昨年のベラルーシさながらの光景
この週末には、ロシア情勢が大きく揺れ動きました。1月23日(土)、反体制派A.ナワリヌイ氏の呼びかけに応じて、ロシア各地で無許可の反政府デモが行われ、多数の参加者が官憲によって拘束されたものです。群衆が「プーチンは泥棒!」、「(プーチンよ)辞めろ!」などと叫ぶ一方、治安部隊が平和的なデモを蹴散らす様子は、昨年のベラルーシの出来事を彷彿とさせるものでした。
経緯を振り返れば、ナワリヌイ氏は昨年8月、シベリアで飛行機に搭乗する際に空港カフェで毒を盛られ、一命をとりとめた同氏はドイツで治療を受けていました。そして、今年に入り1月17日、命の危険を顧みずロシア帰国を決行、モスクワの空港で当局により直ちに身柄を拘束されました。ただ、その展開はナワリヌイ本人にとっても織り込み済みであり、18日にはビデオメッセージで1月23日のデモ参加を呼びかけ。そして、翌19日には、プーチンの汚職を暴く動画を公開。動画は数千万回再生されたと言われており、社会に大きなインパクトを与えました。
ナワリヌイとは何者か
アレクセイ・ナワリヌイ氏は、1976年6月4日、モスクワ郊外のブティニという村の生まれ。ネットを駆使し、ティーンエイジャー、青年層の旗手として活躍してきましたが、本人は現在44歳と、それなりに年齢を重ねています。
ナワリヌイは、2010年代に入ってから、体制エリートによる汚職を糾弾する活動を始めました。しばしば「ブロガー」として紹介されますが、近年同氏が手掛けてきた情報発信は、とてもブロガーという小さなスケールには収まらず、「ユーチューバーがプーチンの悪口を言ってみた」などという生半可なものではありません。個人というよりも、有能なチームで動いており、政権幹部を批判するにしても、綿密なリサーチにもとづいて、きわめて完成度の高い動画を公開しています。優良なドキュメンタリー作品を生み出すプロダクションという観があります。
その真骨頂となったのが、まさに上述の1月19日に公開された「プーチンのための宮殿 最大の汚職の歴史」という動画です。ロシア南部クラスノダル地方に、黒海に面したゲレンジクという保養地がありますが、その近郊にプーチンのために宮殿まがいの超豪華な別荘が建設されていることを、克明な裏付け取材をもとに暴いた動画となっています。
ちなみに、有名な劇画の『ゴルゴ13』の「オリガルヒの報復」という回に、ゴルゴがロシア大統領の側近を黒海沿岸の別荘で狙撃するという話が出てきます。そのストーリーによると、くだんの別荘は厳重に警備され、陸からも沿岸からも近付けないので、ゴルゴは、黒海の沖合に飛ばしたヘリコプターから出撃しました。今回、ナワリヌイのチームも、建設中のプーチン宮殿には陸からも沿岸からも接近できないので、沖合にゴムボートを浮かべ、そこからドローンを飛ばして宮殿の撮影に成功しています。海岸の崖の上に立つプーチン宮殿は、『ゴルゴ13』に出てきた別荘と佇まいがそっくりで、作者のさいとう・たかをさんは預言者なのだろうかと、思わずうなってしまいました(「オリガルヒの報復」は2006年の作品らしいのですが)。
さて、ロシアの反体制活動家の中では突出した知名度を誇るナワリヌイ氏ながら、「大統領選で誰に入れたいか」を世論調査で問うと、少なくともこれまでは、ナワリヌイの数字は1~2%程度しかありませんでした(下表参照)。天下のプーチンが2%男を恐れるのは奇妙にも思えますが、体制側はそうした単純な数字というよりも、ナワリヌイの活動がロシアにもたらしうる質的・構造的な変化を警戒しているのでしょう。
これまでナワリヌイは、反体制陣営の中で、誰もが認めるリーダーというわけでもありませんでした。どこの国でも同じですけれど、野党勢力の中には主導権争いがあり、ナワリヌイのやり方を是認しない勢力も少なくなかったのです。特に、ナワリヌイが2018年から提唱している「賢い投票」という戦術は、選挙で与党「統一ロシア」を倒すために野党統一候補を皆で支持しようというものなのですが、「結局はナワリヌイの指名する候補を支持させられるだけじゃないか」という反発の声が上がっていました。
有識者たちによる論評
ここからは、1月23日の反政府デモを受け、ロシアの有識者たちがどのような分析を示したか、その発言要旨をまとめてみることにしましょう(分かりやすいように意訳・補足した箇所もあることをお断りしておきます)。
まず、ロシア科学アカデミー地理学研究所のD.オレーシキン氏は、ナワリヌイがプーチン宮殿を暴いたことによるインパクトを、次のように解説しています。「ゲレンジクの宮殿のことが最初に報じられたのは2010年だったが、当時はナワリヌイの活動をフォローしている人たちにしか伝わらなかった。それが今では、広く人口に膾炙することとなった。ロシアの世論は非常に保守的で、ゆっくりとしか変化せず、しかも依存的である。国民は長年、プーチンについての悪い話を聞くことを望まず、プーチンには決して傷の付かないテフロン支持率があった。国で起こる悪いことのすべては、内閣、議員、知事らに責任があるということになっていた。それが、今や国民は、プーチンには宮殿があるという現実を目の当たりにしたわけで、これは本当のセンセーションだ」
23日のデモについては、政治学者のA.クィネフが、次のように述べています。「今回のデモで、最も重要な点は、その地理的広がりである。これまでは抗議行動がほとんど起きなかったようなところで、それが発生し、多くの街では過去30年で最大規模の抗議行動となった。社会に蓄積した不満がもたらしたものである。しかも、大多数の人々は、ナワリヌイ氏を支持するためというよりも、現体制への反対を表明するために集会に参加した。その意味で、今回の抗議行動は、ハバロフスクでのそれと通底するものだった」
地域政策発展センターのI.ゲラシチェンコフ社長は、次のような評価です。「今回の抗議行動は、完成形というよりも、野党勢力が2021年に行おうとしている数多くのアクションの第一弾にすぎないだろう。無許可集会の割には、非常に多くの参加者が集まり、成功を収めたと言える。従来は、ナワリヌイが動員できるのは子供だけだという神話があったが、今回の集会では未成年者はほとんどおらず、25歳前後の大人が多かった。それに対し、政権側は警棒とSNSの遮断で応じることしかできなかった。集会に集まった多くの参加者は、ナワリヌイの支持者ではなく、政権に不満を持った人々であり、ナワリヌイは単に人々を団結させる役割を果たしているだけである。これまで、ナワリヌイの推進する『賢い投票』には多くの疑問も寄せられていたが、今回の抗議行動はその作戦にとっての素晴らしい宣伝となった。他方、今後、官憲はより一層抑圧的な姿勢を強めることになるだろう。実際、議会には、未成年者を無許可集会に勧誘することに対する処罰を厳格化する法案が提出された」
このように、ナワリヌイ支援というよりも反プーチンの要素が大きかったという論評が目立つ中で、政治評論家のA.ガリャモフ氏の見解はこうです。「今般の抗議集会に集まった人々は、プーチンに反対しているのか、それともナワリヌイを支持しているのかということが、論争になっている。しかし、以前はともかく、現在その問いは意味を失っており、前者と後者は同義である。体制側の振る舞いの結果として、ナワリヌイは完全に、反プーチンを体現する存在となった。プーチンを許さないのなら、自動的にナワリヌイの支持者であるという図式が強まっている。そうなった原因は3つある。第1に、反体制陣営では、クレムリンから主導権を奪った功績が、もっぱらナワリヌイのものであることを、皆が分かっていること。第2に、体制側による対決的な姿勢が、闘争を尖鋭化させ、その結果として穏健派野党の影が薄くなったこと。第3に、ナワリヌイ毒殺未遂事件と、同氏の収監を受け、彼を批判する野党勢力がほとんどいなくなったこと。その意味では、政権側が反体制派の団結を促したと言える。ナワリヌイが長く収監されればされるほど、彼が『ロシアのネルソン・マンデラ』になる可能性が高まっていく。確かに、同じように投獄されたM.ホドルコフスキーはマンデラにはなれなかったが、それは彼がオリガルヒだったからというよりも、15年前には国民は現状に満足しており、マンデラを必要としなかったからだ。現在は状況が根本的に異なる」
他方、体制側が23日のデモを厳しく取り締まったことにつき、前出のオレーシキン氏は次のように指摘しています。「プーチンにはもはや、力を見せ付けるという以外に、選択の余地はない。どうやら政権側は、覚悟を決めたようだ。モスクワ市民に『自分たちが街の主人公だ』などという錯覚を捨てさせなければならず、デモ隊に怪我を負わせたり、収監してでも、誰が主なのかを誇示しなければならないと、覚悟を決めたのだろう。自由の身のナワリヌイは、獄中のナワリヌイよりも厄介なので、プーチンはナワリヌイを収監しないわけにはいかなかった。獄中に留め、国民が忘れてくれるのを待つしかない。プーチンはルカシェンコ・ベラルーシ大統領と同じ状況に陥ってしまい、力に頼る以外に選択の余地がなくなっている」
最後に、政治工学センターのA.マカルキン副社長が、より長期的な観点から今日の状況につき考察しているので、それを聞いてみましょう。「ロシアの社会には、ソ連をルーツとする、また新生ロシアをルーツとする様々な『恐怖』があり、政権はそれに訴えることで社会をコントロールしてきた。しかし、世代交代に伴い、恐怖の効果が薄れてきている。それはたとえば、不適切な時と場所に街頭に繰り出したら、一生を台無しにするという恐怖。ロシアという船を揺らしたら、暗黒の1990年代に逆戻りしてしまうという恐怖。市民の権利と自由をうたった憲法第2章を順守したら、国が崩壊しかねないという恐怖。自由ばかりの国になったら、子供がLGBTになってしまうという恐怖。抗議が過ぎると、アメリカのように分裂してしまうという恐怖。1990年代のトラウマが生きていた頃であれば、こうした恐怖に付け込むことが効果的だった。しかし、1990年代が去ってから、すでに20年が経過し、これは両大戦間期とほぼ同じで、L.ブレジネフの治世よりも長い年月である。この間に、モスクワだけでなく地方でも新しい世代が育っている。政権側は、新世代に有益なものは何も提供できず、彼らとの対話は不可能であり、恐怖はますます効果が薄れている。
人々が街頭に繰り出した時に、政権側は対応せざるをえない。彼らには、数万人が繰り出した時にそれを許し、さらに数十万人が繰り出した時にそれを許した結果、ソ連が崩壊したということが教訓として残っているので、反政府デモを許容はできないのだ。だが、許容しないことが、問題の解決にはならない。若い世代は消えてなくなりはしないし、未成年者も18歳になれば有権者になるからである」