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ロシア語とベラルーシ語 反ルカシェンコ派の興味深い立ち位置

迷宮ロシアをさまよう 更新日: 公開日:
ベラルーシ語演劇の殿堂「ヤンカ・クパーラ劇場」。このほど創立100周年を迎えたが、今般の民主化運動で市民寄りの姿勢を示し、政権当局から圧迫を受けている(撮影:服部倫卓)

今回は言語事情に着目

ベラルーシでは、暴力を駆使して権力の座に居座るルカシェンコと、圧政への抗議を粘り強く続ける民主派の市民が対峙し合い、混乱長期化の様相を呈してきました。914日にルカシェンコがロシアを訪問し、プーチン大統領との会談を行いましたが、それによって情勢が急激に変化するということもありませんでした。

ですので、今回も短期的な情勢分析ではなく、ベラルーシを読み解くための基礎的なところを解説したいと思います。この連載ではベラルーシ問題を、デジタル社会、ウクライナとの比較、農村・農業、国内の地域構造など、様々な観点から検討してきました。今回は、言語事情からベラルーシを読み解こうと思います。

国民の熱気に水を差すような調査結果

歴史を振り返ると、ベラルーシ語の話者にとって、同じ東スラブ語であるロシア語は習得しやすいということもあり、ソ連時代に多くのベラルーシ人が、よりステータスの高かったロシア語に移行しました。ベラルーシ社会の場合は、近代化=ロシア語化という面がありました。ベラルーシは、ソ連全体の中で、最もロシア語化が進んだ民族共和国になりました。

1991年の独立前後の時期には、ベラルーシ語化政策が推進され、一定の効果を挙げました。しかし、ロシア語の復権を公約の一つに掲げて1994年に大統領に就任したルカシェンコが、それにブレーキをかけます。それから四半世紀の月日が流れ、ベラルーシ社会では一世代がほぼ入れ替わりましたが、民族語であるベラルーシ語が全面的に開花するには至っていません。

実は、この国の言語事情に関し、つい先日、見逃せない出来事がありました。2019年に実施された国勢調査の結果概要をまとめた統計集が刊行されたのです。そこで数字として示されたベラルーシ語の境遇は、かなり厳しいものでした。反ルカシェンコ運動が広がり、国民・民族意識がかつてなく高揚しているところに、水を差すような調査結果が出てしまったわけです。

国勢調査は、ソ連時代から基本的に10年に一度実施されており、1991年暮れのベラルーシ独立以降も続けられています。日本の国勢調査にはないはずですが、ソ連~ベラルーシの国勢調査では、回答者の民族的属性と、言語に関する設問も設けられています。

言うまでもなく、ベラルーシには民族的なベラルーシ人だけでなく、その他の民族も暮らしています。「父はベラルーシ人、母はロシア人」などというケースも非常に多く、あくまでも本人の申告ベースということになりますが、2019年の民族構成は、ベラルーシ人84.9%、ロシア人7.5%、ポーランド人3.1%、ウクライナ人1.7%、ユダヤ人0.1%などとなっています。

ソ連時代からの伝統で、言語に関しては、回答者の「母語」を問うというのが基本になっています。下図は、過去数十年のベラルーシ語母語比率の推移をまとめたものです。青がベラルーシ国民全体、赤がそのうち民族的なベラルーシ人についてのデータです(当然、様々な民族を含む国民全体よりも、民族的なベラルーシ人に絞った方が、ベラルーシ語母語比率は高くなる)。これを見て分かるとおり、ソ連時代にはベラルーシ語母語比率は低下傾向にあったものの、独立を経て、1999年の調査では高まりを見せました。

ところが、ベラルーシ語母語比率は2009年にガクンと落ち込みます。そして、今回明らかになった2019年の調査では、10年前から減りはしなかったものの、上積みはごくわずかしかありませんでした。事前には、「今回の調査では、ベラルーシ語を母語に挙げる国民がかなり増えるはず」と期待を述べていた専門家もいただけに、ベラルーシ愛国者たちの落胆はいかばかりでしょうか。

国勢調査の複雑なニュアンス

ただし、ベラルーシの国勢調査には、色々と細かい注釈が必要です。ちょっと込み入った話になりますが、少々お付き合いください。

そもそも、ソ連の国勢調査では、①「何語を母語とみなすか」、②「(母語以外に)自由に操れる第2言語は何か」という設問になっていました(②が加わったのは1970年から)。この形式は、回答者がある言語を母語に挙げれば、その言語を自由に操れるということを暗黙の前提にしています。当然、ある言語についての①と②のデータを合計したら、その言語を操れる国民の総数が出るはずです。

1989年に実施されたソ連最後の国勢調査によれば、ベラルーシ共和国では、住民の65.6%がベラルーシ語を母語とし、(上図では省略しましたが)それ以外に12.0%が自由に操れる第2言語としてベラルーシ語を挙げていました。これをごく素直に受け取れば、計77.6%がベラルーシ語に堪能という解釈が可能でしょう。

これに対し、ベラルーシ独立後に初めて実施された1999年の国勢調査では、方式に若干の変化がありました。母語意識に関する設問と、実際の言語使用状況・能力に関する設問を、切り離したのです。つまり、ソ連時代同様に①「何語を母語とみなすか」を問いつつ、それとは別立てで、②「普段家庭で話す言語は何か」、③「それ以外に自由に操れる言語は何か」を問うたのです。この形式であるならば、ある言語を自由に操れる国民の総数を得るためには、その言語についての②と③の数値を合計すればいいはずです。

その結果、興味深い結果が得られました。1999年の調査では、通常家庭でベラルーシ語を話しているという国民は36.7%、(下図では省略しましたが)それ以外に自由にベラルーシ語を使えるという国民も5.9%しかいませんでした。国民の73.7%がベラルーシ語を母語としながら、実際にそれに堪能な者は42.6%止まりだという現実が浮かび上がったのです。そして、母語のパターンと同じく、通常家庭でベラルーシ語を話している国民の比率は2009年に落ち込み、2019年にもわずかしか回復しませんでした。

ソ連の人々が自民族の固有言語を「母語」と申告しても、必ずしもその言語に堪能であるとは限らないという現象は、一部の専門家の間では以前から注目されていました。ロシア語で母語を意味する「ロドノイ・ヤズィーク」という言葉の語感にも影響され、ほとんどの国民が自民族の言語を母語であると自動的に回答してしまう現象が生じたと指摘されています。ただ、それが国勢調査のレベルではっきり確認されたのは、1999年のベラルーシが最初だったでしょう。

ところが、筆者は1999年の国勢調査結果について、思わぬ評価に出会いました。ベラルーシ語の普及促進に取り組んでいる「ベラルーシ語協会」のトルソフ会長(当時)に以前インタビューしたところ、この調査結果は大勝利であったという、意外な答えが返ってきたのです。

トルソフ会長の言い分は、次のようなものでした。現状では国民が日常会話でロシア語を使ってしまうのは致し方ない。それよりも特筆すべきは母語指標だ。ベラルーシ語を母語に挙げる国民が拡大したことは、数世紀にわたって続いてきたロシア語化に歯止めがかかり、ベラルーシ語化の方向に転じたことを意味しており、国民がそれを欲していることが裏付けられた。国勢調査には国民全員が回答したのだから、その結果は、ロシア語の国家言語化を決めた1995年の国民投票(これについては後述)よりも重いはずだ、というのです。

ベラルーシ語協会は、ロシア語化を推進するルカシェンコ政権が、ロシア語の普及度を強調するために、あえて母語とは別に日常使用言語を回答させたのだと邪推していました。筆者自身は、政権の意図はともかく、ベラルーシの国勢調査の方式に特に問題があったとは思いません。国勢調査は実際の状態を調べるために実施するはずであり、現実から目を背けるかのようなベラルーシ語協会の姿勢には感心できません。

そして、10年後の2009年の国勢調査では、もう一つ大きな変化が生じました。言語に関し設けられた設問自体は、1999年の時と同じでした。しかし、2009年の調査では、母語を問う設問に、「幼少期に最初に習得した言語」という、注意書きが添えられたのです。これに関し、ベラルーシ語協会は案の定、「そんな余計な注釈は付けてくれるな。母語とは、あくまでもアイデンティティの問題である」と主張しましたが、当局には聞き入れられませんでした。

2009年にベラルーシ語を母語に挙げる回答者が大きく減少したのは(前掲の図参照)、この注意書きの効果で、「『母語』というのは、民族語のことかな?」などと誤解する人が減ったからだったのでしょう。くだんの注意書きは、2019年の調査でも踏襲されています。

なお、2019年の国勢調査では、過去2回の調査にはあった③「それ以外に自由に操れる言語は何か」という設問が、なくなっています。それゆえ、②と③を合計すれば出るはずの、ある言語を自由に操れる国民の総数を得ることが、不可能になってしまいました。これは理解に苦しむ変更です。

ベラルーシ政治と言語

さて、ここでベラルーシ独立から今日に至るまでの言語と政治の関係につき、改めて整理してみましょう。

ソ連末期の199010月、ベラルーシ共和国の言語法が採択され、ベラルーシ語が唯一の国家言語という扱いになりました。しかし、ベラルーシ語は将来性のない田舎の言葉だというステレオタイプが根強く、少なからぬ国民が1990年代前半のベラルーシ語化を、歓迎するというよりは、戸惑いをもって受け止めました。

この状況で、ロシア語復権の旗手という役回りを演じたのがルカシェンコでした。1994年に大統領に就任したルカシェンコは、かねてからの公約どおり、ロシア語にベラルーシ語と同等の国家言語という地位を与えることを、19955月の国民投票にかけます。その結果、投票参加者の実に83%が、その案に賛成しました(2020年の大統領選挙と違って、この頃はまだちゃんと民意を反映した数字でした)。もともと実生活において劣勢だったベラルーシ語が、「唯一の国家言語」という法律上の特権も失ったため、以降は再ロシア語化が進んでいきます。

ちなみに、ルカシェンコは、大統領就任直後に次のように公言したことがあります。「ベラルーシ語で話している人たちは、ベラルーシ語を話す以外に何もできない。というのも、ベラルーシ語で何か大事なことを表現するのは不可能だからだ。ベラルーシ語は貧弱な言葉である。世界に存在する偉大な言語は、ロシア語と英語の2つだけだ」。アフリカあたりならともかく、今日のヨーロッパで、国家元首が自国の民族語を「貧弱」と決め付ける国民国家は、ベラルーシくらいでしょう。

もっとも、ロシア語化を推進したルカシェンコ自身、正調ロシア語の使い手というわけではありません。確かに、彼は日頃からロシア語で通しています。しかし、田舎の出であるルカシェンコは、発音や言い回しなどにベラルーシ語的な要素が混じっています。ロシア語とベラルーシ語が無秩序に混じり合ったチャンポン言葉を「トラシャンカ」と呼びますが、ルカシェンコは正調ロシア語というよりもむしろトラシャンカの話者と理解すべきです。

当初は民族語をディスるばかりだったルカシェンコ大統領も、時代とともに、ベラルーシ語に歩み寄るようになりました。特に、20147月の独立記念日には久し振りにベラルーシ語で演説する場面もありました。しかし、それはちょうどロシアによるウクライナ領クリミアの併合とドンバス介入が起きた直後のことであり、ルカシェンコはご都合主義的にエスノナショナリズムのカードを切って、ロシアに予防線を張っただけだったと指摘されています。

当時は「ルカシェンコがマイルドなベラルーシ語化に舵を切るのではないか」といった憶測も生じたものの、結局のところ政策は現状維持のままでした。ルカシェンコは、ベラルーシ語に圧迫を加えたりはしないものの、かといって積極的に奨励もしないという立ち位置を維持し、今日に至ります。

一方、ルカシェンコ体制に敵対する民族派・民主派の間では、ベラルーシ語の使用頻度が高くなります。しかし、2020年の大統領選でルカシェンコに対抗しようとした主な活動家たちは、筆者の知る限り、皆ロシア語の話者です。チハノフスキー、その妻のチハノフスカヤ、ババリコ、ツェプカロらは、主にロシア語で国民に訴えかけていました。チハノフスカヤの地方遊説の様子を見ていると、冒頭の一節だけベラルーシ語で発言したりしていましたが、探り探り話しているような感じで、あまり流暢ではないなという印象でした。

もっとも、今日のベラルーシの現実を踏まえると、主にロシア語でコミュニケーションし、要所でベラルーシ語を織り交ぜるくらいが、丁度良いのです。もしも、かつて民族主義野党が失敗したように、徹頭徹尾ベラルーシ語で押し通そうとしたら、何やらカルト的な政治家と受け取られ、広い国民層に浸透することはできないでしょう。

そうした中で、興味深いのは、チハノフスカヤ陣営が今回の選挙キャンペーンで使用した「信じる・できる・勝利する」という有名なシンボルマークを、ベラルーシ語でデザインしたことです(下の画像参照)。この程度のシンプルなベラルーシ語であれば国民全員が共有できますし、シンボルである以上は、実用言語であるロシア語よりも、やはり民族語であるベラルーシ語が適しています。

89日以降の対立状況の中で、ルカシェンコ陣営やロシア・メディアが、「野党は再び強制的なベラルーシ語政策を実施しようとしている」といったデマを流し、庶民の不安感を煽ろうとしたこともありました。しかし、それによってベラルーシ社会が激しく動揺するといったことは、なかったと思います。

確かに、独立後30年近く経っても、民族語であるベラルーシ語は、愛国者たちが望むほどには、使用頻度が高まっていないかもしれません。ただ、見方を変えれば、ロシア語とベラルーシ語は自然に共存し、言語をめぐる過度な緊張状態などは生じていないということなのだと思います。

そして今日、ベラルーシの自由化を望む市民たちは、使用言語の分け隔てなく、ルカシェンコにノー(ロシア語ではニェット、ベラルーシ語ではニェー)を突き付けています。そのことの方が、筆者には尊いように思えます。