2021年1月20日の早朝、私はいつものように首からカメラをぶら下げ、厚めのダウンジャケットを着て雨の中を猛ダッシュしていた。重い機材が入った古びたスーツケースをガラガラ引きずる音が、マスクの下からもれる荒い息とともに、夜明け前の中華街に響いた。暗闇の先には、パトカーの赤と青の回転灯が派手に光っていた。
大統領就任式が予定されていたこの日、開始時間は正午だったにも関わらず、私が前泊したワシントンの中華街のホテルから会場である米連邦議会議事堂へ徒歩で向かったのは朝6時のことだった。
「前代未聞」―――バイデン大統領とハリス副大統領の就任式を形容する時、真っ先に浮かぶのがこの言葉だ。
その理由は2つある。1つは新型コロナウイルス。就任式を間近に控えた頃、米国では新型コロナによる死者がすでに40万人を超えていた。マスク着用を拒み、大規模な選挙集会を続けたトランプ前大統領とは対照的に、対策の強化を訴えるバイデン氏が、果たしてこれまでの就任式と同じように連邦議会議事堂のバルコニーで宣誓するのだろうか。それとも議事堂内で小規模に行われるのか。出席者や観衆はどうなるのか。海外メディアである私がそもそも撮影機会を得られるのか……様々な憶測が飛び交った。一方で、トランプ氏が同日にフロリダで集会を開き、出馬宣言するのでは?という報道も出回っていたため、いつどこでどんな取材が可能かについての不確定要素が膨れ上がっていた。
2つ目の理由は、1月6日にワシントンで起きた議事堂襲撃事件をきっかけとして強化された厳重警備態勢だ。ホワイトハウス周辺で行われたトランプ大統領の演説後、「不正により選挙が盗まれた」と信じる支持者たちが連邦議会議事堂へ向かい、大統領選結果を確定する会議が行われていた議事堂内へ侵入。警察官を含む計5名が命を落とした。これを受け、米連邦捜査局(FBI)は大統領就任式までの1週間の間に、武装集団による抗議行動が起こる可能性があるという警告を発令した。
警備強化のために全米各地から州兵が召集され、大勢の兵士たちが大型バスで続々とワシントンに到着した。就任式まであと7日もあるというのに、街中が迷彩服でライフルを構える州兵と頑丈な黒いフェンスで覆われた。大きく鋭いトゲの有刺鉄線で囲まれる議事堂やホワイトハウスはまるで凶悪犯罪者用の刑務所のようだ。あちこちに軍用大型車両が並び、通行止めのコンクリートブロックや検問所も設置された。市民の姿は街頭からすっかり消え、米国の首都はたちまち「戦場」と化した。
「戦場」の中には面白い光景もあった。議事堂襲撃事件を扇動したとしてトランプ氏に対する弾劾訴追決議案が審議されていた1月13日の朝、議事堂を訪れた私の目に飛び込んできたのは、数百人単位の「寝る州兵」だった。議事堂内の冷たい大理石の床を覆い尽くすように、仰向けで眠る人もいれば、リュックサックを枕に寝そべる人も。右を見ても左を見ても「寝る州兵」。ライフルを手に寝る兵士もいれば、食べ物をギュッと抱きしめ眠る兵士の姿もあった。起きていた人に理由を聞くと、「夜間シフトや緊急時に備えて待機中」だと教えてくれた。
ワシントンに初めて来たという若い州兵も多く、休憩中に議事堂内を観光したり、写真撮影をしたりする姿も見られた。議事堂前の警備の様子を撮影しようと、外に出た時のことだった。レンズを向けると、カメラを意識し銃を構えたり、突然タバコやおしゃべりをやめて姿勢を正したりする州兵がいた。そのうちの一人が私がどこの新聞社か尋ねてきた。日本と答えると「じゃあ僕は日本で有名になるかな?」と言い、周囲に笑いが起こった。厳重態勢の中、厳しい表情で武器を構える兵士に人間らしさを垣間見て、気持ちが安らいだ瞬間だった。
このような「前代未聞」の状況下で行われたバイデン新大統領の就任式は、世界中からワシントンに人が押し寄せ、街中がお祝いムードで溢れたこれまでの就任式とはまるで別世界だった。オバマ大統領の時は過去最高の46万人がワシントンのナショナル・モールに集まった。トランプ大統領の就任式は反対派との衝突や暴動があったものの、大勢の人々がワシントンに集結したと言う意味では共通していた。
州兵が包囲する会場の中では椅子が間隔を空けて並べられ、防弾ガラスが設置されたバルコニーの演壇から見える景色に観衆の姿はなかった。それでもバイデン氏は、1月6日にトランプ支持者によって占領・破壊されたこの会場で就任式を決行することを選んだ。
この日は極寒で、空はどんよりとし強風が吹いていた。コロナ検査の陰性証明や荷物検査のあと金属探知機をくぐり、やっと会場に到着したが夜はまだ明けていなかった。スノーボードで雪山に慣れているはずの私の膝と肘はガクガクに震えていた。あまりの寒さに叫びながら、ステージの脇にやぐらのように組み立てられたカメラスタンドへ上がり準備を始める。4年前は肩と肩が触れ合う距離で撮影したこのスタンド。今回は感染対策のためフォトグラファーの人数を減らされ、ガラガラだった。日本メディアでこのスタンドから撮影が許可されたのは結局私一人だった。
ここから見る朝焼けは4年に一度の特別な景色だが、今回はさらに特別な思いを抱いた。わずか2週間前に、人種差別支持を表す旗や武器が描かれた段幕をなびかせ「不正な選挙結果を覆せ!」とトランプ支持者らが叫んだ、まさに同じところに自分が今立っているからだ。議事堂西側にあるバルコニーから西の方角を見渡すと、ワシントン記念塔とリンカーン記念堂が一列に並んでいる。椅子に座り連邦議会議事堂をじっと見つめる巨大なリンカーン大統領の石像は、1月6日の襲撃、そして今日の就任式をどんな思いで見ているのだろう、と考えた。
寒さをしのぐため、できるだけ歩き回り会場内の様子を撮影していると、開始時間が近づいていた。海兵音楽隊によるトランペットやドラムの音が鳴り響き、青い絨毯が敷きつめられたバルコニーの舞台に、歴代大統領夫妻やペンス副大統領夫妻、最高裁判事たちなど、出席者たちが続々と登場した。オバマ大統領夫妻が登場すると、会場から歓声が湧いた。きれいな上着をまとった出席者を望遠レンズで狙うが、マスクをしているため表情を切り取るのが容易ではなかった。ハグの代わりに、拳を軽く合わせる新スタイルの挨拶があちこちで交わされた。気づけば、雪が舞っていた。
バイデン氏の宣誓式が始まろうとした時だった。奇跡のように空が晴れ、太陽の光が差し込んだ。この最も重要な場面で失敗は許されない。突然明るくなったため、慌ててカメラの露出を調整した。ジル夫人が持つ大きな聖書に左手を置き、右手を上げてバイデン氏は眩しそうな顔で宣誓した。これが第46代目米大統領誕生の瞬間だ。「米国を一つにし、国民を団結させるために私は全身全霊を捧げます」。バイデン新大統領は両極化した国の団結を訴え、民主主義の大切さを強調した。
思えば「戦場」は、トランプ氏が大統領選に敗れた頃からすでに見え隠れしていた。州兵の姿や厳重警備態勢は当初なかったとはいえ、ワシントンにトランプ大統領の支持者が集結し、選挙結果を不正と訴える抗議デモが繰り返し行われていた。首都は「トランプの勝利」を訴えるプラカードや南部連合の旗を掲げる人で溢れ、中には民兵組織や白人至上主義集団の姿もあった。この延長線上に1月6日の襲撃事件があった。就任式を迎えた頃には、この緊張状態がすでに数ヶ月続いていたことになる。
「私たちは試練の時を迎えています。民主主義や真実に対する攻撃に直面しているのです」。バイデン大統領は演説の後半、こう語った。
襲撃事件後、意見を聞こうと、事件当日に現場で知り合ったトランプ大統領の支持者に連絡をした時のことを思い出した。「これはトランプ大統領を陥れるための極左集団による策略だ。バイデンは不正で選挙に勝ったのだから絶対に大統領と認めることはできない」
就任式当日、トランプ前大統領は式が始まる前にワシントンを去った。フロリダで行われる予定だった大規模集会が、議事堂襲撃事件を受けて中止されたことは言うまでもない。ただ、前代未聞だらけの大統領就任式を取材する中で、去ったはずのトランプ氏の「影」があちこちに潜んでいるかのような感覚を覚えずにはいられなかった。
「真実に対する攻撃」は、ある意味ウイルス以上に恐ろしいのかもしれない。就任式取材を終え、一列に並ぶ何百人もの州兵の前を、ガラガラ音をたて機材を引っ張りながら、ふと思った。前代未聞の就任式は、新型コロナウイルスだけではなく、「真実に対する攻撃」と闘いながら決行された。そしてこの闘いはまだまだ終わりそうにない。