――1980年にスイスで生まれた「ピングー」は、40年以上経った今も世界中で愛されています。
「ピングー」は南極を舞台に、登場するキャラクターも限られた中で、大事件が起きるわけでもなく、日常茶飯事を拾い上げた作品です。
主人公のピングーは、スーパーヒーローでも優等生でもありません。妹のピンガ想いの優しいお兄ちゃんですが、時にはけんかをしてお母さんやお父さんに怒られたり、調子に乗りすぎて失敗をしたり……。どこにでもいる普通の子どもです。
友だちと遊んで笑い転げる、いたずらをして親に叱られる。小さな子どもたちが、自分と同じようなピングーの体験に共感するのです。ですから、心理表現には非常に気を使いました。
ピングーは多感な子どもです。怒ったり、悔しかったりすると、くちばしをとがらせて「ツーツー」とやる。トレードマークになりました。
――ナレーションや台詞がなくても、不思議なくらい、ちゃんとストーリーが伝わってきます。
ピングーに限らず、子ども向けのフィルムでは何語かわからない言語がしばしば使用されます。ピングーの場合、絵コンテには何の指示もしていません。
すべての登場人物の声を一人でこなしたイタリアの声優カルロ・ボノーミが、即興でアフレコしたもの。言葉は、動作や感情を強調するために使われています。
国や言葉、人種や文化が違っても、人間の感情は変わりません。共通する点があるから、言葉がわからなくてもコミュニケーションができるのです。
――どういった経緯で、ピングーを引き継ぐことになったのでしょうか?
1990年にスイスでピングーのテレビ放送が始まり、これからという矢先の1993年、オットマーが急逝しました。
撮影中だったエピソード「ピングーの遊園地」の途中のことで、急遽、彼の友人だった私も制作チームの一員として「ピングー」などオットマーが手がけていた作品を引き継ぐことになりました。
実は、私がまず担当したのは、日本人だからということで、オットマーが引き受けていた東北電力のCM用クレイアニメ「マカプゥ」でした。ピングーで最初に携わったのは、「ピンガのぬいぐるみ」だったかと思います。
私たちの役目は、彼のオリジナリティーを大切にして、作品を存続させること。オットマーは絵コンテを描かない人だったので、残されていたのは字コンテだけ。彼が残したフィルムを調べ、構図やカット、表現の仕方を学びました。
ストーリーを考え、絵コンテを描き、ピングーの人形や小道具を発注し、撮影、編集……。録音だけはスイスの別の場所で、まとめてアフレコしていました。
クレイアニメは一コマ一コマ撮影し、動きを表現します。撮影用の照明ランプの下、極寒の南極の物語を撮りながら、汗だくで作業をしました。
一日中仕事をしても、7秒分しか撮れないことも。今ではモニターで途中経過を見ることが当たり前ですが、当時はフィルムが現像されるまで出来がわかりません。経験が唯一のよりどころで、思うような結果じゃないこともよくありました。
――甲藤さんご自身、言葉や文化、国の境を越えてお仕事をされてきました。
ヨーロッパを見てみたいと1969年、日本でアニメを作っていたときの同僚を頼ってドイツに渡り、様々な国の人々と仕事をする機会に恵まれました。
まだヨーロッパが東西に分かれていた時代です。私が移り住んだのはフランス国境近くの西ドイツの田舎町でしたが、手間のかかるアニメーションは当時のチェコスロバキアなど、社会主義で低賃金の東欧諸国の方が盛んでした。
プラハでの仕事のため、国境での厳しい出入国チェックを乗り越え、何度も行き来したこともありました。
「あいつは仲間だ」と相手に認めてもらうことは、容易なことではありません。媒介となるものは、人によっては言葉だったり、音楽だったり、芸術だったり、それぞれでしょう。私の場合は、アニメーションでした。
自分の考えていること、感じていることを相手に伝えたい。自分を理解してもらいたい。人間に共通する、普遍的な感情です。
自分の気持ちが相手に伝わるということは、すばらしいことです。言葉や文化の壁を乗り越えて、フィルム制作という手段でコミュニケーションのできる仲間に出会えたのは、幸運というほかありません。
――甲藤さんが移り住んだころと比べ、世界中で国際化が進み、国境の行き来は格段に増えました。一方で、様々な場面で軋轢も生まれています。
いま世界中にあふれる移民や難民の状況には、心が痛みます。外からの人が増えると、元々いた人たちが「脅かされている」と感じたり、反発したりすることは、今も昔も同じです。
私自身、30年以上前、ドイツのテレビ局でポーランド人、チェコ人、ルーマニア人、スイス人、そして日本人の私の「外国人チーム」がアニメーションを作っていると新聞に載り、「どうして外国人に仕事をさせているんだ」という読者からの抗議の投書が来たことがありました。
それでも、ドイツに50年以上住んでいて、昔の方が今よりも寛容だったように思います。
――「共生と共感」のために、大切なのは何でしょうか。
違いを乗り越えるということは、今も昔も非常に難しいことですが、自分自身に気づき、相手に気づくということです。偏見も差別も、「知らない」「考えない」ことから生まれます。
お互いの違いを認め合って、共に生きる。広い心、広い視野を持った人間になれるよう、人を育てることが大切です。他者に対する寛容な態度など、作品を通して、少しでも良い影響を与えられたのなら、嬉しいですね。
オットマーも、1970年代から一緒にドイツのテレビ局などで仕事をした友人です。彼はスイスからやってきていました。
どうしてそうなったのか覚えていないのですが、どちらかが何か失敗をすると、「はさみが必要かい?」というジョークがお決まりで、仕事をしながら冗談を言い、いつもゲラゲラ笑い合ったものです。
「また君と一緒に仕事がしたいね」と言ってくれた言葉が、彼が遺したピングーを引き継ぐきっかけになりました。
ピングーには、オットマーの人間に対する温かいまなざしがあふれるほど詰まっています。その思いやりが、見ている私たちの胸に強く伝わってくるのです。作品の中で、彼は今も生き続けています。