ロシアが2022年2月24日にウクライナに侵攻するとすぐに、クリスティン・マグワイアの博物館にはそれまでに聞いたこともなかった問い合わせが来るようになった。
「『そちらは、核シェルターとしてまだ機能しているのですか?』と質問された」。こう振り返るマグワイアは、カナダの首都オタワの近郊にあるディーフェンバンカー冷戦博物館の常任理事だ。「かつての不安を今、みんながすごくリアルに感じている。現在の市民の心理の中によみがえったといえるだろう」
ディーフェンバンカーは、かつてカナダ政府と軍の要人用に造られた核シェルターとしての形態と特徴を今もほとんど残している。地下4階建てのこの建物は、1994年に軍事施設としての役目を終えていた。しかし、ロシアが核兵器を使う懸念が高まり、世界の破滅が再び現実味を帯びるようになった時代への回帰を示す有力なシンボルに変化している。
ディーフェンバンカーの歴史は、世界的な緊張を反映してきただけではない。民間防衛に資金を投入しなかったことや、地球の破滅という終末思想に対する楽観的な姿勢、さらには、政治指導者を特別扱いすることへの強い反感という国民感情もからんでいた。
今は民間が運営するこの博物館は、核攻撃が迫った際に政府を収容するために建てられたかつての冷戦時代のシェルターを見学できる世界でも数少ない場所の一つとなっている。
こうした要素が、思わぬ人気となっている。計10万平方フィート(9290平方メートル強)の広さには、約350もの部屋がある。まるで(訳注=複雑で入り組んだ)「ウサギの巣穴」のようなこの施設は、オタワ都市圏のカープという名もない村にありながら、観光客を引きつけている。
トロント大学の歴史学教授ロバート・ボスウェルが、(訳注=オタワやトロントのある)オンタリオ州の文化組織の委員をしていた1990年代、ボランティア団体の一つがこのシェルターを博物館にすることを提案した。
ボスウェルによると、当時、ボランティアが運営する博物館のいくつかは、多額の補助金にもかかわらず、来館者を集められずに閑古鳥が鳴いていた。それを知っていたボスウェルは、「えっ、ディーフェンバンカーを? 冗談だろう」と否定的だった。「でも、とんでもない見当違いだった」
このシェルターは、1959年に建設が始まった。以来、公式にはさまざまな名称が付けられた。「陸軍緊急通信施設」や「政府緊急中央本部」、「カナダ軍カープ駐屯地」。しかし、結局は「ディーフェンバンカー」として知られるようになった。建設当時の首相ジョン・ディーフェンベーカーの名に由来し、彼をたたえるというよりは揶揄(やゆ)する意味が込められていた。
着工から完成までの2年近く、ここだけではなく、国中に点在するずっと小さなシェルター10カ所も、軍事通信センターを装っていた。事実、通信業務はこれらのシェルターの任務の一つでもあった。
ところが、トロント・テレグラム紙(訳注=当時の保守系紙)が、1961年にこのシェルターの実態をすっぱ抜いた。建設現場を上から撮った克明な写真も付けた。それには、何十ものトイレが設置されることも示されており、この施設が単なる小さな通信施設ではないことを浮き彫りにしていた。
写真の上には、見出しが躍っていた。「78ものトイレ。でも、軍は認めない……。『ディーフェンバンカー』であることを」
米国と違って、カナダは国民を守る核シェルター網を広範囲に張りめぐらすことはなかった、とカナダ戦争博物館の歴史専門員アンドルー・バーチは指摘する。バーチは、この国の限定的な民間防衛体制について著書も出している。
なぜ、そうなったのか。一つには、予算の問題があったとバーチは語る。ソ連には、当時は限られた数の核弾頭しかなかった。だから、目標を米国に集中させ、カナダにまで手を広げて「浪費」することはないだろうというのが軍の想定だった。むしろ、核爆弾を積んだソ連の爆撃機がカナダ上空で撃墜された場合にもたらされる放射能汚染の方が、主要な脅威とされた。このため、民間防衛については「ほとんど国民の自助努力に委ねられた」という。
ディーフェンベーカーの話に戻ると、現場の写真が出た以上、シェルターの目的を認めざるをえなかった。同時に、ここには決して行かないと誓った。爆撃機やミサイルが飛んできても、妻と一緒に家にとどまると公言した。
しかし、首相と主要閣僚12人を含む565人だけが入れるこの特別シェルターへの国民の激しい怒りは、収まらなかった。火に油を注いだのは、政府が建設費を明かそうとしなかったことだった。1958年当時で2200万(現時点に換算して約2億2000万)カナダドルと推定されていた。
ディーフェンバンカーの外観は、まず草におおわれた斜面が目に付く。地面からはいくつかの通気口と少数のアンテナが突き出ており、そのうちの1本はかなり高い。入り口は、ガレージのシャッターのような巻き上げ式の扉がある倉庫に似た金属製の建物になっている。こちらは1980年代に加えられた。
中に入ると、387フィート(約118メートル)もある坑道のような長いトンネルが続く。オタワ中心部に核爆弾が落とされたときに、爆発で広がる破壊的なエネルギーを吸収するためのものだ。たどり着く先には重さがそれぞれ1トンと4トンもある二重の扉があり、ここを通ると放射能汚染を取り除くエリアがある。ここから先が、シェルターの本体になっている。
内装は、実用と明るさを重視している。核シェルターとしてお役御免となった際に、中にあったものはすべて運び出されたが、ほかの小さな核シェルターや軍の基地にあった同じものか類似品でほぼ元通りに再現された。
首相の執務室とこれに続く私室は、極めて質素にできている。唯一のぜいたく品は、トルコ石のような明るい青緑色をした洗面台ぐらいだ。
作戦司令室にはオーバーヘッドプロジェクターが1台、テレビが4セット備えられている。隣の作戦会議室には、航空機を追跡するプロジェクターがある。
シェルター全体は、分厚い砂利の層の中にスッポリ埋め込まれている。近くで核爆発があったときに、衝撃を和らげるためだ。同じ理由で、配管設備は厚いゴムの板の上に設置され、パイプではなくホースで接続されている。
シェルターの中で最も頑丈に防護された場所は、とてつもなく巨大な扉で仕切られた金庫室だった。この扉はより小さな扉との二重構造になっていて、まず小さな方を開けて扉の内外の気圧を均等にしなければならなかった。中央銀行にあたるカナダ銀行が、核攻撃が迫っているときに金塊を運び込むことになっていた(訳注=建設当時はまだ金本位制だった)。しかし、実際に金塊をここに運んだ記録はない、とカナダ銀行の広報担当はいう。結局、(訳注=金本位制が崩れ、変動為替相場制に移行した)1970年代には、体育館として使われるようになった。
事件もあった。このシェルターに駐留していた軍の伍長が、1984年に小さな武器庫からサブマシンガン2丁と銃弾400発など数多くの武器を盗んだ。伍長は車でケベック市に向かい、ケベック州議会で銃を乱射、3人を死なせ、13人にけがを負わせた(訳注=仏語系住民が州政府に迫害されているなどとして襲撃したとされる)。
シェルターは、30日間は十分に持ちこたえられるだけの食料と発電機用燃料を備蓄できる設計になっていた。核攻撃があっても、それだけ時間がたてば地上の放射能レベルは外に出られる程度にまで下がっていると想定されていた。
しかし、それが活用される機会は一度もなく、シェルターは揶揄の対象であり続けた。実際にここを見にきた首相は、結局はピエール・エリオット・トルドー(現首相ジャスティン・トルドーの父親)だけに終わった。1976年に軍用ヘリで視察に訪れた後、関連予算を削った。
今では、国内外から訪問者が絶えずここにやってくる。冷戦時代の過去を自分の目で確かめ、今日の時代に強く求められている「安心できる世界」を感じ取ろうとしてのことなのだろう。
そもそも、「核による終末」に持ちこたえるためにできた施設に足を踏み入れられること自体が、珍しい機会でもある。
さまざまな戦争に備えたシェルターは世界各地に点在し、一般公開もされている。しかし、冷戦期の大規模施設となると、そうはない。米ウェストバージニア州グリーンブライアー・リゾートには、かつて米連邦議会の議員全員を収容するために地下に造られた核シェルターがあり、見学することができる。ただし、電話の持ち込みや写真撮影は許されていない。
ディーフェンバンカーでツアーガイドのボランティアをしているジル・クルトマンシュには、1964年に20歳の兵士としてここに駐留した経験がある。通信兵として2年間勤務し、通信網とコンピューターのインフラを立ち上げ、その保守点検にあたった。シェルターが廃止されるまで、三交代制で運用に携わった軍民の540人のうちの一人だった。
カナダにとっても彼にとっても、時代は一巡した。若いころの冷戦は、新しい脅威へと変化した、とその目には映る。
「この博物館が、過去と現在の脅威を来館者に思い起こさせることができるのは、重要なことだ」とクルトマンシュはいう。「中国が力を誇示しようとしている。では、ロシアはいったい何をしようとしているのか? まったくもって分からない。私には、とても正気の沙汰とは思えない」(抄訳)
(Ian Austen)Ⓒ2023 The New York Times
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