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ベラルーシはロシアの従属国になるのか? 甦るゾンビ条約

迷宮ロシアをさまよう
ロシア南西部ソチで開かれた会合で握手するロシアのプーチン大統領とベラルーシのルカシェンコ氏=2020年9月14日、ロイター

EUの制裁は効果薄か

この連載でこのところずっと取り上げているベラルーシの関連では、10月2日にEUがようやく対ベラルーシ制裁導入で合意するという動きがありました。しかし、これはベラルーシの政府高官40名ほどを対象にEU圏への入国や欧州の銀行システムへのアクセスを禁止するものにすぎず、ベラルーシ現体制にとっての痛手はそれほど大きくないでしょう。しかも、悪の親玉であるルカシェンコは、制裁リストには掲載されていません。

その間にも、ロシアの後ろ盾を得たルカシェンコは、権力の立て直しを着々と進めています。反ルカシェンコ派の市民たちは政権交代を諦めておらず、大規模なデモを繰り返しているものの、恥という言葉を知らない独裁者が相手では、平和的な抗議行動はあまりに無力です。

さて、ここ2ヵ月ほどのベラルーシ情勢で、大きな山場となったのが、9月14日にルカシェンコがロシアを訪問し、プーチン・ロシア大統領と会談したことでした。詳細は明らかになっていないものの、会談で最重要議題となったのは、ロシアとベラルーシの国家統合の枠組みである「連合国家」の問題だったはずです。

しかし、連合国家というのは捉えどころのない代物であり、我が国はもちろん、ロシア本国でも正しく理解されていない傾向があるように感じます。そこで今回のコラムでは、今後のベラルーシ情勢だけでなく、ロシアという国のありようにも大きくかかわってくる連合国家の問題を取り上げます。

エリツィンの贖罪

実は、ロシアの最高権力が、初代大統領のエリツィンから、今のプーチンへと移行するにあたって、隣国ベラルーシとの関係は、重要なテーマでした。

もともと、旧ソ連の新興独立国の中でも、ロシアとの再統合に最も前向きだったのが、ルカシェンコ政権のベラルーシです。両国は、1996年に「共同体」を、1997年に「連合」を形成します。そして、それをさらに進めて、1999年12月8日に「連合国家」を創設する条約に調印しました。

この12月8日という日付に、ご注目ください。これは、1991年12月8日にエリツィン・ロシア共和国大統領らがソ連邦の解体を決める「ベロベージ条約」を結んだ因縁の日です。エリツィンはゴルバチョフ・ソ連大統領との権力闘争に勝利するために連邦解体という大胆な策を打ったわけですが、その後、偉大なるソ連邦を壊してしまった張本人として、国民に白眼視されるようになりました。その負い目があるので、エリツィンという政治家は常に、旧ソ連諸国の再統合を旗印に掲げざるをえませんでした。その際の都合の良いパートナーが、常にロシアになびいてくるルカシェンコのベラルーシだったわけです。したがって、1999年12月8日の連合国家創設条約には、逆ベロベージ条約を結んで国民の歓心を買おうという思惑が込められていました。

その一方で、構想段階では、この条約にもう一つの役割も想定されていました。1990年代にロシアの体制派エリートたちは、病弱で支持率も低いエリツィンの政権を支えるのに、四苦八苦していました。当時クレムリンでは、ベラルーシとの国家統合をエリツィン政権の延命に利用するという案も検討していたといいます(エリツィンが連合国家の大統領に就任し直すという形で)。対するルカシェンコの側にも、ロシア・ベラルーシの統一国家を作り、自らがクレムリンの玉座に収まりたいという野望(!)がありました。こうして、双方の政治的思惑が交錯し、両国は当初かなり本格的な国家統合条約を起草しようとしていたのです。

プーチンが封印した連合国家

しかし、条約案を練っていたさなかの1999年8月に、プーチンがロシア首相に就任し、エリツィンの頼りがいのある後継者が登場したことで、状況が一変しました。ロシア側はむしろ、自国の国家体制を不安定化させかねない対ベラルーシ統合にブレーキをかけ、条約案を骨抜きにしました。その作業の陣頭指揮をとったのが、他ならぬプーチン首相です。

連合国家創設条約は、エリツィンとルカシェンコの手により、予定どおり1999年12月8日に調印されました。しかし、もはやロシアにとっては、ベラルーシ・カードを権謀術数の手段として使う必要はなくなっていました。確かに、条約には連合国家の憲法、議会、単一通貨等を導入するという一見大胆な規定はあります。しかし、それらはあくまでも、両国が合意し、準備が整った場合の次なる段階として想定されているものにすぎず、この条約自体によって統合が進展するというものではありませんでした。

ちなみに、ルカシェンコ大統領は1999年12月8日の条約調印時に、エリツィン大統領から一つの約束を取り付けていました。エリツィンの任期中に、さらにもう1本の条約を結ぶというものでした。これについては、条約調印後の記者会見でルカシェンコが明らかにし、同席したエリツィンも同意を求められ「ダー(はい)」と答えていました。あくまでも大胆な統合を望むルカシェンコとしては、巻き返しに向け望みを繋いだ形です。しかし、それから23日後の大晦日にエリツィンは辞任し、ルカシェンコが追加条約を結ぶ相手はいなくなってしまいました。

これ以降、ロシア・ベラルーシ関係の主導権は、プーチン大統領代行(2000年5月7日からは正式に大統領)ががっちりと握ることになりました。現時点からは想像もできませんが、当時プーチンは開明的な改革者として登場しました。ロシアは外部の問題にはいたずらに介入せず、自国の近代化という課題に集中すべきだと主張していました。さすがに、同盟国のベラルーシを切り捨てるというところまでは行きませんでしたが、両国の統合の土台は健全な経済関係であるというのが当時のプーチンの持論であり、市場経済化の遅れたベラルーシを、ロシアが改革指導するような構図となりました。

ルカシェンコにとっては、ロシア政界進出の夢は絶たれる、ロシアから以前ほど寛大な経済支援は期待できない、むしろ経済改革の宿題を課せられると、悪夢のような展開です。これによりルカシェンコの対ロシア統合熱は低下し、ベラルーシという一国一城の主としての地位を守り抜くという路線に転じていきました。

連合国家創設条約から10周年を祝う記念切手とメダル。ボロジン国家書記(後述)からいただいたもの(撮影:服部倫卓)

ボロジン国家書記がやって来た

当時のプーチンがいかに連合国家を軽視し、ベラルーシとの国家統合に後ろ向きであったかを物語る、傍証があります。プーチンが、ロシア・ベラルーシ連合国家の「国家書記」、つまり事務局長として、ボロジンという人物を推したことです。ボロジンというのは、エリツィン時代に大統領総務局長として政権の金庫番を務め、汚職疑惑で国際的なスキャンダルを巻き起こした人物でした。

もしもプーチンがベラルーシとの統合を真面目にやるつもりなら、このような人材は充てないでしょう。現に、国家書記に就任した後の2001年には、ブッシュ大統領の就任式出席のためにアメリカを訪れたボロジンが、資金洗浄のかどで身柄を拘束されるという事件も起きたりしています。

もともと、プーチンをサンクトペテルブルグから中央に引っ張ってきた一人が、ボロジンでした。1996年8月から1997年3月まで、プーチンはボロジン大統領総務局長の下で、副局長として働きました。そのプーチンが大統領代行に就任した直後に、ボロジンを総務局長から外し、ロシア・ベラルーシ連合国家の国家書記に据えたのは、いかにもという人事です。当時開明的な路線を打ち出そうとしていたプーチンにとって、スキャンダラスなボロジンは邪魔な存在だったはずです。ただ、プーチンにとっては、自分を出世させてくれた元上司という恩義もあります。そこで、連合国家の国家書記という、名前だけは豪華そうで、実は中味のない閑職に、ボロジンを据えたのでしょう。

実は、2010年に、訪日したボロジン国家書記が筆者の勤務先を訪問してきて、筆者が対応に当たったことがあります。その時のボロジン国家書記の言動からだけでも、彼がクレムリンの金庫番を務めたエリツィン時代がどんなに破天荒なものであったか、そしてロシア・ベラルーシ連合国家がいかに空っぽなハリボテにすぎないのか、良く分かりました。

ボロジン氏は弊会に到着すると、挨拶もそこそこに、筆者にクレムリンの写真集を差し出し、自慢話を始めました。「これ、クレムリンの改修前。それでこれが改修後。全部私がやった。この写真もそう。これが改修前。これが改修後。全部私がやった」。一事が万事、この調子でした。ちなみに、国際的に物議をかもしたボロジン氏の汚職事件は、このクレムリンの改修工事にかかわるものだったのですが。

問題は、ボロジン国家書記の一行が日本に何をしに来たかですが、たぶんヒマだから来たのでしょう。でも一応、ロシア・ベラルーシの共同プロジェクトに日本が技術を提供して協力してほしいといった呼びかけはしていました。ただ、そのレベルが、「ロシアとベラルーシで世界最高水準のスーパーコンピュータを開発している。これに日本が協力してほしい。それから、シベリア鉄道~ベラルーシ~ヨーロッパの大輸送回廊を構築しようとしている。これにも日本に協力してほしい」といった、子供じみたものでした。

当方が、「具体的なビジネスプランがなければ検討のしようがない。そもそもそれらプロジェクトを実施するうえで連合国家の書記局は何らかの権限を有しているのか? 過去にもロシア・ベラルーシ間の共同プロジェクトは失敗してきたはずだが…」といった点を述べると、ボロジン氏は、「何を言っているんだ。ロシアはありとあらゆる地下資源を豊富に有し、外貨準備も世界有数の国なのだ。それこそがプロジェクトがうまく行く保証なのだ」といったことを述べ、議論がかみ合いません。さらに、「このクレムリンの写真を見ろ。こんなに豪華な金ぴかの場所は日本にはあるのか? 皇居だって? 私は皇居にも行ったが、全然こんなんじゃなかったぞ。アハハハハ」といった調子でした。

このように、筆者に強烈なインパクトを残したボロジン氏は、2011年に連合国家の国家書記から退任し、「ユーラシア実業同盟」という経済団体のトップに収まりました。現在は、元KGBの同僚としてプーチンにより近いラポタという人物が連合国家の国家書記を務めています。

豪放磊落だったボロジン国家書記(撮影:服部倫卓)

ロシア側の方針転換で甦った条約

1999年12月に連合国家創設条約が締結されたあと、その後長らく、ロシア・ベラルーシ間で新たな二国間統合スキームが打ち出されることはありませんでした。条約がしかるべく肉付けされ両国の国家・経済統合が深化するということはありませんでしたが、かといって条約が破棄されることもなく、惰性の状態が続きました。最近まで、連合国家が話題に上ることは多くなく、盟主のロシアもユーラシア経済連合などの多国間統合に注力していました。

そうした中、2018年暮れになって、ロシア政府は突如として、連合国家創設条約の最大限の履行をベラルーシに求めるようになります。上述のとおり、1999年の条約は、プーチン主導でむしろロシア側が骨抜きにした経緯があります。確かに、将来的に両国が合意すれば、連合国家の憲法、議会、単一通貨等を導入する可能性があるとされてはいましたが、現実には両国においてその機は熟していませんでした。にもかかわらず、ロシアが唐突に、「ベラルーシが最大限の統合に応じなければ、もう支援はしない」という立場を示したため、これはロシアへの編入をベラルーシに迫る「最後通牒」だとして、物議を醸しました。

長らくロシア側は連合国家という枠組みを放置していたわけですが、おそらくこの時期に、連合国家を再活用するという方針への転換が政権内部であったと考えていいでしょう。その動機について、筆者は次のように推察しています。

第1に、ロシア自身が低成長化し、財源も決して潤沢ではない中で、2018年5月に発足した第4期プーチン政権では、「ナショナルプロジェクト」を策定し、ロシア経済・社会の積年の課題に取り組むこととなりました。ロシアが苦心して財源を捻出している中で、同盟国への支援についても見る目が厳しくなり、「タダ乗りは許さない」という姿勢に転じたものと考えられます。ベラルーシへの支援を行うにしても、統合と引き換えにというスタンスが強まったのではないでしょうか。

第2に、ロシアを取り巻く国際環境の変化があります。EUおよびNATOの東方拡大、EUによる東方パートナーシップ、そして2014年のウクライナ政変と続き、ロシアとしては「これ以上、自分たちの勢力圏が掘り崩され、NATOがロシアのすぐ西隣にまで迫るような事態は何としても阻止しなければならない」という認識に至ったのでしょう。そこで、20年前にはあえて死産とした連合国家に、新たに命を吹き込んで、ロシアにとっての「核心的利益」であるベラルーシをロシア圏に固定するために活用しようとしたのだと見られます。

ベラルーシ・ロシア双方とも、両国間で積もり積もった対立の解決のために、関係仕切り直しが必要という点では一致しました。折しも、2019年12月8日に連合国家創設条約調印から20周年の節目を迎えるということで、この日の首脳会談で新たな統合文書に調印することで両国は合意し、その準備に取り掛かりました。具体的には、統合を深化させるための31項目にわたる「工程表」に調印する予定でした。しかし、両国間で折り合いの付かない項目がいくつか残り、結局調印は見送られました。ロシア側は、ベラルーシが工程表を全面的に受け入れなければベラルーシへの優遇措置を再開しないというかたくなな姿勢を崩しませんでした。

2020年の大統領選で、ルカシェンコがかつてない苦戦を余儀なくされた遠因は、このようにロシアからの圧迫を受けて経済的に追い詰められたことにあります。2000年代以降のルカシェンコは、ベラルーシの主権を一部でもロシアに引き渡すことには、頑として応じようとしませんでした。しかし、今般窮地に立たされたことで、ロシアからのバックアップが得られるのなら、厳しい条件でも呑もうとしているようにも見えます。ベラルーシはロシアに従属する保護国、半独立国に後退してしまうのか、今まさに水面下で熾烈な駆け引きが繰り広げられているはずです。