オイラは「必要な時に必要な時間だけの通訳」を提供するアプリだ。例えば、外国人が役所で住民登録をしようとしても日本語が分からないとき、遠隔通訳者を紹介する。
通訳派遣会社に頼むと、最短でも半日からという契約が多く、費用がかさむ。オイラでは、通訳者自身が1分間の料金と簡単な経歴を提示する。利用料金の平均は1分150円ほどで、オイラが手数料として3割を、7割は通訳者が受け取る。
創業から5年。通訳者は約2000人で153言語に対応。利用者は多いときは1カ月で5000人を超える。2年目に、言語が異なる人同士の電話での会話に通訳者を入れるサービスを始めたことで、成長の軌道に乗った。
日本人も利用している。最近は、外国人技能実習生の受け入れ窓口の監理団体が実習生の面接で使うケースが増えた。
「自動翻訳機で十分」という声があるのは分かっている。「自然の会話だと、文法が教科書通りでない、言葉が抜けている、というのは当たり前。機械翻訳機はいまはまだ柔軟に対応できていない」と冷静だ。
トルコの首都アンカラ生まれ。小さなころから勉強好きだった。なかでも数学は「パズルみたい」と夢中になった。
日本との出合いは、イスタンブールの大学で電気通信工学を学んでいた20歳のとき。当時はまだ日本企業が存在感をみせていた半導体に興味があり、大手メーカーの滋賀県の工場でのインターンシップに参加した。
米国やドイツも選べたが、「一番イメージできないので面白そう」と日本を選んだ。大学卒業後、東大大学院に留学。2013年に米系コンサルタントのボストン・コンサルティング・グループの日本法人に入った。「いろんなビジネスモデルを知りたい」とコンサル業界に飛び込んだ。
そのころ、日本語が流暢(りゅうちょう)になっていたコチュに外国人の友人から「助けてコール」がかかってくるようになった。「子どもが熱を出して病院に連れてきたけど、医者に症状をうまく話せない。通訳して」「アパートの家主に説明して」
15年暮れ、頻繁にコチュに頼ったスイス人が「迷惑をかけた」とバーでワインをおごってくれた。「よくあること」と気遣うと、スイス人が口にした。「よくある? ビジネスになるよ」
2人で通訳市場を調べると、個人が安く利用できるサービスがないことが分かった。スイス人は日本語が得意ではなかったので、ふたりは16年7月、スイスで起業した。
5カ月後、コチュは成田空港に降り立った。失意の「帰国」だった。 天職と思ったコンサルの仕事をなげうってスイスに渡ったのに、共同創業者はマイペース。「信頼できる」と紹介されたトルコ人エンジニアにアプリの開発をまかせたものの、のらりくらり。堪忍袋の緒が切れ、スイス人とたもとを分かった。
貯金は底を突いていた。スイスに渡る前に住んでいた東京・新宿の賃貸マンションは「いつか戻る」と契約したままにしていたが、滞納はできない。飲食費にも事欠いた。
それでもオイラをあきらめたくなかった。友人に借金し、応援してくれる投資家を見つけて息を継いだ。トルコの両親には無心しなかった。「心配をかけたくなかったし、自分にプレッシャーをかけたかった」
立て直しを模索するなか、技術力のあるインドのアプリ開発会社をネットで掘り当てた。これが起死回生の一手となった。超特急で作り直してくれ、17年秋、日本でのアプリ提供にこぎつけた。
コチュは「日本人は天使」と真顔で繰り返す。
滋賀県の工場でのインターン中、昼食時に片言の日本語で東京観光の計画を明かした日のこと。しばらくして社員の一人が「こういうのがあるよ」と、新幹線の時刻表や東京の地下鉄路線図などを印刷した何枚もの紙を持ってきた。
「スマホがない時代。お願いもしていないのに、わざわざ印刷までしてくれて。こんな人いるのか、と驚いた」
散歩の最中に雨に遭った。通りすがりの若い女性から傘を差し出され、宿泊していたホテルまで送ってもらったこともあった。すっかり日本に心を奪われた。
東大大学院在学中に東日本大震災が起きた。多くの外国人が母国に避難した。トルコの両親は気が気でなかった。「原発が爆発したんだ。飛行機代はもつ。帰って来て」
コチュは日本を離れなかった。「日本人はどこにも行けない。だから私も残る。いいときも悪いときも日本にいたい」。国籍の変更を決意し、条件が整った18年に日本国籍を取得した。
銀行員の母親は「冗談でしょう」と声を荒らげたが、元官僚で会計士の父親は「あなたが幸せになるなら」と受け入れてくれた。
多感な10代のころ、父親は食卓を囲んだときによく職場の話をしてくれた。「友人の息子が米国に留学した」「ドイツに行った」。テレビでは米CNNが流れていた。今から思えば、海外雄飛の道を示してくれていたのだろう。
コチュは父親の言葉に背中を押され、母国を飛び出し、日本という第2の母国に巡り合った。
大好きな分、「日本」に何度も歯がみしてきた。
有能な外国人が「日本語が達者じゃないから」と企業から敬遠される例をいくつも見た。
外国人をなぜ採用するのか、どのくらいの日本語能力が必要なのか、詰めておくべきだと感じる。「日本語のコミュニケーション力が求められている部署に外国人を配しても、お互い不幸になるだけ」と残念がる。
外国人だから、女性だから、とあからさまな嫌がらせをされたことはない。
問題は無自覚な「差別」だ。部下の副社長の日本人と大手企業にオイラのプレゼンに行ったとき。コチュが先方の男性役員に質問をすると、その役員はコチュではなくて、隣の副社長に視線を向けて答えた。副社長はコチュより20歳以上も年上だったが、名刺を交換していて、間違えようがなかった。
「同じようなことは一度や二度ではない。会社に女性や外国人の取締役がいたら、無礼な態度はとらなかっただろう。女性の成功モデルが増えると日本社会も変わる」。そんな思いを強くしている。
コチュが「人生を変えた恩人」と挙げるのが前参議院議員の尾立源幸(58)だ。
約10年前、議員だった尾立は、留学生だったコチュに英会話を習っていた。スイスでの起業に失敗し、日本で再出発すると聞き、再会。尾立はオイラのビジネスプランを評価し、出資。銀行からの融資の手順なども教えた。
「何でもロジック」。尾立はコチュのことをこう評す。「筋が通っていれば、どんな人からの提案も受け入れる。逆に筋が通っていないと、相手が待望のエンゼル投資家でも、がんとして聞かない」 異国で一人でスタートアップをする。「ロジックにこだわる頑固さがあるからこそできるんだろう」
尾立も公認会計士として働いていた32歳のとき、「政権交代がある政治」を目指して政界に飛び込んだ。今夏の参議院選挙で復活を期す。
会社の陣容は、コチュの他に日本に日本人スタッフ3人、トルコにトルコ人1人、そしてコチュの窮地を救ったインドに、アプリ開発会社のインド人4人がいる。インド人はフルタイムで、オイラのアプリの機能向上に取り組んでいる。
人件費を抑えながら有能な外国人を活用するオフショア経営。これをしたくてもできない日本企業は多い。
コチュは「マネジメントできるレベルの英語力がまず必要」と指摘。そのうえで「相手の顔が見えないから、私は詳細な契約書をつくり、厳しすぎるくらいの工程管理をしている」と話す。
スイスで起業した際、アプリの開発をトルコのエンジニアにまかせたが、待っても待っても試作品が出てこない。催促すると「開発は進んでいる」の言い訳ばかり。時間が無駄に過ぎ、会社をたたむ一因になった。
コチュは「オフショア経営を進めるうえで得がたい教訓になった」と笑う。
毎朝、手帳を片手に頭に描くゴールは壮大だ。オイラで、言語が違う人たちの会話をデータとしてため込む。これをAIに学習させ、生活やビジネスで本当に使えるAI通訳機をつくる――。「だれとでもコミュニケーションで言葉に困らない未来を実現したい」
取材ではコチュに「好きな日本語」も聞いた。「類は友を呼ぶ」だった。(文中敬称略)