前編「バレーボールが熱いタイ 新天地求めVリーグ選手が挑んだ」はこちら
タイの首都バンコクの都心部から車で40分、地元客でにぎわう下町の老舗デパート「ザ・モール・バンカピ」。フードコートや映画館が入る4階フロアを訪れた。チケット代100バーツ(約330円)を払って入ると、そこは屋内バレーコート。タイのプロリーグ専用だ。
2020年2月29日昼。新型コロナウイルスへの感染予防として、観客席の入り口にはアルコール消毒液が置かれていた。試合は、土日は正午、水曜は午前9時から始まり、1日4試合ある。
「外国助っ人」として、「アジアGSサムットサーコーン」に加わった元Vリーグの日本人選手、柳川大知(29)と池田龍之介(29)。アジアGSは第一節こそ勝ち残ったが、第二節は序盤から2連敗と苦戦していた。上位4チームで争う最終節に残れるか。これ以上の負けが許されない状況だった。
黒を基調にしたユニフォームを着たアジアGSの選手たち。大学生が中心の若いチームだ。練習をすませ、タイ式のあいさつで両手を合わせた後、試合は正午から始まった。平日の昼なので、客足は多くはなかった。
この日、柳川は控え、池田はスタメンで出場した。池田のポジションは、コート左サイドからスパイクを狙うウィングスパイカーだ。
幼少期からエリート街道 引退後にタイへ
池田龍之介は、鹿児島のバレーボール一家に生まれた。父は少年団のバレー指導者で、母と2人の姉、兄、龍之介、弟の7人家族。全員にバレー経験がある。
弟の池田幸太(23)は、日本のVリーグ「VC長野トライデンツ」に所属する現役選手だ。チームのホームページで、「バレーボールを始めたきっかけ」の問いに、幸太は「兄の影響」と答えている。
小中高とバレーを続けた池田龍之介は以前、タイに来たことがある。鹿児島商業高校3年で、高校選抜に選ばれた時のことだ。選抜は全国から12人。将来を期待された若いエリート選手たちの集まりだ。その海外遠征でタイを訪れ、練習試合に参加した。
池田は進学した愛知学院大でも活躍し、選抜大会で個人のスパイク賞に。その後は、女子チームのコーチを経て選手に戻ると、Vリーグ2部でも新人賞を取った。Vリーグは、大分とつくばでプレーした。そして一度、現役を引退している。
物心がつくまえからバレーをやってきた。「やらされている」という思いも強く、選手としてプレーを続ける熱は冷めていた。
引退後は、故郷の鹿児島に戻り、デイケアサービスで介護の仕事をしていた。バレーは月に1~2回、バレー好きの社会人が集まる9人制の試合で、趣味のように続けていた。
そんななか、かつて「つくば」のチームメートで、タイで1年目を終えた柳川から、電話で「池田のポジションがチームには必要。タイに来ないか」と誘われた。
一度は引退した身。海外志向もまったくなかった。だが、柳川の誘いに、いつかバレー指導者になりたいという将来の夢がくすぐられた。海外での経験が役に立つかもしれない。柳川と合流して、タイで現役復帰することを決めた。
池田は、日本では小中高とトップレベルで活躍してきた。勝ち抜くためのバレーの練習には、体罰指導がつきものだった。「自分も以前は容認派だった」と打ち明ける。今の自分があるのは、かつての指導があったから。体罰指導を否定することは、自分の過去を否定することにもつながる。「厳しい指導のほうが、選手も楽で覚えが早い」とも思った。
だが、タイで柳川と再会し、その考えを改めるようになった。体罰は、指導者の能力がないだけではないか、と。
エリート選手として王道を歩んできた池田と、柳川の経歴は対照的だった。
柳川は中学で「バスケ部がないから」と、バレーを始めた。高校、大学でも続けたが、バレーは最優先ではなかった。Vリーグ選手になれるとも当初、想像していなかった。体罰指導とも無縁だ。
ただ、高いレベルや環境を求め、周囲からも吸収することで、意識の高い選手に成長していった。池田は、誕生日が1日違いの柳川と、つくばやタイで同じコートに立ったのをみて、こう思った。「結局は同じ環境にいる。誰かが強制しなくても、本人の意識次第で選手は変わる。その意識づけを後押しするのが、指導者の役目なのかもしれない」
池田は柳川に誘われる形でコートに戻ってきた。2人でモンゴルのリーグで短期間プレーした後、19年末からタイに拠点を移した。
それから2カ月。最終節への勝ち残りを争う試合にスタメン出場した池田は、攻守にわたって活躍した。
1セット目を22-25で惜しくも落としたが、2セット目、3セット目と、池田のスパイクで流れを引き寄せて、連取した。
タイの選手たちとは、点を奪う度に輪になって喜びを爆発させた。
言葉の壁、起用法の違い すれ違う2人
一方、タイで2年目の柳川は、コート外の片隅で試合を静かに見ていた。
前シーズンに比べて出場機会が減っていた。中学以来のポジションでセンター位置の「ミドルブロッカー」では、出たり出なかったり。また、攻撃性の高い「オポジット」にポジションを変えても、スタメンで出場したのは1試合だけだった。
控えで、声のかからない日々が続いた。
前シーズンは、ミスから途中で選手交代されることはあった。ただ、今シーズンは、そもそも試合に出してもらえない日々が続いていた。
監督は取材に「柳川の能力は問題ない。ただ、もっとコミュニケーションを密にとってほしい」と答えた。
これに柳川は「チームメートとは仲良くなり、ふざけあったりはできるが、バレーの細かい戦術まで話し合うのは難しい」と吐露した。
4~5年前から、男女ともに1チームあたり2人までの「外国助っ人枠」を設けたタイのバレーリーグ。2019年―20年の今季、女子はブルガリアやキューバ、中国の元代表、男子はスリランカやパキスタン、ブラジルなどから選手が参加している。
外国人選手の受け入れに、どう対応しているのか。
女子リーグのトップクラスで、今季、中国人選手2人を招いた「シュプリーム」。このチームの中心選手の1人は、14年に中国代表に選ばれ、15年にW杯優勝にも貢献した張暁雅(ちょうぎょうが、27)だ。張らのために、チームは中国語の通訳スタッフを用意した。
張は「このチームは、裏方のサポート態勢も、とてもプロフェッショナルだ。意思疎通に問題はない。若手選手のディフェンスの能力が高く、私自身のレベルアップにも役立っている」と取材に答えた。
チームマネジャーのタナディットさん(37)によると、女子の地元選手の給料は、男子と比べて10倍ほど。外国人選手なら、3000ドル~1万ドルと高額だ。「タイのバレーは、女子人気が引っ張っているからだ」と説明した。
一方、柳川と池田が所属した男子のアジアGSは、大学生が中心のチーム。2人の日本人選手に通訳をつける余裕はない。柳川は今シーズン途中から、日本語とタイ語ができる知人に、ボランティアで通訳として、ミーティングや試合に入ってもらうよう頼んだ。
池田は試合で、その通訳を介してコーチの指示を聞くことができた。
ただ、問題は言葉の違いだけではなかった。
「信用されていないのかなと思う。1個のミスでコートから出されることもある。なぜ代えられているのか、自分でもわからない」
チームの起用方法に、不信感をぬぐえなかった。
日本では出場メンバーを固定して、チーム力を上げようとする。ただ、アジアGSは試合中に何度も選手交代をした。池田も柳川も、それに不満をためていた。野球やサッカーとは違う。1点ごと、1セットぐらいでコロコロと代えないでくれ、と。
対戦するチームが、外国人選手を交代させると、池田は心の中でラッキーだと感じる。彼らは、タイの選手が打たないジャンプサーブで、試合の流れを奪いにくるからだ。サービスエースで1点、2点と連取されるのが、チームにとっては最も痛手となる――。これが池田の「バレー観」だった。それが、チームの監督らとはずれていた。
タイに来る前から、ある程度のストレスを覚悟していた。だが、「想像以上だった」。
このままではいけない、でも活路がない。6畳一間の宿舎で共同生活をする2人は、ちょっとした行き違いで、すぐに口論するようになり、次第に口をきかなくなっていった。
2月はじめのことだ。柳川はチームのミーティングを無断で欠席した。自らのふがいなさに思い悩み、池田ともぶつかり合って、「今日は行かない」と言い残して1人でカフェへ。そこで邦画をみたり、日本の友人に電話したり。現実逃避した。
ミーティングに1人で向かった池田は「大知は、なぜいないの?」とチームメートに聞かれ、「I don’t know」と答えるしかなかった。
池田も苦しんでいた。
かつて大分で、チームメートに1人の外国人選手がいた。やる気がなく、練習もあまりまじめではない。その影響で、池田もモチベーションを落としたことがある。当時は、その外国人選手の気持ちや振る舞いが、理解できなかった。
だが、自分がタイで「外国人」の立場になって、はじめて孤独を味わった。チームの起用法や戦術と相いれず、でも解決もできず、やる気を維持するのがとても難しかった。
池田は、ミーティングを欠席した柳川の姿を、かつて大分でみた外国人選手と重ねていた。練習後の片付けも現地スタッフに任せっぱなし。お礼の言葉もない。日本人選手であることを盾に、わがままにふるまっているのが嫌だった。
その夜、柳川を宿舎のロビーに呼び出した。
「まだバレーを続けるなら、この状態はよくない」「何のために俺たちはタイにいるの」
2人は朝の4時まで、心の内をぶつけ合った。
現役続行と引退 これからのバレー人生
池田がほぼフル出場した2月29日の試合で、柳川は1度もコートに立つことがなかった。
チームは2セットを取りながら、4セット目を取られ、そのままの流れで最終セットを落として負けた。最終節への出場に、黄色信号がともった。
池田を起用したコーチのエマ(34)は試合後、取材に「龍之介は今日とても良かった。大知も状態がよければ、もっと使いたい。ただ2人とも、もっとコミュニケーションを取らないといけない」。
シーズン終盤になっても、その溝は変わらず残っていた。
2人が昨年末の開幕前に見せた期待に満ちた顔は、消えていた。
池田は「もはや、ここにいる意味は無い。将来、教え子が海外で同じ悩みを抱えるかもしれないから、そのためにも居続けるだけ」と語った。
柳川は以前、タイ2年目でより良い成績を残し、ステップアップにつなげたいと語っていた。ただ、1年目よりも結果を残せず、「別の選択肢も考えるようになった」とぽつり。現役を引退して、指導者の道を探ることも考え始めた、と打ち明けた。
アジアGSは結局、第2節を終える前に、最終節への望みが無くなった。
試合後のチーム全員がそろう控室で、あいさつをする機会があった。事実上、今季チームの解散式だ。
柳川は、知人に通訳をしてもらい、ずっと抱えていた不満も伝えた。「タイはメンバーチェンジが多すぎる。練習内容も、もう少し工夫した方がよいと思う」
これに監督は、「2人はシーズン中から、もう少し、日本のバレーを伝えてほしかった」と返した。
2人は監督の言葉を聞いて、もっと貢献できたのではないか、と悔やんだ。
チームは結局、第2節では1勝もできず、2人のタイでの挑戦は終わった。
新型コロナの感染拡大で、リーグ戦は3月7日から無観客試合になった。
さらにタイ政府が、4月3日から無期限で夜間外出を禁止に。タイバレー協会はこの日、リーグ最終節を7月21日~31日に再開すると発表した。
柳川はその後もバンコクに滞在。一度は引退も頭をよぎったが、現役選手としてプレーを続けると心に決めた。来シーズン、日本か海外か、どこでプレーするのか、まだ決めていない。新型コロナの影響で、世界中で試合ができない状況でもある。
「今季はワンシーズンを乗り越えられる準備が不足していた。何とかなると思って、オフシーズンの過ごし方から、しっかりできていなかった。毎シーズン、本当に学びです」
柳川は、タイで自らつかみ取った経験を、次のコートで生かすつもりだ。
池田は3月24日、故郷・鹿児島市に戻った。タイでのプレーを最後に現役を引退した。
兄が暮らす隣の姶良(あいら)市で、小中学生を対象にしたバレー教室を開く準備を始めた。週に3回、地域の体育館を借り、初心者と経験者にクラスをわけて教えるつもりだ。
スタートの活動資金50万円を、クラウドファンディングで5月から集める。呼びかけの言葉は「バレーボール人口増加のために教室を開きたい」。少子化に加え、サッカーやバスケ人気に押されるバレー。子供たちの競技人口も練習できる環境も、減っているという。
子供の頃から続けてきたバレーで、その魅力が何か、改まって説明はできない。ただ、指導環境を、自らの手で変えていきたいという思いがある。
タイで、忘れられない光景がある。ウオーミングアップひとつでも、笑顔いっぱいに取り組むチームメートたちの姿だ。
「タイのバレーは『常に楽しくプレーしよう』でした。行って良かった。海外に出たことで、行動にも自信が出てきました。バレー教室を開こうと動きだしたのも、あの経験があるからです」。池田は取材に語った。
柳川大知と池田龍之介。2人のバレー人生は、これからも続く。(敬称略)