首都ワルシャワを南北に走る地下鉄1号線の北の終着駅近くにある、世界最大級の鉄鋼メーカー、アルセロール・ミタルのワルシャワ工場。かつて国営の製鉄所だったこの場所には、冷戦期に西側諸国の攻撃を想定して極秘につくられた核シェルターが今も残されている。そんな「遺物」も昨秋の点検の対象となり、「現役のシェルター」と判断された。
6月初め、工場の広報担当エバ・カルピンスカさん(69)の案内で中に入った。
「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアを開くと、暗闇へ階段が続く。下りるにつれて、空気がひんやりしてくる。最初の部屋は備品置き場で、防護服や毒ガスマスク、化学物質の検知キットや放射線量を測る装置などが棚に並んでいた。大半が1960〜70年代のものだという。
さらに階段を下りると、別の倉庫に制服や靴が並んでいた。制服の肩には青地にオレンジ色の三角形のワッペンが付いている。「民間防衛」を表す国際的な標章だ。時が止まったかのようにきれいな状態に見えたが、タグには1987年とあった。
通路を進むと突き当たりに「司令室」と書かれた扉があった。
扉を開けると、まず除染のためのシャワー室が設けられている。奥にもう1枚扉があり、その先の廊下には会議室や通信室など12部屋が並ぶ。
その一室には汚染された空気を浄化する装置が残されていた。手動用のハンドルを回すと、かすかにブーンと音がした。ただ、「今も使えるのかって? 点検方法がないから、確認のしようもない」とカルピンスカさん。トイレと洗面所もあったが、水は出なかった。
廊下奥の一番広い部屋は、司令官らが集まる会議室だったとみられ、大きなテーブルや市内の地図が置かれていた。
壁には緊急脱出用の小さな扉があり、かつては細い通路が外までつながっていたが、工場近くに地下鉄が建設される際にふさがれたという。市中心部にあった共産党本部の地下までつながっているという都市伝説もあるそうだが、「あくまでも伝説です」。
当時の啓発ポスターには、中には核攻撃の地点からの距離で放射線量をどのように計算するか、どう避難や救助をするかなどが示されている。
カルピンスカさんが一枚を指して言った。「これはLSD(合成麻薬)攻撃への対処方法が描かれたもの。西側諸国が空からLSDを散布するなんて、突拍子もないけど、当時は真剣に考えられていた」
冷戦当時、このシェルターの存在は極秘で、地上の工場で働いている従業員にも知らされていなかった。当時を知る人がおらず詳細は不明だが、共産党員など限られた人々の訓練などで使われていたとみられるという。
「私がシェルターの存在を知ったのは、1992年の民営化後に広報担当として入社して少ししたころ。冷戦時代のままの状態で残されていたので、ミュージアムとして一般に公開してきた」
消防当局から点検に訪れると連絡が入ったのは、昨年10月ごろのことだ。消防隊員がいくつかの項目をチェックしていったようで、後日、推定150平方メートル、100人を収容できる「状態の評価5」のシェルターと判断されたと知った。
「でもチェック項目も基準も知らないし、『評価5』が何段階中の5なのか、良いのか悪いのかもわからない」
万一のことがあったら、実際にシェルターとして使われるのだろうか。
「ここは頑丈に作られていて、爆撃があってもそう簡単には倒壊しないでしょう。でも古い装置しかないから、今の時代に核シェルターとして使えるとは思わない。一般市民には、すぐ隣の地下鉄駅や大きな地下駐車場のあるショッピングモールの方がずっと避難しやすいと思う」。ただ、地下鉄もショッピングモールも、政府が公開した地図にシェルターの記載はなかった。
「シェルターとして使われることなく、ミュージアムとして人々の好奇心のための場所であり続けることを願っています」とカルピンスカさんは話した。
ポーランド国家消防庁によると、冷戦終結後、放置されていたシェルターの点検は、長年、課題となっていた。ウクライナ侵攻を受け、昨年10月からの実施にこぎつけたという。
一斉点検の実動部隊として、計1万3000人の消防隊員らが85日間で公共施設などを中心に約23万5000カ所のシェルターを調べた。換気設備や出入り口の数、窓やトイレの有無や水道・電気などのインフラ、建築素材など十数項目を確認。一人あたり2平方メートルとして推定収容人数も算出した。
このうち約22万5000カ所を悪天候などを想定した「一時避難所」に、8719カ所をより丈夫だが気密性のない「避難所」に、1903カ所を丈夫で構造的に気密性のある「シェルター」の3段階に分類。状態を10段階で評価した。この春には、点検結果を反映させたウェブ上の地図を公開した。
消防庁長官のアンドレイ・バルトコビヤック准将(51)は、「状態がかなり悪いシェルターも多く、点検の結果は決して輝かしいとは言えない。だが今後の課題を明らかにできた。シェルターに関する周知や教育を進め、政府と連携して予算を獲得し、都市部を中心に必要な整備・改修を進めていきたい」と話した。
政府の取り組みを一般市民はどう捉えているのか。地図で赤いシェルターの印がある、中央駅近くの建物を訪ねてみた。
1階にレストランや薬局、酒屋などの店舗が入り、上層階は住居のようだ。酒屋の女性店員にシェルターの点検やマップについて尋ねたが、「シェルターがあること自体知らない」。一緒にパソコン上で地図を見てみると、「たしかにこの建物で間違いないけど……。肝心の入り口がどこか書いていないのは問題だ」
同じ建物に入るレストランの男性店員にも聞いてみたが「10年近く働いているけど、一度も見たことも聞いたこともない」。住民の答えも同じだった。
場所を変え、中央駅から北に約2.5キロ、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館の周りに赤いマークが点在する地区へ向かった。第2次世界大戦中にナチス・ドイツによってユダヤ人ゲットーがつくられ、1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起で徹底的に破壊された地域だ。
地図上にシェルターの印があるのは、並んでいる集合住宅のうち数棟。
印のある棟の住民アレクサンドラ・クルピンスカさん(42)に聞くと、「点検や地図のことは知らなかったけど、たしかに地下に昔の核シェルターがある。でも今はみんな自転車置き場や物置に使っているし、数年前に改修して窓もある」という。
夫のバルテック・セラフィンスキさん(44)もやってきて、鍵を開けて地下を見せてくれた。セラフィンスキさんは地元のニューステレビ局のカメラマンで、仕事柄、シェルターの一斉点検があり、1950年代に建てられたこの建物も対象となっていたことは知っていたという。
中はいくつかの部屋に区切られ、自転車置き場や物置のほか、卓球台やソファがあるスペースもあった。通常の電気と水も通っており、なかなか居心地は良さそうだ。
政府の地図では面積85平方メートル、収容人数57人で、状態の評価は「8」。ただ、壁の天井近くには外とつながる窓があり、元々あった換気装置は古いままで使える状態とは思えない。
クルピンスカさんは「核シェルターにはならないし、そもそももし核攻撃が行われたら、たとえどんなに備えていたって助かる方法はないと思う」。
昨年2月に隣国で戦争が始まった直後は、万一のときはワルシャワに残るか、市外や英国に住む親族のもとに避難するか、真剣に考えたという。だがその後、生活は通常に戻りつつある。
ただ、とセラフィンスキさんが続けた。「今まさに私たちがシェルターについて話していること、自分たちがシェルターに避難する側になるかもしれないという可能性を考えなくてはならないという状況そのものが、既にひどいことだよね」