観光客ら多くの人が行き交う「フロリダ通り」を歩くと、「カンビオ! カンビオ!」「ドル! ユーロ!」という男女の声がひっきりなしに聞こえてくる。
「カンビオ」とはスペイン語で「両替」を意味する。外国からの観光客に米ドルやユーロから、アルゼンチンの通貨ペソへの両替を呼びかけているのだ。
訪れた10月末、旅行客用の為替レートは1ドル=285ペソ程度だったが、「もっと良いレートで両替するよ」などと持ちかけていた。
ペソ紙幣の最高額は1000ペソなので、ドルを両替すると大量のペソ札を受け取ることになる。米国から旅行に来たという老夫婦は、25センチにもなる札束をカバンにしまいながら、「ミリオネア(百万長者)になった」と笑っていた。
道ばたに立って両替を呼びかけるその姿から、彼らは「アルボリート(小さい木)」と呼ばれる。
その一人、国家破綻したベネズエラから4年前に移住したという男性(56)は、「仕事を求めて来たが、4年前は1ドル=40ペソだったのに今年7月には400ペソまで下がった。月収がベネズエラの10倍あったが、それもチャラだ。アルゼンチンもベネズエラと変わらなくなってきたよ」とため息を漏らした。
なぜ、アルボリートがこれほどたくさん路上にいるのか。それにはアルゼンチンの通貨について理解する必要がある。
サッカーW杯用の為替レートも
通貨の信用は決定的に重要だ。世界各国で通用する円を使っている日本人には想像しにくいかもしれないが、デフォルト(債務不履行)を9度も繰り返したアルゼンチンの通貨ペソは、信用が低いためほしがる人がおらず、外国で何かを買おうとしても使えないし、ペソの現金を両替したくてもできない。
それはアルゼンチン国民にとっても同じだ。将来、価値が下がって安くなりそうなペソを持っているより、価値が安定しているドルがほしい。
国民の多くが、持っているペソをドルに両替しようとするので、ペソが余ってドルが不足し、ますますペソの価値が下がる。なので、アルゼンチン政府は1カ月200ドルまでしか両替できないよう規制している。
それでもドルで持ちたい人は、違法な両替商からドルを手に入れる。当然、レートは悪くなる。両替商たちはそのレートの差でもうけているので、なるべく多くの外貨を手に入れようとしているのだ。
そうした商売が成り立つ背景には、アルゼンチン・ペソとドルの為替レートが10種類以上に分かれていることがある。
公式レート、実勢レート、国外でクレジットカードを使ったときのレート、ネットフリックスやアマゾンなどネットサービスに適用されるレート、外国のアーティストがライブを開くときのレート、などなど細かく設定されており、カタールで開かれていたサッカーW杯を見に行く国民用のレートまで定められている。
公式レートが1ドル=160ペソ程度だったのに対し、カタールW杯レートは314ペソと2倍近くの開きがあった。つまり、アルゼンチン国民にはドルへの両替をしにくくすることで、ドルが国外に出ていってしまうのを防ぎ、なるべくペソの価値が下がるのを抑えようというわけだ。
インフレが生活を圧迫 相次ぐデモ
フロリダ通りから何本か道を進むと、ゴミ箱から段ボールを集める人たちが作業をしていた。激しいインフレで生活できなくなった人が増え、最近ブエノスアイレス中心部で目立つようになった。
フレディ・ペレイラさん(46)は「集めた段ボールは収集所に持っていくと1キロ22ペソで買い取ってもらえるが、買い取り価格は1年前と変わらない。最近のインフレは厳しい」とこぼす。
その数ブロック先では、道路にあふれるほどの人が集まりデモをしていた。
ブエノスアイレスでは、インフレによる生活水準の悪化から賃上げなどを求めるデモが相次ぎ、道路が封鎖される。そのため、朝のニュースでは天気予報のように「今日のデモ情報」が流されている。
タイヤ製造工場の作業員らでつくる労働組合も、賃上げを求めてデモを繰り広げた。マクシミリアーノ・ブロンスオリ書記長(47)は「物価上昇に給料の上がり方が追いつかず、どんどん生活が苦しくなっている」と訴える。
インフレ率が急上昇したことから今年3月にさらなる賃上げを求めてストに入った。自動車メーカーの生産に大きな影響が出たこともあり、2021年比63%の賃上げを獲得した。
だが、アルゼンチンのインフレ率は80%を超え、2022年末には100%、つまり2倍と予想されているだけにまだ足りない。
来年3月にインフレ率が60%を超えていた場合はさらに賃上げすることを条件に妥結した。ブロンスオリさんは「物価上昇に追いついていないばかりか、もちろん給料はペソなので、ドル換算すると実質はもっと下がっている。だから賃上げ交渉はいつも激しい闘いとなる」と語った。
下がり続ける自国通貨に見切り、物々交換が復活
アルゼンチン国民は自国通貨ペソを信用していない。
インフレによって手持ちのペソの価値が明日になれば下がり、明後日にはさらに下がる。
そんな通貨に見切りをつけて、物々交換が復活しはじめた。モノを買うというお金の最も基本的な機能すら果たせていないのだ。
ブエノスアイレス郊外の公園に、20~30歳代の女性たちが30人以上集まっていた。Tシャツやトレーナーなどの洋服、靴、シャンプー、マスク、パンなどを見定め、自分が持ってきたモノと交換する交渉をしている。その場で交渉する場合もあれば、フェイスブックにつくったグループの中で、モノの写真や情報をアップして交換する人を募る場合もある。
グループ代表の看護師エステファニア・アウトレさん(30)は「景気が悪いのにインフレが激しく、生活が苦しくなっている人が増えているので、助け合うためにグループをつくった」。物価上昇率が高まった今年に入って会員が増え、いまは1500人を超えるという。
妊娠8カ月というアンジェリーナ・モレンさん(23)は、生まれてくる赤ちゃん用の肌着を、化粧用コットンなどと交換して小学生の母親から手に入れた。「数年前の肌着は質が良いのに当時の値段は安かったので、いま店で売っている新品よりかなり安く手に入れることができた。モノの値段がどんどん高くなっているから、お金を払わずに手に入るのはうれしい」と喜んでいた。
自国通貨と銀行は信用しない
アルゼンチンは、通貨安とインフレに翻弄(ほんろう)されてきた。
トルクアト・ディテラ大学のパブロ・グィドッティ教授(64)は「アルゼンチンは政府のバラマキで財政赤字がふくらみ、中央銀行がお札を大量に刷ってまかなっているので、インフレになりやすい。通貨安が進むことで、インフレを加速させる。アルゼンチンにはインフレをめぐる長い歴史がある」と説明する。
1900年代初めに栄華を誇ったアルゼンチンは、1983年に軍事政権から民主化を果たし、1989年には年率で数千%ものハイパーインフレに見舞われた。
政府は1991年、当時の通貨アウストラルとドルの為替レートを1ドル=1万アウストラルに固定、翌1992年1月から1万アウストラルを1ペソにする通貨単位の変更とデノミ(切り下げ)を実行した。この1ドル=1ペソ体制が経済安定に寄与し、インフレは落ち着いた。
一方で、固定相場はペソの見かけの購買力を高め、外国からの輸入品が大量に入って安く買えるようになった。実際にはペソの価値が下がっているのに、輸入品購入でドルが流出、それがペソの実質の価値をさらに下げるという悪循環に陥った。
ついに2001年末、外国からのドル建ての借金を返せなくなりデフォルトに追い込まれた。銀行は事実上の預金封鎖に踏み切り、1週間に250ペソまでしか預金を引き出せなくした。
2002年には変動相場制に移行、ペソの価値はみるみる下がっていき、1ドル=1ペソだった為替レートは現在、実勢で1ドル=300ペソ前後まで落ち込んでいる。そんな歴史があるので、アルゼンチン国民には「自国通貨と銀行は信用しない」という考えが染みついているのだ。
ハイパーインフレで「朝と夕方で値札をつけかえ」
ブエノスアイレスで1987年から靴店を営むホアン・フィオーレさん(66)はハイパーインフレのときの混乱を振り返る。「その日の朝と夕方で値札をつけかえなければならなかった。あのときに比べれば、いまのインフレはたいしたことない」
フィオーレさんがその時よりもひどい経験だったと語るのは、2001年のデフォルトだ。
預金が封鎖されたため、仕入れには現金払いが求められたのに、客はクレジットカードで支払うようになった。クレジット払いの代金は銀行に振り込まれるので、靴を売ってもお金が手に入らず、手もとの現金がどんどん減っていった。
「あれ以来、信用できない銀行にはお金を預けず、余ったお金は靴の仕入れに回し、在庫として持つようにしている。特に最近の輸入規制で仕入れられなくなったナイキのスニーカーは大事に倉庫にしまってある。インフレで靴の値段は下がることはないが、ペソを持っていると損するだけだから」
フィオーレさんは苦笑いしながら言った。「アルゼンチンはインフレとサッカーの世界チャンピオンだからね」
ノーベル経済学賞を1971年に受賞したサイモン・クズネッツはこんな言葉を残している。
「世界には4種類の国がある。先進国、途上国、日本、そしてアルゼンチンだ」。
途上国から先進国になった日本と、先進国から途上国に転落したアルゼンチン。財政赤字と金融緩和で共通する二つの国を分かつのは、ドルを持っているのか、いないのか、という違いだ。弱い通貨に翻弄されてきたアルゼンチンが教えてくれることは少なくない。