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ウクライナ政変から5年 地域研究者による極私的回想

迷宮ロシアをさまよう
ウクライナの首都キエフの中心部、独立広場(マイダン)の風景。2014年5月に撮影したものであり、政変から3ヵ月を経ても事件の爪痕がそのまま残され、さながら革命テーマパークのようだった(撮影:服部倫卓)
ウクライナの首都キエフの中心部、独立広場(マイダン)の風景。2014年5月に撮影したものであり、政変から3ヵ月を経ても事件の爪痕がそのまま残され、さながら革命テーマパークのようだった(撮影:服部倫卓)

旧知の街が戦場に

ロシアと欧州連合(EU)の狭間に位置するウクライナで政変が起きたのは2014年2月のことであり、早いもので、それからもう5年の時が経ちました。なお、ウクライナ本国ではこの事件のことを「尊厳革命」と呼んで神聖視していますが、筆者自身は一面的な価値評価は避けたい気持ちがあり、ここでは単に「政変」と呼んでおきます。

筆者にとってウクライナは、ロシアと並んで、主たる研究対象国の一つです。毎年、必ず一回はウクライナの首都キエフおよび地方都市を訪問し、現地調査を積み重ねてきました。そんな筆者にとって、2014年の政変の延長上で、ロシアとウクライナが実質的な交戦状態に突入したことや(在来型の戦争ではなく「ハイブリッド戦争」と呼ばれる非正規戦ですが)、かつて訪問したことのある街が戦場と化すような事態は、言いようのない衝撃でした。

ただ、それだけではありません。2014年の事件は、地域研究者としての筆者にとって、ほろ苦い蹉跌となりました。今回のコラムでは、恥を忍んで、筆者個人の極私的な心象を描くことで、5年前のウクライナ危機を振り返ってみたいと思います。

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2013年11月の反政府デモの様子(撮影:服部倫卓)

情勢を完全に見誤る

5年前の事件について、筆者の最大の悔恨は、情勢を完全に見誤ったことです。

政変の発端は、2013年11月にヤヌコービチ・ウクライナ大統領がEUとの連合協定交渉の棚上げを発表したことでした。これに反発した民主野党や市民・学生らは、すぐさま首都キエフで抗議運動を開始。実は、筆者はちょうどその時キエフに滞在しており、デモの様子を視察しに行きました(上の写真参照)。ただ、その時は、「またいつものパフォーマンスが始まったな」という程度にしか感じなかったのです。

そう判断したのには、経験則がありました。2014年に体制側と反政府勢力の衝突の舞台となったのは、キエフ中心部の独立広場、通称「マイダン」です。この広場は、2000~2001年の「クチマなきウクライナ運動」の拠点となり、2004年にはここを震源とする市民の不正選挙への抗議が「オレンジ革命」に結実するなど、常に大衆を巻き込んだ政治闘争の舞台となってきました。

しかし、2014年の政変以前には、示威行動は基本的に非暴力的なものでした。ちなみに、各政治勢力が日当を支払ってデモ隊を動員しているといったことも指摘されていました。確かに、2010年にヤヌコービチが政権を奪取し、翌年に政敵のティモシェンコ女史を収監してしまった時には、民主野党の抗議デモも切迫感を帯びました。しかし、キエフでは政治的なデモンストレーションがあまりにも日常的なため、ティモシェンコ釈放を求めるテント村も、すっかり街の風景に溶け込んでいました。筆者などはキエフという街のことを、「ウクライナ政治のパフォーマンス・ステージ」と呼んでいたほどです。

現実には、年を越して2014年に入ると、キエフでの治安部隊とデモ隊の衝突が激しさを増していきます。百名以上の犠牲者を出した末に、2月22日にヤヌコービチ大統領が逃亡し、政権は崩壊しました。次に私がキエフを訪れたのは2014年5月でしたが、マイダン付近では反政府勢力のテント村がそのまま残され、革命テーマパークのような、何とも名状しがたい光景が広がっていました(冒頭の写真参照)。わずか半年ほどで、ウクライナはまったく違う国になってしまい、筆者は浦島太郎のような気持ちで、その場に立ち尽くしたのです。

現時点から振り返ると、2013年から2014年にかけてのウクライナが、従来のパターンを逸脱して暴力革命に転じたのには、2つの原因が考えられます。

第1に、ヤヌコービチ政権の腐敗と専横が、あまりにも甚だしかったことです。「何としてもこの政権を倒さなければならない」、「この政権を倒すためならいかなる手段も正当化される」というのがマイダンの論理となりました。

第2に、ウクライナ国内の権力闘争に、ロシア・EU・米国という大国が関与・介入することで、言わばレバレッジがかかった格好となり、これにより危機が何倍にも増幅され国際化してしまったことです。

いずれにせよ、筆者としては、なまじウクライナの政治を「知ってるつもり」で、2013年11月に現地でマンネリ気味のデモの様子も目撃していただけに、完全に情勢を見誤ることとなりました。

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今日のウクライナでは、2014年に犠牲になった百名あまりのデモ参加者が、「天上の百人」として崇められている(撮影:服部倫卓)

クリミアについての判断ミス

2014年のウクライナ政変は、ヤヌコービチ政権の崩壊に留まらず、ロシアのクリミア併合、そして東ウクライナ・ドンバス地方の紛争と続き、ウクライナ危機はグローバル危機へと転じていきました。

2014年2月末にクリミア情勢が緊迫した際に、筆者は痛恨のミスを犯しました。ラジオの電話インタビューを受け、MCから「どうもロシア軍がクリミアに展開しているようなのですが?」と話を向けられ、「クリミアのセバストーポリには元々ロシア海軍基地があるのです。その部隊がちょっと移動しただけなのではないですか」などと、的外れなコメントをしてしまいました。

以前この連載の、「忘れえぬクリミアへの旅」「クリミア併合とは何だったのか? 驚天動地の事件を再考する」で述べたとおり、私はウクライナ政変が起こる1年ちょっと前にクリミアを訪問し、当地ではロシア系住民が多数派ながら、ウクライナ国家への帰属意識はそれなりに根付いているとの感触を得ました。また、セバストーポリにロシア海軍が駐留はしているものの、ごく自然に同居している雰囲気でした。その後の情勢変化で、クリミア住民の気持ちが一気にロシアに傾き、またロシアが武力を背景に併合を強行するなどということは、まるで想像できなかったのです。

さすがに、クリミア問題で頓珍漢なコメントをしてしまったラジオ番組からは、二度と取材の依頼がありませんでした。この頃から、日本の論壇でウクライナ問題について発言している人は、一度もウクライナに行ったことのないような有識者が増えていったように思います。ウクライナ問題が、欧米露の介入するグローバル問題に転換してしまったことから、ウクライナ自体についての細かい話よりは、大国間政治の力学から語る方が、説得力を増したのです。筆者は、地域研究者として、ウクライナ固有の事情にこだわりたいのですけれど、そんなものはすべて吹き飛んでしまいました。

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2014年に失脚したヤヌコービチ大統領は、国から富を簒奪し、キエフ郊外にこのような豪華な私邸を建てた。なお、左下に見えるピアノは、スタインウェイ社から発売されたジョン・レノン限定モデルだが、ヤヌコービチは特にビートルズが好きなわけではなく、単に贅沢品を買い漁っていた由(撮影:服部倫卓)

敬愛するアーティストに叱られる

まったくの私事ですが、筆者は音楽好きで、特に山下達郎さんの熱心なファンです。ウクライナ危機が発生した2014年は、私の中で、達郎さんの「マニアックツアー」と重なり合っています。これは、あえてヒット曲を外し、普段はほとんどステージにかからない曲だけを演奏するという、コアなファンにはたまらないコンサートツアーでした。問題は、そこで披露された「WAR SONG」という曲です。

達郎さんは、「WAR SONG」を演奏する前、MCでこう述べていました。「ウクライナの問題など、世界は相変わらず平和に程遠いが、それにしてもウクライナ問題が報道される際に、『親ロシア派』という紋切型の言葉が繰り返されるだけで、誰もその本質を説明してくれない」

達郎さんも、観客席にロシア・ウクライナ問題の専門家が座っているなどとは、思っていなかったでしょう。筆者自身、まさか自分の敬愛するアーティストから、ロシア・ウクライナ情報について駄目出しをされるとは思いませんでした。しかも、私はマニアックツアーに魅了され、結局4度も通い詰めたため、4回も同じ苦言を聞くはめになりました。

筆者も、ウクライナ危機が発生した際には、何度かメディア出演の機会があり、なるべく「親ロシア派」といったステレオタイプは避け、そこに潜む複雑なニュアンスを伝えようと努力しました。しかし、テレビなどでは、「持ち時間20秒でドンバス紛争を解説してください」といった注文をされることが多く、そうなるとどうしても「親ロシア派」といった決まり文句に頼ってしまいます。

ところで、ウクライナ危機が起きた時、筆者が悔やんだもう一つの点は、「ああ、あの本が出ていたらなあ」ということでした。実は、筆者を含め、日本のウクライナ研究者たちの共著として、入門的なウクライナ本を出版する企画が、2011年頃から進んでいたのです。筆者はウクライナの経済・政治・外交などについての原稿を提出し、あとは出版を待つだけでした。ところが、他の執筆者による原稿が揃わずにずるずると時間が経ち、そうこうするうちに2014年のウクライナ政変を迎えてしまったのです。

今から振り返ると、政変前の筆者の認識には色々と甘いところもあり、実際にその本が出ていたら、その後に発生した危機との対比で、少々恥ずかしいことになっていたかもしれません。しかし、ウクライナがかつてない注目を浴びたまさにその時に、簡単に手に取れるウクライナ入門書が本邦に存在しなかったことについては、関係者の一人として責任を感じています。

なお、くだんの出版企画は、曲折を経て、結局私が編者を引き受けることになり、昨年ようやく、服部倫卓・原田義也(編著)『ウクライナを知るための65章』として日の目を見ました。

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クリミア併合の翌日だった日露投資フォーラム(撮影:服部倫卓)

ウクライナに敵視される

ウクライナ危機に関連して、個人的に、もう一つトラウマとなっている出来事があります。2014年3月18日、プーチン・ロシア大統領はウクライナ領クリミアの併合を正当化する大演説を行い、その上で編入条約に調印しました。私はネットでそれをライブ視聴していて、血の気が引いていくのを感じていました。「これはもう駄目かもしれないな」、と。

というのも、翌19日、東京で「日露投資フォーラム」という大規模な経済イベントが予定されており、私の所属団体は事務局として開催準備に追われていたのです。よりによってその前日に、ロシアがクリミア併合を強行するとは。これはもうビジネス会議どころではないなと、個人的には中止も覚悟したのです。

結局、当会職員の懸命の努力もあり、会議自体は予定どおり開催することができました。しかし、当日朝、会場のホテル・ニューオータニに出向いてみると、黄・青の国旗を掲げたウクライナ人数名が、日露投資フォーラム開催反対を叫ぶシュプレヒコールをあげていました。ロシアのような侵略国家と経済協力を行うのは、けしからんというわけです。嘆かわしいことに、これ以降、ビジネスイベントが一種の踏み絵のようになってしまい、会議を組織する側の我々は板挟みになっていきます。

2014年以降、ウクライナは、敵と味方をはっきりと区別するようになりました。駐日ウクライナ大使館は、我々の団体が日露投資フォーラムの開催に尽力したことで、我々を親ロシア=反ウクライナ団体と判断したらしく、我々との関係を一切断ち切りました。実に愚かなことだと思います。確かに、我々の事業対象国のうち、ロシアが規模的に一番大きいので、当会がロシア事業を重視しているのは事実です。しかし、我々は日本とウクライナとの関係拡大にも惜しみない努力をする用意があるのです。

こんな当たり前のことも理解できずに、「敵の味方は敵」といった単細胞な発想しかできないウクライナに未来があるのか、甚だ心配になります。私自身はロシアおよびウクライナと等距離の関係を保ちたいのですが、ウクライナがどんどん離れて行ってしまうのを感じます。