放出が迫る福島第一原発の処理水 健康騒動が社会と政治を揺さぶってきた韓国の反応は
それでも、過去に比べれば、随分とおとなしくなった。韓国は過去、「健康被害」を巡って、激烈な騒動を繰り返してきた。ラーメン業界の勢力図を塗り替え、牛肉の輸入先が大きく変わった。ところが、今回は、過去ほどの盛り上がりはないという。韓国在住の知人は「韓国の人々も色々と学んだということだろう」と話す。(牧野愛博)
韓国メディアによると、韓国政府は6月末、備蓄している最大400トンの天日塩を市場に供給すると発表した。海水が原料の天日塩の買い占め騒動と価格高騰は、処理水の海洋放出が目前に迫り、「“汚染”された後の海水でつくった塩を使いたくない」という心理から起きたものだ。
ただ、ソウル近郊に住む40代の男性会社員によれば、オンラインの買い物で塩の購入に制限が出ているものの、限定的な動きだという。
彼の説明はこうだった。
「キムチを漬けるために使うクルグンソグム(粗塩)のように一度に大量に買う塩は、お一人様一品限りの断りが出ている。でも、コロナ禍の『マスク大乱』のように、マスクが買えないとか、転売ヤーが法外な値段をつけるといった騒ぎにはなっていない。マッソグム(味塩調味料)のように、ちょっとしか塩を使っていない製品は問題ない」
韓国世論調査会社リアルメーターが発表した6月第5週の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領の支持率は42.0%。高い数字とは言えないが、塩の買いだめ騒動が話題に上り始めた5月ごろと比べてもほとんど変化がない。
尹政権は5月下旬に福島第一原発の視察団を送って情報開示に努めている。朝鮮日報や東亜日報など保守系メディアも、安全性の確認を求める一方、処理水の危険性をあおる報道は控えている。
男性会社員は「過去の失敗に学んだ学習効果だと言える」と語る。
「過去の失敗」とは、健康被害疑惑を発端にした、数々の大騒動を指す。
もともと、韓国の人々は健康に関心が高いが、過去の騒動は深刻な社会問題になった。まず、1989年に巻き起こった「牛脂波動(騒動)」だ。食用に適さない牛脂をインスタントラーメンなどの食品に使っていたとして、韓国検察が三養(サムヤン)食品など食品業界の関係者を摘発した。三養食品は韓国で初めてインスタントラーメンを販売し、後発の農心(ノンシン)とシェアを競っていた。
検察の摘発直後、保健社会省が、問題の牛脂は人体に無害だと発表したが、関係企業食品の消費者離れが加速する原因をつくった。1980年代初めには過半数だった三養食品のシェアは現在十数%で、「辛ラーメン」で知られる農心が過半数を占めている。
次は、2008年に起きた「狂牛病論争」だ。韓国の放送局が、米国産牛肉を食べることによってBSE(牛海綿状脳症)が発症する可能性があると報道。ソウルなどで週末ごとに大規模な抗議集会が行われた。米韓自由貿易協定(FTA)締結を進めていた保守系の李明博(イミョンバク)政権への大規模な批判に発展。
ソウル特派員時代、支局が入居していた東亜日報も保守系だとして襲撃の対象になった。土曜日の夜、仕事を終えて帰宅しようとすると、社屋を警備の警官隊が取り囲んでいるのを見て驚いた記憶がある。
当時、韓国の米国からの牛肉輸入は急減し、全体の1割を切った。ところが、韓国メディアによれば2022年の全輸入量に占める米国産牛肉は55.3%だ。前述の男性会社員は「あれから15年経って、韓国人の誰が狂牛病にかかったというのか。今では米国産牛肉を食べるのがオシャレという人も多いというのに」と話す。
もう一つが、米軍が2017年に韓国の慶尚北道星州に臨時配備した高高度ミサイル防衛システム(THAAD)を巡る騒動だ。
進歩(革新)系の政党や市民団体が「THAADから出る電磁波が星州(ソンジュ)産のマクワウリなどに害を与える」という懸念を示し、正式配備に抵抗してきた。韓国の夏を代表する果物マクワウリで星州産といえば、日本では「リンゴといえば青森県産」に相当するブランドだ。
反対派は、星州のTHAADが配備された場所に通じる道を封鎖したり、抗議集会を開いたりしてきた。ところが、韓国環境省が6月21日に発表した環境影響調査の結果報告によれば、電磁波は人体を保護するための基準値の約530分の1という結果に終わった。韓国中央日報は「携帯電話基地局から出る電磁波よりも少ない」と報じた。
ラーメンはともかく、牛肉とマクワウリを巡る騒動は、韓国内の政治対立が問題をこじらせた。いずれも、進歩勢力が、韓国の一部にある根強い反米感情を利用して、反対派を盛り上げた。
今回の塩騒動も、同じ展開だ。
韓国メディアによれば、韓国最大野党、共に民主党の李在明代表は6月17日の集会で、処理水について「核廃水」*と決めつけたうえで、「韓国政府が国民の生命と安全を守らず、日本の味方になっている」と非難した。
6月23日には、別の進歩系野党、正義党の議員らが福島第一原発を視察し、「放出反対」を訴えた。男性会社員は「何度も同じ構図が続いているので、市民も簡単に扇動されない。一部に不安があるのは事実だが、過去のような大騒動にはならないだろう」と語る。
もちろん、この問題は簡単には終わらない。韓国は2013年9月から現在も、福島県や宮城県など計8県のすべての水産物の輸入を禁止している。日本政府は処理水の問題を片付けた後、段階的にこの輸入禁止措置を解いていく考えだった。
ところが、3月の日韓首脳会談で、日本側が輸出禁止撤廃を求めたという報道が出たため、韓国大統領室が慌てて、「福島県産(などの)水産物が韓国内に入ることは決してない」と打ち消してしまった。
日本政府関係者は「今後、処理水放出の際、日本国内の反応が心配だ。日本で騒ぎになれば、韓国の人々の不安も大きくなる。処理水の問題もこれで安心というわけにはいかない。水産物の(韓国への)輸出解禁もまだまだ先の話だろう」と語った。