東京都の緊急事態宣言が解除された昨年10月以降しばらくの間、県をまたぐ移動が増えた。地方の展覧会を見たり関係者に会うなどのリサーチに加え、仕事で招聘される機会もあった。
その際気づくのは、平日に飛行機の国内線や新幹線を使う人の大半がスーツ姿の男性であること。観光や私用目的の旅行が少ない今、ほとんどがビジネス目的の客だろう。女性は極端に少ない。日本では通常「出張するのは男性」なのである。
日本交通公社の旅行年報(注1)によれば、2018年に出張・業務目的で宿泊を伴う国内旅行をした人のうち女性は15%程度であることがわかる。また観光や出張など旅行の内訳を見ると、男性のおよそ50%が出張・業務目的であるのに対し、女性の場合その割合はわずか8%である。
このことは働く女性のポジションに関わっているだろう。内閣府による令和3年版男女共同参画白書(注2)によると、女性の非正規雇用労働者の割合は54.4%、管理的職業従事者における女性の割合は13.3%であり、3〜4割を女性が占める諸外国との差が際立っている。
会社から派遣されたり、取引先から招聘される職務を担うのは主に男性という現状が見えてくる。
昭和の時代が遠くなった今でも、家族の大黒柱は夫で、妻は第一子を産んだら退職し、育児が落ち着いた後にあくまでも補助的な立場でパートで稼ぎ、家計を助けるというモデルが日本社会の基準とされている。
しかし日本労働組合総連合会の2017年の調査(注3)によれば、現在非正規雇用の女性のうち約5割が初職(学校を卒業してから初めての仕事)の時点ですでに非正規雇用なのである。コロナ禍において非正規雇用の女性が職を失い、経済的困窮に見舞われたことが注目されたが、そこには多くの独身女性が含まれている。
このような不安定な雇用と、昇格・昇給機会の低さによって生じる男女の賃金格差はOECD加盟国ワースト3位(注4)であり、経済、政治、教育、健康の分野における男女格差を示すジェンダー・ギャップ指数は156ヵ国中120位(注5)だ。先進国で最低レベルなのはもちろん、アジア内で比較しても韓国や中国、ASEAN諸国より低い順位となっている。
出張する女性は確かに少ない。それを筆者が認識したのは2人の息子を保育園に通わせていた時だった。
美術館のキュレーターとして長年働いてきた筆者は、リサーチや交渉、展覧会に出品する作品の集荷・返却などのために出張したり、講演会で招聘されたりすることが多かったのだが、それを保育園のママ友から驚きの目で見られることがしばしばあった。海外出張に至っては「すごい」「かっこいい」などと過剰な反応があったため、その後出張の話は封印することにした。
また我が家は19時までの延長保育が必須だったが、利用者は思いのほか少なかった。多くの母親は非正規雇用で残業のない働き方を選んでいることを知った。
出張する女性が少ないがゆえに、旅先でタクシーの運転手に珍しがられ、あれこれ尋ねられることもしばしばある。
このように男性と同様に働く女性が「レアケース」で、日常の風景の中に当たり前には存在していないという現実は、次世代にも大きな影響を与えている。そのことを考えさせられる出来事があった。
先日、公募展のゲスト審査員として招聘され、ある地方都市を訪れた時のこと。地元の美術館館長の男性と大学教授の女性、そして私の3人が応募者の面接を行った。
ある男性アーティストの番が来た時、彼はこちらに近づくと、用意したプレゼン資料のコピーを真っ先に男性審査員に渡し、次に女性の教授、最後に筆者の順に配布した。
その後彼は男性審査員の顔だけを見ながら熱心にプレゼンを続け、筆者と目を合わせることはなかった。
性差別的な態度に面食らっただけでなく、それが年配の男性ではなく、20代の若者だったことに、日本社会の現実と問題の根深さを痛感した。
ここからは私の想像なのだが、大学卒業後、建築会社で働いているという彼は優秀な社員なのだろう。そのスマートな所作を見るにつけ、会社でたたき込まれたマナーに忠実に従ったのではないかと思う。
例えば名刺を渡す時、お茶を入れる時、偉い人に先に出すという鉄則がある。名刺を若手のスタッフに渡そうとして相手があわてて上司に順番を譲るという場面は珍しくない。
このような気まずさを避けるためには瞬時に先方の序列を読む必要がある。さらに企業のプレゼンでは最も重要なポジションの人物の心をつかむことが重要視されるだろう。
確率的に考えて年齢の高い男性を優先することによりミスは起きにくい。ちなみに審査で同席した女性の大学教授は、名刺交換の際に自分ではなくバスの運転手に名刺が渡されたエピソードを語っていた。
このような作法がビジネスや日常の生活に浸透し、年功序列男尊女卑の掟に従うことが正しい大人の振る舞いとされるため、男女ともにそれを懸命に身につけていく。事実、男性が決定権をもつことがデフォルトの社会なのだから、そのルールに意識や行動を順応させるのは自然だろう。
私はこのアーティストの親世代に当たるが、彼の職場には中高年女性の専門職の上司は少ないか、全く存在しないのかもしれない(建設業は女性の割合が特に低い)。いくら頭でジェンダー平等を理解していても、女性不在の世界では男女が協働するイメージを想像することは難しい。
それを強化するように会社や世間が伝統的なマナーを押し付ける。個々の努力や意識を超えた構造的な力が、個人の思想や行動をコントロールする。
イギリス人の友人にこの話をしたところ、2年前にイギリスで話題になった出来事について聞かせてくれた。
黒人の法廷弁護士(barrister)アレクサンドラ・ウィルソンが、王立裁判所に出廷した際に被告人と間違えられ、異なるスタッフから立て続けに3回も法廷への入室を止められたのだという。その後、王立裁判所・審判所サービスはこの非礼について正式にウィルソンに謝罪(注6)した。
ニューヨークタイムズ(注7)で紹介されている法廷における多様性の統計(注8)によれば、イギリスにおける黒人の法廷弁護士の割合は3.2%で、その中でもQC(Queen’s Counsel)と呼ばれるより高い職位の割合はわずか1.1%であるという。
25歳という若さの女性であり黒人でもあるウィルソンはエリートでありながら、複数の意味においてマイノリティである。さらに反射的に黒人を犯罪者と結びつける人々のバイアスが彼女に向けられたことになる。
性差別と人種差別というインターセクショナルな問題がからみ合うウィルソンの例を日本の女性差別と単純に比較することはできないが、マイノリティへのバイアスと思い込みの影響という意味において共通項はあるのではないか。
男性が出張し、発言し、決定する。そこに女性の姿がない。この日常の風景と発想を変える必要がある。
男性中心の環境に身をおく少数派の女性は、油断すると「いないこと」にされてしまう。そんな状況に対して「私はここにいますよ」という意思表示をし続ける必要があるだろう。
ウィルソンが「変化のために最善の方法は、問題のある組織の一員となって内側から変えることだ」(注9)と果敢にも述べているように、時にうんざりしたり、みじめになったりすることがあっても、諦めず、粘り強く主張を続けたい。
そして当然のことながら、マジョリティ側の気づきと変化への意志、行動が伴わなければ社会全体の変化は起こらない。男性には「普通に働く」だけでさまざまな困難や差別と対峙する女性の環境に想像力をはたらかせてほしい。
数が少ないというだけでも緊張を強いられる立場のマイノリティが、声を上げ続けることのストレスへの理解も必要だ。障害者やLGBTQ、外国人などあらゆるマイノリティに関しても同様のことが言える。私自身、自分がマジョリティの立場にいる時の「当たり前」を疑うべきだと自戒の念をこめて思う。
「若い世代はどんどん変わっていく」などという楽観論をよく耳にするが、何十年もの間、政治や経済、教育、家族など、社会のあらゆる分野の隅々にまで浸透した因習が「自然」に変わるはずはない。若者を序列の下位に置く制度をそのままに、「若者が変えてくれる」などという都合のいい話がまかり通るわけがない。
20代の若者が上司にならって差別的慣行を身につけるように、差別は構造的に維持され、ジェンダーギャップは着実に次世代に受け継がれていく。この苦い事実に愚直に向き合い、強い意志を持ってそれを止める努力をすることが、私たち大人の責任だと考える。