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イギリス人が誇る医療制度、でも長所がそのまま短所にも 「完璧な制度」は作れない

英国のお医者さん 更新日: 公開日:
NHS設立初日に病院を訪問するイギリスの保健大臣アナイリン・ベヴァン氏(左から2人目)=1948年7月5日、イギリス・マンチェスター近郊/Wikimedia Commonsより
NHS設立初日に病院を訪問するイギリスの保健大臣アナイリン・ベヴァン氏(左から2人目)=1948年7月5日、イギリス・マンチェスター近郊/Wikimedia Commonsより

これまでイギリスの公的保健医療制度(NHS)について話してきました。

この制度はイギリスにとって特別な存在です。2012年のロンドン・オリンピック開会式ではライトアップされた「NHS」の文字が全世界に向けて発信されました。

「イギリス人として最も誇りに思うものはなにか」というアンケート調査では、NHSは常に上位に入ってくる、イギリス人らしさ「ブリティッシュネス」の象徴でもあります。

冒頭の写真は、今から70年以上前にNHSを誕生に導いた当時の保健大臣アナイリン・ベヴァンがNHS設立初日に病院を訪れた際の風景です(出典:Wikipedia Commons)。

一方、NHSは完璧な制度ではありません。財政難、人材不足、受診までの時間の長さなどの問題がメディアで指摘されています。今回はこうしたNHSの長所と短所について紹介しようと思います。

医療に対して、何が長所で、何が短所か、という判断基準は国によって様々です。そのため、イギリスの医療の良し悪しを判断するなら、まずは国としてのイギリスの考えを知ることが欠かせません(第12回)。

イギリスには「NHS Constitution(NHS憲章)」と呼ばれる規定があります。NHSの価値観や基本理念が示され、イギリスの医療のカタチを決める羅針盤となっています。

 ここの部分はとても大切ですので、以下のようにサマリーにまとめました。

いずれもイギリスが大切にしたい価値観ですが、違う視点から見れば犠牲となる部分があります。

例えば、(1)の「インクルーシブネス」。これを優先すれば、その裏で犠牲になるのは「エキスクルーシブネス」という価値観です。

富や地位によって受けられる医療は変わらないし、NHSが提供するサービスの基本は「ベストプラクティス(最善医療)」であって「最新医療」ではありません。また、アメニティの充実などゴージャスな医療を提供するのも難しくなります。

プライベート医療も利用できますが、それはあくまでNHSによるサービスを補完するもので、置き換えるものではありません。

医療のほとんどはNHSによって提供されるため、残りの小さくニッチな市場をカバーするのがプライベート医療になり、サービスの範囲は限られています。

ですので、ネットやSNSなどでしばしば「一般市民はNHS、富裕層はプライベート」という指摘を見かけますが、これは誤解です。

前述のように、実際はイギリスのプライベート医療は一部の医療しかカバーしないからです。例えば、集中治療やがんの手術など、緊急性や重大性が高い健康問題をプライベート医療でカバーするのは大変難しく、出来ないことがほとんどです。

また、イギリスの医師会(British Medical Association)によると、民間医療保険は通常、糖尿病などの慢性疾患をカバーしません。かかりつけ医(GP)、メンタルヘルス、救急医療などのサービスについても、ほとんどの民間医療保険は適用外です。

緊急性と重大性のいずれもが低く、時間の経過が予後に与える影響の低い二次医療的な問題があり、より早く病院医師にかかりたいときに利用する――、プライベート医療はそんな一部の状況に限られています。

例えば、合併症のない膝や股関節の人工関節置換手術などは代表的な例の一つです。

このように、イギリスではどれだけお金持ちでも、社会的に地位が高くても、エキスクルーシブルな医療は受けにくいという面があるのです。

ロンドンの通り沿いに映し出された、NHSを支援するメッセージ=2021年2月(Vuk Valcic / SOPA Images/Sipa US via Reuters Connect)

(2)の「ニーズを基盤とする」「フェア(公平・公正)な医療を提供する」についてですが、これらを優先すれば、相対的にニーズの高い人に資源を手厚く分配し、ニーズの低い人に資源を手薄く分配する、ということになります。

これによって犠牲になるのは「ニーズの低い人」です。特に「要望(demand)を基盤とする」「平等な医療」を提供する制度に慣れた人にとっては不満がたまりやすいシステムです。

フェア(公平・公正)な医療と平等な医療の違いについては第19回で説明しました。

医療へのアクセスもこの影響を受けます。例えば、病院医療へのアクセスでは、以前說明した通り、基本、健康問題の緊急度や重大性に応じたアクセスになっています。診療所へのアクセスについてもニーズが重視されます(第15回)。

私のところを含め、多くの診療所では、予約がいっぱいになった後の受診は、患者にとって急な問題は当番医が対応しますが、そうでなければ翌日以降に受診をお願いしています。

最近のGP Patient Survey(2020年7月)の結果を見ても、当日予約を希望した人のうち実際にその通りになった人は62%となっています。

(4)の部分で、「科学的根拠に基づき効果性と安全性を追求する」とありますが、逆に言うと「科学的根拠の視点から効果や安全性が確立していない医療は提供しにくい」ということです。

例えば、前回紹介した風邪に対する抗生剤、痰切りや咳止めの薬はその一例です。

また、「スタッフも大切にする」ということは、長時間労働を減らし、有給休暇や産休・育休の確保など健全な労働条件を保つことを意味します。ただ、そうすると「労働力は減り、コストがかかる」という問題も出てきます。

(5)の中の「公的資源の最も価値の高い活用を追求する」ですが、これは「公的資源の価値の低い活用はしにくい」ことでもあります。

例えば、検査器具について、基本、血液検査、培養、心電図など必要とされる頻度の高いものは診療所に配置する一方、レントゲン、エコー、CT・MRIなど診療所(低リスクの環境)で必要とされる頻度の低いものは病院に配置しています(第19回)。

これらがNHSの価値観から生まれるイギリス医療のもう一つの側面です。

そして、医療制度を税方式で支えることは、システムから漏れる人が生まれにくい点で長所ですが、逆に政治の影響を受けやすく、NHSの最大の弱みである不安定な財源につながっています第19回)。

今回はこれで以上です。

次回は、イギリス医療が抱える課題と今後の方向性について話したいと思います。