前回は、イギリスの医療制度の長所と短所についてお伝えしました(第31回)。今回は、イギリス医療が抱える課題とこれから進められようとしている改革の内容について話そうと思います。
課題といっても、これは前回お伝えした短所ではありません。自ら優先順位を決め、納得して受け入れた短所は、当事者にとっては課題とはならないからです。イギリスの課題とは、イギリスが大切にしたいことを維持、改善していくことに必要なこと――。今回はそうした目線から見た課題について紹介し、それについての対策も含め、今後の方向性についてお伝えしていきます。
イギリスはNHS(公的保健医療制度)が70周年を迎えた2018年を節目に、今後10年間における長期計画「NHS Long Term Plan」を作成しました。これはNHSが抱える課題を医療政策に関わる一部の人達だけではなく、患者団体、専門家団体、一般市民など多くの人達と議論を重ね、イギリス医療の一体何が問題で、今後どういった変化が必要なのかについて幅広いコンセンサスを得て明らかになってきた、財源不足、人材不足、格差の拡大、高齢化などの懸念に対して、今後の改革の方向性を示すものです。
この長期計画の内容は多岐にわたりますが、今回はこれをわかりやすく、簡単に解説していきます。3年近く前に発表されたものですので、すでに実行に移された計画や、コロナ禍の影響もあり予定を前倒しして進める必要があった計画もあります。この連載でもうすでに紹介してきたこととも重なる内容もありますが、ご了承ください。
長期計画の大軸は以下の通りです。
(1)新しいサービスモデルへ移行する
(2)予防に力を入れ、健康格差を是正する
(3)医療の質と健康指標を改善する
(4)人材不足を改善し、医療従事者のサポートをより充実させる
(5)デジタル改革を推進する
(6)NHSの財源を増やし、長期的に安定させる
(7)計画を実行するためにシステムを統合する
一つずつ紹介していきます。
(1)新しいサービスモデルへ移行する
これまでの医療提供体制は、医療機関に直接足を運ぶ必要がある外来受診を主流としていて、大きく変化する現代社会に適応できていない状態でした。また、医療、看護、介護の連携が不十分だったり、患者の社会的問題に対応する手段が確立されていなかったりしたため、必要以上に入院していたケースがありました。患者の自立を支援する文化やサポートも不十分で、患者が自信を持って自分自身の健康を管理するのが難しく、加えて、病院の救急外来には過度の負担がかかり、特に緊急度の低い問題に対しては適切なタイミングで対応しにくい状況でした。
新しいサービスモデルには、望めば誰もがオンライン診療を使ってかかりつけ医(GP)や病院医師を受診できるようになり、病院に足を運ばなくても必要な医療をより簡単に、より早く受けられるようにすることなどが含まれています。より多様な受診方法を提供し、より良いサポートとともに、最適なケアが適切なタイミングで受けられるようになると期待されています。より身近な場所で、より多くのサービスが使えるように、地域のサービスに対する財源を重点的に増やしていく方針が計画に盛り込まれています。
そしてGP、地域訪問専門職、ソーシャルワーカーなど多くの職種からなる地域のチームを拡充し、不必要な入院を減らしたり、入院が必要な人が必要以上に長い入院にならないようにしたりして、退院のタイミングの適正化を目指しています。
また、社会的処方(第26回)やセルフヘルプグループ(第24回)の拡充を通して、患者が自分の健康をより良く管理しやすい環境作りも含まれています。
加えて、救急サービスを必要とする人にそのサービスをより早く届けつつ、病院の救急外来の負担を減らしていくために、高熱、軽度の火傷、四肢の骨折疑いなどの緊急性が低い問題に対しては、地域で適切なケアを受けられるアクセスポイントを整備し、対応していくことも盛り込まれています。
(2)予防に力を入れ、健康格差を是正する
以前お伝えしたように、イギリスでは、喫煙率の高さ、過度の飲酒、そして特に肥満が問題になっていて、加えて、都市部における空気汚染も問題視されています。低所得者ほどこれらの問題を抱えている傾向があるなど健康格差が広がる中で、ニーズが高いけれども必ずしも医療に十分にアクセスできていなかった人たちへの対応を後回しにしてきました。
そこで、人々がより元気で長く生きられるように、健康の社会的決定要因(SDH)に目を向け、飲酒、喫煙、肥満の生活習慣対策や空気汚染対策に力を入れることや、健康格差と、これまで対応が足りなかったニーズをより正確に評価し、それに基づいて地域へ資金を配分することなどが示されています。
加えて、ホームレスへのアウトリーチ支援、妊婦の禁煙支援、学習障害や自閉症を持つ人々へのより手厚い支援、重度なメンタルヘルスを持つ人々の就労支援、がん検診を受けられていない人の受診率の向上などのように、特にニーズの高い集団に対して働きかけることで健康格差の是正に努めることも盛り込まれています。
(3)医療の質と健康指標を改善する
様々な疾患の予後が10年前と比べて大きく改善してきているものの、特に死因のトップとなっている心血管系・呼吸器系疾患、癌、糖尿病などへの対策には、まだまだ改善の余地があります。また、高齢化による多疾病罹患(複数の持病を持つこと)や認知症、そしてメンタルヘルス、自閉症や学習障害に対する支援も十分ではありません。
がんに対する医療を例に挙げると、この長期計画では、2028年までに、ステージ1および2といった早期に診断されるがん患者の割合を、現在の約半数から4分の3に引き上げるという新たな目標が掲げられています。一般市民に対するがんに関して注意すべき症状の啓発の強化や、医療者ががんを疑う敷居を下げ、がんの診断と治療へのアクセスを促進し、がん検診で発見されるがんの数を最大化するための取り組みを進めていくとしています。
第19回では、がん診療にまつわるタイムラインの現状の統計を3つ紹介しましたが、それに加えて、がんの疑いがあるとのGPから紹介された患者、もしくは検診で引っかかった患者は、以下のように最長で28日以内に、がんなのかそうでないのかを判断することを新たな目標とする取り組みも始まりました。その一つの例として、私が働いている地域における前立腺がんが疑われる場合の対応を紹介します。
前立腺がんの疑いがある場合
● かかりつけ医(GP)が専門病院に紹介。
● 24時間以内にその情報が専門チームによってトリアージされる
● 4日目までにMRI画像検査が予約され、10日以内に実施される
● 11日目までにその結果を把握し、生体組織検査が予約される、もしくはがんが除外される
● 15日目までに生体組織検査を受ける
● 21日目までに生体組織検査の結果を評価、それが患者に伝えられる
● 28日目までに多領域の医師による症例検討会(MDT)を終え、治療計画を患者に伝える
加えて、2025年までに妊産婦関連死を半減させることや、大人はもちろん、特に子どもや若者へのメンタルヘルスサービスを拡充し、より迅速に利用できるようにするべく予算を重点的に配分することなども掲げています。
(4)人材不足を改善し、医療従事者のサポートをより充実させる
過去10年の間、医療ニーズの増加に対し相対的に人材が不足していて、医療従事者への負担は増えていました。その一方で、医学部や看護学部の定員は足りず、柔軟な働き方が難しいなど、人材を確保するための対策も不十分でした。
そこで、まず人材確保のため、看護学科や医学部の定員を増やし、看護師や医師になるためのルートを複数提供し、海外から専門職をより多く受け入れる計画をしています。例えば、医学部の定員を6000人から7500人まで増やす、医学部の卒業を医者になるための絶対条件としないなどの具体案があります。
また、より働きやすい環境を作り、できるだけ離職を防ぐべく、医療従事者が働く時間帯や曜日をより柔軟に選べるようにし、医療従事者がより学びやすく、専門性を向上できるようにより多くの資源を分配する計画です。そしてNHSのスタッフや患者を助けるためにボランティア活動をする人を2倍に増やす支援なども記されています。
(5)デジタル改革を推進する
NHSの長期計画は、テクノロジーの発達によって社会が大きく変化している一方、医療の世界では従来のやり方に囚われたままで、利用者が期待するほど大きな変革ができていないことについても言及しています。
これに対し、テクノロジーの有効利用によって、医師を始めとする医療従事者がそのスキルを最大限に発揮できるよう支援し、皆が自分の健康維持や症状の管理をよりしやすくなるようにすると計画されています。
これにより例えば、医師はどこにいても患者の診療情報にアクセスすることができ、意思決定支援ツールやAI(人工知能)を最善の治療方針づくりに役立てるベストプラクティスの支援を受けられることなども期待されています。また患者自身が、NHSアプリを通して、いつもの薬をリフィル処方箋(第15回)としてお願いしたり、自分の診療情報にアクセスしたり、かかりつけ医療機関や紹介先病院での診療を予約したりできるようにするなど、NHSサービスのデジタル化を進めていくとされています。加えて、紙の処方箋を電子化して患者が指定する薬局に送信する電子処方箋や、自宅にいる患者のバイタルデータを医療者と共有できるウェアラブルデバイスなどのデジタルツールの活用も期待されています。同時に診療所ではほぼ完了しているペーパーレス化を、病院でも2024年までの完了を目指していく方針です。
(6)NHSの財源を増やし、長期的に安定させる
以前お伝えしたように、近年ではNHSの財源の伸び率が低く抑えられていて、医療費抑制の時代と揶揄されたあのサッチャー政権時よりさらに厳しい時代を送っていました。
しかし、これからはNHSの財源をより増やしていくこととなっています。これまでの1
年あたりの平均伸び率であった2%を、少なくともこれから5年間はNHSが設立された1948年以降の平均である3.7%に近い3.4%まで増やし、納税者の投資を最大限有効活用するために、医療サービスの効率化を推進し、それで節約できた財源をさらに医療に投資していくとしています。
(7)計画を実行するためにシステムを統合する
この長期計画で示したことを実現するために、新しいシステムの構築を進めていく計画です。このシステムは「統合ケアシステム(Integrated Care System)」と呼ばれ、病院、メンタルヘルス専門機関、かかりつけ医(GP)やコミュニティサービスなどのプライマリ・ケアサービス、地方自治体や介護施設、その他のケア提供者を、それぞれの地域の実情に合わせて一体的に統合するためのものです。これまでは様々な機関が別々に機能してきたため、多くの人々が分断されたケアを経験していましたが、これにより人々が必要とするサポートをより良く提供していくことを目指す方針です。今年度からイギリスの全ての地域でこの新しいシステムがスタートする予定になっています。
以上になります。こうした大規模な医療改革はイギリスでは珍しいことではなく、より良い医療制度を目指して多くのステークホルダーが関与する形で、事あるごとに議論され、制度がアップデートされています。
次回は、プライマリ・ケアの視点から、日本の保健医療制度の今後の可能性について考えていこうと思います。