もうだいぶ以前の話だが、部下から厳しく詰め寄られたことがある。
「今の給料のままでは先が見えません。もう本気で会社を辞めようと思っています…」
ムリもない話で、給与は業界平均よりも低く、賞与と呼べるような金額も支給できていない会社だ。
昇給も望めず、将来に希望も持てないのであれば、若い社員ほどやる気を失ってしまうのは当然だろう。
いつか彼と飲んだ時、結婚を考えている彼女がいると話してくれたことがあるので、なおさらである。
「気持ちはわかる。俺が同じ立場でも、転職を考えると思う。だけど給料だけが理由なら今は辞めるな。副業で稼いで、選択肢を増やすことを考えろ」
「就業規則で禁止されてるじゃないですか、ムチャ言わないで下さい」
「バレないようにやればいい。有能な社員を失うことを考えたら、大した話じゃない」
そして、担当役員の職責で引き受けるので存分にやって構わないこと。資格や経験も十分にあるので、プラス10万円程度ならすぐに稼げるだろうから、まずは考えてみろと伝えた。
「ありがたく思いますが、体もキツイので十分な収入をくれる会社に移りたいんです」
「まあそうだよな…。正直、説得材料がないので俺もこれ以上、引き止める方法がない。後はよく考えて、結論を出せ」
「…そうします、ありがとうございました」
結局彼は程なくして会社を去ってしまったが、強引に止めるべきだったかと今も思い出すことがある。
彼はきっと、転職を繰り返し、詰んでしまうタイプだとわかっていたからだ。
「若い女のいい匂いがするねん」
話は変わるが、私には小さなデザイン会社を経営している長年の友人がいる。
悪いやつではないのだが、少し歪んだ価値観を持っており、特に女性関係では飲むたびに聞くに堪えない話題を振ってくるオッサンだ。
「事務所で長期インターンの女子大生を迎え入れたんだわ。オレの仕事を見て憧れたそうで、『社長の下で学びたい』って、岡山からわざわざ上京してきてくれてな」
血色の良い満面の笑顔で話す彼を見て、話はだいたい想像がつく。
しかしこの日の鬼畜っぷりは、想像以上にドン引きだった。
「知っての通り、ウチの嫁さんは3人も子供生んでるやろ?もう女として見ることなんかムリや。そんな時にこんな若くてかわいい女子大生に慕われて、もう嬉しくて仕方ないねん」
「おい、相変わらずムチャクチャやな。まさかセクハラまがいのことしてへんやろうな?」
「心配すんな、ウチの近くにマンション借りて住まわせてるだけや。仕事終わった後も、部屋まで送ってちゃんと研修してるぞ」
…心配の次元を突き抜けている。
それをセクハラと言うんだと喉まで出かけたが、オレに何を答えさせたいのかと聞くと、さらにアクロバティックな事を言いだす。
「スマンスマン。実は一つ気がかりなことがあって、こっちで仲のいい男ができたらしいねん。彼氏じゃないっていうてるんやけど、オレに隠れて何度か遊んでるらしくてな」
「だからなんやねん、女子大生なら恋愛の一つもするやろ。お前の愛人になるよりよっぽど健全やわ」
「そう言うなって、もしかしたらまだ処女かもしれんのにもったいないやんけ。なにか今のうちに、別れさせるいい方法はないかな?」
そして彼女にはデザインの才能があること。
今、自分が師匠としてしっかりと教えたら才能が開花する可能性があること。
インターン生として上京してきた以上、男と別れて修行に専念すべきではないのかと熱心に語る。
身勝手な性欲と支配欲を正当化するイカれた論法だが、目が本気だ。
「悪いこと言わねえから、その子を女性として見るな。インターン生の性別は、お前にとって何の意味もない。立場をわきまえろ」
そんなことをアドバイスしてその日は別れたが、彼はその後もまだ、その女子学生がどれほどかわいいのか語り続けていた。
まあ、女子学生が彼を相手にするとも思えないので、すぐに収まるだろう。
そう考え、適当にいなしていたある日、また彼から飲み会の誘いが来る。
しかし今度は明らかにテンションが低く、雑な文字列で自棄(ヤケ)酒の予告だ。
「聞いてくれ…。例の女子大生、なんかおかしいと思って後を付けたら、男とホテルに入っていったねん。あれだけ世話してやったのに、これは裏切りや。もう処女じゃないんやぞ?」
既に飲んでいたのか、席についた時にはもう酒臭い。
大声でエゲツナイことを言い出し、バーボンをロックで呷る。
「彼氏とやったらラブホぐらい行くやろ。何がアカンねん」
「インターンは修行に専念すべきや。オレの教えが守れんやつを弟子にできるか。頭きたんで実家に電話して、『あんたの娘はインターンにかこつけて東京で男とセックスしてます』って言ってやったわ」
そして即日、女子大生を部屋から追い出しインターンとしても追放したこと。彼氏には、腹いせに彼女を親元に帰らせたとSNSからメッセージを送りつけたことなどを、一気にまくし立てる。
常軌を逸しているが、下手に口を出しても逆効果だ…。
「なるほどな。で、俺は何を言えば良い?」
「スマンな、実は見てほしいものがあるねん」
そういうと彼は、紙袋から一枚の白いTシャツを取り出した。
洗濯をしていないのか、汗染みが変色しまるで清潔感がない。
「みてくれここ。首周りが茶色くシミになってるやろ?」
「…」
「これ、彼女が部屋に置き忘れていったんや。縫い目に染み込んだ汗ジミ、若い女のいい匂いがするやろ?追い出したこと後悔してる。俺、どうしたらいいかな?」
一体この小説は、読者にどんなメッセージを伝えたかったのだろうか。
決して良いとはいえない複雑な後味で、本を閉じた。
”人生の選択肢を増やせ”
さて、カンの良い人であれば既にお気づきだと思うが、先の狂人経営者は私の友人でもなんでもない。
明治の末、1907年に著された自然主義文学の名作・田山花袋の『蒲団』のあらすじを、現代風にリメイクしたものだ。
原作では小説家の主人公をデザイン事務所経営者に置き換え、蒲団の描写をTシャツに置き換えているが、セリフやキモさは原作をできるだけ踏襲し再現しているつもりである。
レトリックとはいえ、文学史に残る名作を使わせて頂いたことを先にお詫びしたい。
そしてこの小説のすごいところは私小説、すなわち自分の体験談をベースにし、自らを主人公にして描いた物語ということだ。
主人公はもちろん花袋自身であり、モデルになった女子学生、その彼氏も実在の人物である。
発刊された当時、世間が驚き、名作とされた理由についてメディアにより多少の差はあるものの、概ね以下のような評価になっている。
中年男の嫉妬という、とてつもなく矮小(わいしょう)な事柄さえも、やはり小説になるのだということを花袋は明らかにした。
2020年7月18日 朝日新聞
言い換えれば、そのアンモラルさや鬼畜な内容で“炎上”したわけではない。
世間によくある“オッサン嫉妬物語”を描写する技術・手法が斬新で見事であり、評判になったということだ。
女性や弟子の扱い方も、世相を反映しリアルだったのだろう。
今の時代の価値観では間違いなく炎上モノだが、時代背景を考えればなにもおかしくなかったということである。
しかしここで“問題”になるのは、果たしてこれは100年以上前の世界観だろうか、ということだ。
立場の強い経営者が従業員を理不尽に服従させ、身勝手な欲望で振り回すのは本当に、過去の価値観といい切れるだろうか。
ブラック企業で働く人、師匠と弟子の人間関係、モラハラ夫のパートナーして専業主婦をする女性…。
程度の差はあれ、理不尽な感情に心身がすり減らされている人にとっては、これは決して昔話などではないのではないだろうか。
そして話は、冒頭の私の元部下についてだ。
なぜ私が彼に副業を勧め、また離職を選ぶと転職を繰り返し、人生が詰んでしまうと考えたのか。
彼はルーティンワークの消化では頼りになる優秀な若手だったが、一面で他人への依存心が強いタイプだった。
トラブルに際しては必要以上に取り乱し周囲に頼り、自分の強みを作りきれずにいた。
そんな彼が「転職さえすれば、給料は上がるはずだ」と考え他社に移ったらどうなるか。
「転職さえすれば、人間関係が良くなるはずだ」
「転職さえすれば、もっと成長できる仕事を任されるはずだ」
と、問題の所在を”自分以外の誰か”に求め、その解決を”自分以外の何か”に頼ろうとし続けてしまうだろう。
だからこそ、給料だけが問題なら副業で稼ぎ、”人生の選択肢を増やせ”とアドバイスしたということである。
断言しても良いが、私たちは収入手段を複数持つだけでも心に余裕が生まれ、理不尽な命令や環境をバカバカしく思えるようになれる。
自分の価値観で仕事を選べるようになり、転職の選択肢も人生のチャンスも驚くほどに広がる。
言い換えれば、経済的・心理的に会社や誰かに依存すると、それが理不尽さを受け入れる弱みになってしまうということだ。
まるで女子学生が、”デザイン事務所経営者”から様々なハラスメントで追い込まれ、クビにされたように。
終身雇用の崩壊した時代、もはや会社という組織に依存しても何もいいことはない。
「副業禁止」などという規則は、「社員に会社への依存を強制するルール」であり、もはやモラハラともいうべき悪手だ。
依存させておきながら終身雇用が約束されないなど、こんな理不尽な会社に優秀な人材が集まることは、もうないだろう。
だからこそ、ビジネスパーソンはぜひ複業・副業でスキルを磨き、人生の選択肢を増やして欲しいと願っている。
なお余談だが、田山花袋の『蒲団』は間違いなく文学史に残る名作ではあるものの、「キモいオッサンのキモい小説」などという悲惨なレビューを見かけることも多い。
しかし実は、そのレビューこそが人の心に爪痕を残す名作の由縁だと、リスペクトしている。
ここまで赤裸々な本音をタブーなしに書き切るなど、およそ凡人にできるようなことではない。
少なくとも私は書けない…。