ヘルソン州は大河ドニプロ川をはさみ、西岸・東岸の両地域に分かれる。ロシアが一方的に併合したクリミア半島の北隣にある要衝の地だ。
州都ヘルソンを含む西岸は、ウクライナ軍が11月中旬、解放した。ちょうどそのころ、州都から北東約50キロの村に住むグリゴーリー・ベルミエンコさん(68)は、妻ナタリヤさん(66)とともに自家用車で首都キーウへ脱出した。営んでいた養鶏業の会社は、ロシア兵が建物を占拠、兵舎に変えてしまったという。(以下、敬称略)
――ロシア軍に占領されて、住民にとって、最もつらかったことは。
グリゴーリー 私たちは今月中旬までドニプロ川に近い西岸地域のガブリロフカ町(人口7千人)に住み、川をはさんで東岸地域にある畜産会社に通っていました。
占領が始まったのは3月。それ以降、あらゆる街角に装甲車がいました。ロシア兵が銃を手に住民を見張っている。自由にものが言えず、恐怖でいっぱいでした。
ロシア兵は、10~12人のグループを作り、家々を訪ねます。銃口を向けながら、「ウクライナ軍に協力するパルチザンはいないか」とか、「武器は持ってないか」などと問い詰めてきました。
また、ロシアの脱走兵が少なくなく、部隊を離脱してウクライナ人の家の納屋などに隠れていました。それを捜しにくるのです。
ナタリヤ ロシア軍は、門が開いていなかったら破壊して侵入します。略奪行為もありますが、我が家の場合、幸い、何も盗られませんでした。
ウクライナ軍がロシア軍を追い出し、町にやってきた時は、皆で抱き合って喜びました。
――ヘルソン州などでロシアは、市民を拉致・監禁していると言われているが。
グリゴーリー 私の町では、町長と町議会議員1人の2人が7月に拉致され、いまだ行方不明です。監禁場所に使われているという、かつて警察署だった建物にいるのかどうかさえ、分かりません。
いきなり町民の頭に袋をかぶせ、連れ去るという例が少なくありませんでした。ひどいケースでは、街角に檻(おり)を置いて、そこに教師や医療関係者などを数日から数週間、閉じ込め、見世物のようにしていました。しかも理由の説明がいっさいありませんでした。
反ロシアの言動をしたということかもしれませんが、わけが分からないのです。第2次世界大戦中のドイツのファシズムよりひどい、と思います。
――ロシアのどんな勢力がやっているのか。
グリゴーリー 最初にロシア軍とともに町に来たのは、情報機関FSB(ロシア連邦保安庁、KGB-ソ連国家保安委員会-の後継機関)の要員、そしてロスグバルジア(国家親衛軍、プーチン大統領直属の治安部隊)。
秋にはワグネル(ロシアの傭兵部隊)も来ました。拉致の直接の実行者は、軍服をきた軍人です。
――ロシアはヘルソン州など占領地で「ロシア化」を進めたと言われているが。
グリゴーリー ロシア人はロシアの銀行を開きましたが、ウクライナ人はほとんど利用しませんでした。占領当局が、お年寄りに年金をロシアの通貨ルーブルで支払おうとしましたが、結局、5月~7月、1万ルーブル(約2万3千円)を払っただけで、8月以降なくなりました。
――ロシアが「住民投票」と称するものをやり、プーチン大統領がヘルソン州などの「ロシアへの併合」を宣言したが。
グリゴーリー ロシアは「投票率が9割以上だった」と述べましたが、「偽りだ」と断言できます。わが町では、町民7千人のうち多くが州外へ逃げ、投票していません。
特に若者は、「ロシアへの併合後、ロシア軍に動員される」という情報が流れたため危険でした。町に残った500人は老人中心で、そのうち「投票用紙」に記入したのは12人だったと聞いています。
投票所もなく、路上に机のようなものを置き、そこで記入させようとしたのです。
――買い物はどうしていたのか。
グリゴーリー わが町で、ロシア軍はほとんどの店を略奪してしまい、普通の商店は閉店。ウクライナ人の売り手がいる市場が買い物の場となりました。
ロシアの占領後、パンの価格が2倍、肉は4倍と、あらゆるものが値上がりしました。10月以降、(ロシアと関係の深い)イランの製品のミネラルウォーターやマカロニなどが並ぶようになりました。クリミアから運んでいるのでしょう。
――ご自身のビジネスはどうなったのか。
グリゴーリー 畜産会社で3万匹の鶏を飼っていましたが、ロシアの占領開始後、電気がこなくなり、エサも買いづらくなりました。占領1カ月後、鶏を売り払い、会社を閉めざるをえませんでした。
「カディロフツィ」と呼ばれる、ヒゲをはやしたロシア南部出身のイスラム教徒の兵士たちが、会社の警備員を追い出し、会社の食堂に居座りました。
――脱出した前後の様子を教えてください。
ナタリヤ 11月、水道が出なくなり、ドニプロ川で水をくみました。1週間は我慢しましたが、無理でした。
グリゴーリー 州都ヘルソンを含む西岸部にはロシア兵が3万人いたと聞いていますが、すべて川を船などで越え、私の会社がある東岸地域へ移りました。
そして、東岸の川沿いに、延々と地雷を埋設し、地雷原を作っていました。私たち夫婦は自家用車で出発し、ロシア軍の検問所16カ所を突破し、子供のいる首都まで逃げました。
――ロシア軍が11月、西岸地域を撤退した時の様子は。
グリゴーリー 州都ヘルソン市では、ロシア軍は消防車、救急車、清掃車などの公共物を盗んでいきました。また、マスコミの建物を破壊したり、刑務所の(ウクライナ人の)囚人を外に「釈放」したりしました。街じゅう、混乱しました。
別の町ではロシア軍が博物館から展示品を盗んでいきました。運び先はクリミアです。
――世界に訴えたいことは。
グリゴーリー キーウ州のブチャは、首都近郊なので虐殺事件が世界に知られ、復興も今、進んでいます。しかし、農村部の多いヘルソン州で、多くの村がロシア軍の攻撃で瓦解したことは知られていない。
人口が数百人あった村に今、10人、20人しか住んでいないところが何カ所もある。いわば「複数のブチャ」がヘルソン州には存在しているのです。