【為末大】一度ハードルをやめた、あの時 苦しい時は「自分の心を観察する」
2人目は、陸上400メートルハードルで2度の世界選手権銅メダルに輝き、3大会連続で五輪に出場、いまだ破られない日本記録を持つ為末大さん(42)。競技と向き合う自分の心を深く考察して「走る哲学者」との異名をとる為末さんは、ピンチをチャンスに変えようと訴えています。延期になった東京五輪を目指す選手たちへの思いも聞きました。(聞き手・構成 渡辺志帆)
連載「突破する力」はこちらでお読みいただけます。
――新型コロナで、自身の現在の活動にどんな影響が出ましたか。
一般社団法人と株式会社の二つを手がけています。社団法人では、アジアの選手たちに陸上競技の指導をしていますが、3月に選手たちを日本に招く合同合宿はキャンセルになりました。私がアジア各国に出向くこともあるのですが、それも今年はできないでしょう。会社では、スポーツ施設やシェアオフィスの運営、ランニング教室事業をしています。対面で行うものが多いので、コロナの拡大が大変だった時期は一斉に中止になり、ようやく再開し始めたところです。年間100件近くある私個人の講演活動も、一時期すべて中止になりました。スポーツ関連の活動が全部止まる中で、アジアの選手にオンラインでの指導を少しずつ始めました。コロナ禍がなければ始めなかったことです。
――YouTubeチャンネル「為末大学」を始めたのも3月でしたね。
コロナ禍で一番多かったのが、部活動をしている子どもたちの「練習ができない」「何を練習していいか分からない」という相談でした。その頃、5歳の息子がゲームをしながら、やり方を説明した動画を音声検索で探し出して見ていたんです。それを見た時に、もしかしたら将来は、スリランカの片田舎から動画を検索できるスマホ一つで五輪を目指すやつが出てくるんじゃないかと思ったんです。同時接続で時空を超えるというアイデアが瞬間的に頭に浮かんで、そういう若者の武器になるのは何だろう、とイメージして動画を配信しています。始めたら、だんだん現役時代の気持ちが出てきて、今もおおむね1日1本のペースで配信を続けています。
――新しいことをどんどん始めているんですね。困難を乗り越える心の持ちようを教えてください。
まず考えなくてはいけないのは、コロナのせいで限定的にそうなっているのか、そうあるべきだったものがコロナを契機に一気に進んだのか、という点です。後者であれば、もう戻れないし、そっちに行かざるを得ません。
――具体的にはどういうことですか。
たとえば、スポーツの指導が本当に全部、対面でなければいけないかというと、必ずしもそうではありません。予習・復習なんて私たちの頃は本を読んでやりましたが、動画でもいいと思います。選手の動きを見ながら、すぐにフィードバックするのは現場にいなければ難しいけれど、選手が質問形式で行うコーチングはオンラインでできると考えます。
グローバル化の流れはなくならないので、コロナが終息すれば人々は再び旅行し始めるでしょう。ですが、テクノロジーを介して非効率だったものを効率化する動きは止まらないだろうと思うわけです。ですから、なるべく後者の本質的な変化に着目していくことが大事ですし、日本においては、遅れていたものを一気に追いつかせるチャンスと捉えている人が多いと思います。
――日々の生活で、常にそういう視点を持っているんですか。
すっかり変わって、それきりになるものは何か。それをずっと考えていますね。日本のスポーツって、現場の指導力がとても高いのに、データを残すこととテクノロジーを活用することが苦手というのが私の見立てです。スポーツ以外の業界にも通じます。先輩が後輩をあの手この手でうまく育てていくことには卓越しているが、全体のデータを取って合理的なしくみに変えていくことは苦手な感じ。今はそれを改善するチャンスだと考えています。
――8年前の引退直後は、「ビジネスを通してアスリートや地域に貢献したい」と話していました。夢はどう進展しましたか。
夢のビジョンがクリアになりました。コロナの影響で事業がすべて止まり、暇になって、これは大変だと感じたとき、「こうなったら自分が本当にやりたいこと、強みを生かせることをやらないとダメだ」と思ったんです。そう考えたときに、私は結局、競技者を応援したいんだと思い至りました。それまでは、大まかに「スポーツをビジネスにしたい」という感じでしたが、今はスポーツを見る人ではなく、スポーツをしたり、チャレンジしたりする人を応援したいと思っています。正直、ビジネスはどうでもよくて、夢の実現に一番いい手段を選びたい。そこはとてもクリアになりました。
――東京五輪が延期になりました。3度五輪に出場した経験から、選手たちの苦労も分かるのではないですか。
私は現役時代に試合がなくなったことはないので想像しかできませんが、選手たちは本当に大変だな、彼らのために何かできないかな、と思います。それもあって動画配信を始めたりしました。選手たちは、プレッシャーも大きいし、体の疲労も大きい。たとえるなら、3分間しか潜れない人が2分20秒潜って、「あと40秒」と言われたからなんとか我慢する気になっているのに、「もう1回3分」と言われた感じではないでしょうか。「また1年あのプレッシャーの中でやるのか」「もう顔をつけてられないよ」という感じではないかと思っています。
――困難にぶつかったときの為末さんの「突破哲学」を教えてください。
困難にぶつかっている状況にあると、まず本当にぶつかっている問題は何かを考えます。たとえば、陸上で伸び悩んでいて、100メートルで最後のストレートが伸びないとします。どうやったら最後の30メートルのスピードを維持できるのか、そこが突破できずに悩んでいるときは、そもそもの問題設定は合っているのかを考えます。もしかしたら、最初の非効率さが最後に表れているだけで、問題は最初にあるんじゃないか、というふうに。
そういうことをいろいろ試しても解決しないこともあると思います。そういう押してダメな時は、引いてみます。ずっとアプローチするだけでなく、一度休止してみて客観的になってみます。現実が変えられるなら変え、だめなら自分の見方を変えます。長期戦だから急いでも仕方がないと自分に思い込ませるとか。そうしたことを柔軟にやっていくしかないと思うんです。最後の最後、一番大事なのは心です。突破したいと思う心が壊れる選手をたくさん見てきたので、これを壊さないのが大前提です。
――現役時代にあえてハードルを1年以上跳びませんでしたね。それも自分の心と向き合った結果ですか。
30歳での北京五輪出場を目指していたんですが、20代後半で、このままでは持たないと思ったので一度跳ぶのをやめました。体は壊れても治りますが、心は余裕がなくなってしまうと持ちません。そのときどきで、自分の心を観察しながら、どういう見方でいけば自分の心がみずみずしいか、観察しながらやっていく感じでした。気になるのは、現役の選手たちが周囲の期待に応えようとするあまり、自分のことを顧みなくなっていないかという点です。東京五輪が終わりじゃないし、その先もあるので、その後も競技人生が続いていくようながんばりであってほしいですね。燃え尽きてしまわないように。
――とことんアスリートの味方ですね。東京五輪の代表権を「一度取り消した方がいい」という発言も、現役選手には言いにくい言葉です。
サンドバッグも世の中に必要じゃないですか。表だって立つ人間と「防風林」があるだけでも違うかなと思います。何にしても競技人生は短いので、それをまっとうしてほしいと思います。
――為末さんの将来の大きな目標は何ですか。
とにかく人間を理解したいという欲求が、非常に鮮明になってきました。スポーツほど人間が出るものはないので、スポーツを通じて人間を理解したいんです。それによって人間の社会の可能性を開きたいなという思いがあります。社会の可能性を制限している一番大きなものは、偏見だと思うんです。偏見を持つ側も、持たれる側も両方が可能性を狭めて、本来の力を発揮できません。偏見を取り払うには、とにかく多様性や意外なものとのつながりが大切になると思います。アジアの選手たちをネットワーク化する社団法人の活動でも、彼らが同じ釜の飯を食べながら成長していく過程が、それにあたると考えています。「世界平和」は言いすぎですが、スポーツを通じて偏見をなくし、人をつなげていくということをやりたいですね。
■9月6日(日)発行の朝日新聞朝刊別刷り「GLOBE」にもインタビュー記事を掲載します。