「強力な外国助っ人」 期待かけるチーム
2019年12月19日夜、バンコク近郊の漁港町サムットサーコーン。フィットネスクラブの向かいの屋外に設けられた宴会場で、タイ男子バレーボールの地元チーム「アジアGSサムットサーコーン」のリーグ戦開幕に向けた激励会が開かれた。
地元のサポーターらが、円卓を囲んで見守った。壇上に、タイの若い選手たちとともに、2人の日本人選手が並んだ。柳川大知と池田龍之介。ともに1990年5月生まれの29歳だ。日本バレーV2リーグの「つくばユナイテッドSun GAIA」(茨城県つくば市)で、かつてチームメートだった。
2人は、アジアGSのコーチから「強力な外国助っ人」として紹介され、拍手を受けた。柳川は、前身のチームでプレー経験があるタイ2年目。池田は今シーズンから新たに加わった。
マイクを渡された柳川は、こう語った。
「今季もここに来ることができて、うれしいです。昨年、タイのリーグでプレーしました。戦略などを知っているので、今年はより良いプレーができると思います。ベストを尽くしますので、声援をよろしくお願いします」
現在、男女各8チームからなるタイのプロリーグは、十数年前に発足した。そして、4~5年前に「外国助っ人」枠を設けて、レベルアップを図っている。柳川と池田は、タイよりもレベルが高く、選手層も厚い日本での実績を見込まれ、期待をかけられていた。
「日本人選手が入ってくれてうれしい。これでチームが勝ち上がって、うちの広告がたくさん映れば、もっとうれしいね」。この会に呼ばれ、2人とも記念撮影をしたビサイ・ウトゥムさん(53)は、笑顔を見せた。従業員20人の食品会社オーナー。今季、アジアGSのスポンサー企業の1社に加わり、会社ロゴがチームユニフォームに入った。ムエタイのチームスポンサーもしているが、「最近はバレーも熱いから」と語った。
タイで、スポーツ中継といえば、サッカーかムエタイの2強だった。それが、今はバレーもテレビやネットでの視聴率を順調に伸ばしており、「国民的人気に成長している」と関係者は口をそろえる。人気の高まりにともなって、ウトゥムさんのように、バレーリーグのスポンサーに名乗り出る企業経営者も増えているのだ。
激励会は、2時間ほどで終わった。
タイの選手たちは、前身のチームから総入れ替えされていた。20歳前後の大学生が中心で、日本人選手とも初対面。柳川が以前、互いに簡単な英語でコミュニケーションを取っていたチームメートもいなくなった。柳川と池田はタイ語ができないため、この夜、タイの選手たちと会話を交わすことはなかった。2人は翌日からのスケジュールさえわからないまま、チームが用意した車に乗り込んだ。
宿舎のアパートは6畳ほどの相部屋だった。シングルベッドを二つ並べた。
「これでも全然マシです。前のシーズンは、一軒家に選手18人ぐらいで住んで、1人1畳半ぐらいでした。シャワーも壊れていて、水しか出なかったし」。柳川は、そう笑った。
再びチームメートとなった池田は、「柳川とだから、相部屋でもいけます。次に再会したときに、もっと仲良くなっていたら、すみません」と、ちゃめっ気たっぷりに話した。
中学で始めたバレー 人生転機のVリーグ
タイ行きのきっかけを作った柳川は、名古屋市出身。市立中学校の部活動でバレーを始めた。本当はバスケ部に行きたかったがクラブがなく、友人に連れられてバレー部に入った。強豪校で、柳川自身は試合には出たり出なかったりと、レギュラーに定着することはなかった。チームは名古屋市で優勝したり、愛知県でも上位に入ったりと好成績を残した。
名東高校にスポーツ推薦で入り、1年目からスタメンとなった。「自分はいける、と過大評価していた」と当時を振り返る。
大学受験では、デザイナーになりたいと、美大を目指した。愛知教育大の造形文化コースに進学すると、高校時代の先輩がいたバレー部の門を再び叩いた。ただ、バレーをどこまで本気でやるのか、迷っていた。
人生の転機は学生時代、Vリーグとの出合いだった。地元チームの試合で、ラインズマンやモップがけなどの裏方の仕事を手伝った。国内トップ選手と同じバレーコートに立ち、そこからみた光景に気持ちが高ぶった。「お客さんの前でプレーするのは格好良いな」
Vリーグに入りたい、一流の選手になりたい――。より真剣に打ち込むようになった。
地道な努力が実り、大学4年の秋には東海リーグ2部で、スパイク賞とサーブ賞、最優秀選手賞を受けた。そして、大学のチームはリーグ優勝して、1部に昇格。柳川は、最高の形で学生バレーを引退した。
大学5年目の夏に「つくばユナイテッドSun GAIA」のトライアウトを受けて、念願だった世界に入った。ただ、遅咲きの柳川にとって、体力・技術のすべて、レベルが何段階も上だった。
当初は出場機会を得られず、リリースサーバーとして、たまに出る程度だった。
大学の卒業後は、スポーツチェーン店「ゼビオ」のアスリート社員として働きながら、つくばユナイテッドでバレーを続けた。平日の午前8時半から午後4時半は店頭で、来店した子供と保護者が靴を選ぶのを手伝う店員としての顔。そして、夜は練習で、レギュラー入りを目指すバレー選手としての顔があった。
つくばユナイテッドでは、4年目から徐々に頭角を現した。5年目は、ほぼスタメンに定着。スパイク決定率も、サーブポイントもリーグで上位に入った。
活躍が自身のピークを迎えると、少し燃え尽きた。「同じリーグで、同じチームと対戦するのに、慣れてしまった。結果もある程度は残せたので、新しい環境に挑戦したい」。大学の頃から漠然と思い描いていた海外に視線が向いた。
旅行で練習に飛び込み参加 その場で契約
世界のバレーの主戦場は欧州リーグで、各国からトップ選手たちが集まる。日本男子代表の主力選手も、欧州へと次々に移籍している。
柳川は、英語の履歴書を作った。自身のプレー場面を短時間にまとめたビデオのリンクも付けて、欧州リーグにいくつも申し込んだ。ただ、なしのつぶてだった。
ネックの一つが身長だった。188センチの柳川のポジションは、中学から「ミドルブロッカー」。クイックスパイクとブロックの中心的役割を担う位置で、「センタープレーヤー」とも呼ばれる。このポジション、世界では2メートル超が必須条件だという。柳川の申し出に対して、「2メートルがほしい」と、露骨に断られることもあった。
日本のVリーグ2部で活躍したものの、身長の穴を埋めるほどの実績とも言えなかった。
そうして、つくばで5年目のシーズンを終えた。
まだ進路を決めていないなか、3泊4日のタイ旅行に出かけた。
知り合いから「せっかく行くなら、現地のチームにコンタクトを取ってみたら?」と助言を受けた。タイのチームのフェイスブックを探し、「良かったら練習させてもらえませんか」と、ダメ元で手当たり次第に申し込んだ。
すると、サムットサーコーンのチームから、練習への参加を認める返事が来た。練習着とシューズだけを持って出向くと、無名の日本人選手は、思いのほか歓迎された。
初めて見たタイのバレーの練習は、遊びの延長に見えた。皆が笑顔を絶やさず、楽しそうにやっている。
見よう見まねで練習を終えた柳川に、チーム側は率直に聞いた。
「給料は、いくらほしい? お金がないから、契約できないかもしれない」
柳川は、その場で次期シーズンの契約を決めた。
条件は、月に1000ドル(約10万円)。住居と光熱費、交通費の補助も受けるという内容だ。欲を言えば、3000ドル(約32万円)は、ほしかった。ただ、「生きていけて、バレーできれば良い。海外でのプレー経験は、またとないチャンスだ」と即決した。
2018年10月から、タイに拠点を移した。身一つで乗り込んできた無名の日本男児をチームが受け入れた経緯について、当時の仲間は「パッション(情熱)が響いた」と振り返った。
そうして迎えたタイでの1年目(2018年―19年)。柳川は出場機会を数多く得た。ただ、チームの最終成績は8チーム中で6位と振るわず、個人成績も本人が期待したほどは伸びなかった。
合言葉は「マイペンライ」 タイの歓迎
バレー選手たちは、1年ごとに、とくに前年の実績をウリにして、次に活躍できる場を探す。柳川のタイ1年目の実績では、目指す欧州リーグへの道は、なお厳しかった。日本に戻る考えもあったが、タイの同じチームで、もう1年プレーすることを決めた。条件も200ドルアップした。かつて「つくば」でチームメートだった池田龍之介に、「タイで一緒にプレーしないか」と誘った。
タイのリーグは今季、20年1月18日に開幕。チームの集合は1カ月前の19年12月下旬だった。その直前まで、柳川と池田は、モンゴルでのリーグにも50日間の短期で挑んだ。池田は一度引退した身。現役時代から5~6キロ太って、ブランクもあり、タイに向けた調整も兼ねていた。
そして、モンゴルからバンコクへ。バンコク郊外での激励会から一夜明けた19年12月20日、柳川にとって2年目、池田にとっては初めてのタイでの挑戦が始まった。練習はバンコクの中心部から数十キロ離れたチームの拠点、東南アジア大学であった。
屋根付きの屋外コートに、不ぞろいの練習着を着た選手たちが集まった。二十歳前後の大学生が中心だ。そのなかに、キャリアが上の柳川と池田も交じった。
チューブを使って体幹を鍛えるトレーニングをやったかと思うと、コーチの合図に合わせて2人ペアでバレーボールを奪い合った。負けた方は、罰ゲームとして、受け身を取るように地面に転がる。そんな遊びのような練習もあった。
練習中、タイの選手たちは、キャッキャ、キャッキャと歓声を上げて、笑顔を絶やさない。柳川と池田は、タイの選手たちとは言葉を交わせなかったが、つられて笑いながら練習を続けた。
コートそばでは、裏方のスタッフたちが夕食を手作りしていた。練習後、すぐに栄養をつけてもらおうというはからいだ。調理台から湯気が上がり、香ばしい匂いが漂っていた。
アットホームな雰囲気は、柳川には見慣れた光景だ。
昨シーズン、試合でミスしても仲間が「マイ、マイ」と声をかけてきた。「マイペンライ」。「大丈夫、ドンマイ」という意味のタイ語だった。柳川も自ら「マイ、マイ」と言い聞かせ、チームメートにも、そう声をかけるようになった。
この夜、最後に実戦形式の練習があった。柳川も池田もサーブやスパイクが、ぜんぜん決まらない。池田は、ボールが落ちる軌道がいつもと違うように感じた。チームメートとの連携も、うまくいかない。
タイの若い選手たちは、ミスしても伸び伸びとプレーを続けたが、2人は真剣なまざしで、スパイクを打ち続けた。
初日の練習を終えた後、手応えを聞いてきたコーチに、池田は「出来は3%ぐらい」と答えた。
コーチのエマ(34)は取材に、「2人とも才能があり、今季のチームを勝利に導いてくれるだろう」と期待を崩さなかった。
柳川は「マイペンライですね」と気持ちを切り替えた。改めて目標をたずねると、柳川は「ここで今シーズンこそ結果を残して、次のステージにステップアップしたい」と、真剣なまなざしで夢を語った。
池田も「体幹トレーニングも楽しかったし、効果的な練習だった。これからです」。タイでプレーする狙いについては、「自分は将来、バレーの指導者になりたい。子供たちを教えるときに、自分の海外経験は、きっと役に立つのではないかと思う。色々と勉強したい」と話した。
宿舎に戻る2人の足取りは軽かった。
2カ月後、記者が2人と再会した時に感じた異変は、このとき、みじんもなかった。(敬称略)