つの不可能性」とは?

一つは、「技術的な不可能性」です。

方舟神話では、神に選ばれた人間ノアが家族とともに様々な生物をつがいで方舟に乗せ、神の起こした大洪水を生き延び、水が引いた後の地で栄えていく。人間は、ほかの生物なしには生きられないという認識が大前提になっていたわけです。

対照的に、核シェルターの物語では、「自分だけが生き延びれば」、「人間という種だけが生き残れば」という排他性が露わになる。そこには聖書の方舟のような大前提はありません。そんな人間の一種の過信、錯覚のようなものが、次第に破綻していく様が描かれています。

大阪の国際見本市に出品された核シェルターの模型内部を見学する親子連れら=1984年、朝日新聞社撮影
大阪の国際見本市に出品された核シェルターの模型内部を見学する親子連れら=1984年、朝日新聞社撮影

もう一つは、「倫理的な不可能性」、つまり、そこまでして生き延びることに果たして意味を感じられるか、という問いです。

核シェルターというのは当然、核兵器とセットの概念です。片方に核兵器があり、核抑止論が世界の秩序を形作っている。それに対抗する存在として核シェルターが描かれますが、そこまでして生き延びていくこと自体の意味がだんだん自分でもわからなくなってくる、という展開が多くの作品で見られます。

核兵器で互いに破壊し尽くすようなところまで行き着いてしまった人間に、生き延びていく価値がそもそもあるのか。そんなメッセージが込められていたのだと思います。

――核シェルターが実際に使われたことは、今まで一度もありません。

実際の核攻撃というのは、広島と長崎のみで、その後はすべてシミュレーションの話です。シミュレーションは現実のコピーから出発するのですが、ジャン・ボードリヤールが指摘した通り、逆にそのコピーが現実を生み出していく。核兵器の軍拡競争はまさにこれです。もし核攻撃を受けたら、というシミュレーションが先に作られて、それに向かって核配備という現実が作られていく。

核シェルターを完璧に備えるほど、核兵器の脅威は減るわけですから、じゃあ今度はシェルターも貫通するようなものを作るだとか、もっと汚い爆弾を作るだとか、やっぱりエスカレートしていく。水におぼれることを恐れて集団で陸に上がって死んでいく鯨のことを書いた安部公房のエッセイ『死に急ぐ鯨たち』(1984年)みたいに、人間も目の前の危機感に突き動かされてより危険な状況に向かっていくかもしれない。

核シェルター建設について話し合う「建築人の会」の反核シンポジウム=1982年9月、東京・青山、朝日新聞社撮影
核シェルター建設について話し合う「建築人の会」の反核シンポジウム=1982年9月、東京・青山、朝日新聞社撮影

核戦争や核シェルターを描いた文学やサブカルチャーは、一種のシミュレーションの物語として、核戦争というフィクションに、別のフィクションで対抗する。誰も実際には使ったことのない核シェルターで、これだけ守れますよっていうシミュレーションに対して、そんなことが技術的にも倫理的にもありえるのか、ということを物語というシミュレーションの形で問いかけています。

方舟神話において大洪水を起こすのは神ですが、核シェルターの物語において核戦争を起こすのは人間です。シェルターで生き延びるという状況まで追い込まれてしまったこと自体が、人間の暴力性や政治力の限界であるということを物語は描いているのです。

――核兵器こそ使われてはいないものの、ウクライナではロシアが侵略戦争を続け、人々が古い核シェルターに避難して命を守っています。

現在のロシアによるウクライナ侵攻で、世界観や歴史認識を改めなくてはいけないのだと思いました。私たちは、冷戦はとっくに終わった、ポスト冷戦の時代を生きているのだと思っていましたが、そうではなかった。一気に1980年代に引き戻された。あるいは気づかなかっただけで、潜在的には冷戦の時代は続いていたのかもしれない。

空襲警報が鳴り、地下鉄駅の動かなくなったエスカレーターに寄りかかって警報解除を待つ女性=2023年2月25日、ウクライナの首都キーウ、竹花徹朗撮影
空襲警報が鳴り、地下鉄駅の動かなくなったエスカレーターに寄りかかって警報解除を待つ女性=2023年2月25日、ウクライナの首都キーウ、竹花徹朗撮影

福岡の地元番組でもどこかの企業が核シェルターを作った、展示会が開かれた、といったニュースを見かけます。ウクライナ侵攻のような形で、「冷戦の亡霊」のような感じで核シェルターが注目されているというのは、どこか既視感があります。人間って、やっぱり簡単に変われないんだなと思いました。

――日本で核シェルターがつくられてこなかった理由について、どのように考えますか?

日本に核シェルターがほとんどないのは、風土や地政学的なもの、あとはやはり原爆体験があるのではないでしょうか。特に第2次世界大戦で戦闘機爆撃がたくさん行われるようになって、それに対抗して防空壕がつくられるようになったのですから、敗戦の記憶も影響しているのでしょう。防空壕をつくることが一種の戦争の準備であって、日本の平和主義みたいなものとは相いれない。そこに戻りたくない、繰り返したくない。そんな核シェルターには向かわない思考があるのかもしれません。

個人的には、どうして核シェルターを普及させることにそんなに情熱を燃やせるのか、あまりよくわかりません。考えが甘い、現実を見ろ、と言われるかもしれませんが、さほど核シェルターに入りたいとも思わない。

そう言っていて、いざ核戦争になったら自分も核シェルターに逃げ込むかもしれないし、それで誰かが用意したショットガンで撃たれて死ぬのかもしれないですけど。また排他性がどうこう言っているわりに、自分もいざとなれば排除する側になってしまうかもしれませんけど、今の時点では、核シェルターで生き残りたいとは思わないですね。

――「冷戦の亡霊」のように核シェルターが再び注目される中、フィクションの世界にも動きはあるのでしょうか。

かつて量産された核シェルターの物語は、東西冷戦が終わり、ポスト冷戦の時代には遠のいて、現実味を持たなくなっていました。大学の授業でも、『方舟さくら丸』やシミュレーションの話などとともに、1980年代の自分の経験を昔話として話していました。

でもこれから話すとしたら、もう昔話ではなくなっているように感じます。文脈が変わってしまいました。そう考えると、核シェルターの文学はまた読み返されたり、新たな作品が書かれたりするかもしれません。複雑な心境です。