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バレーボール熱が高まるタイ 新天地求めVリーグ選手が挑んだ

アジアで働く 更新日: 公開日:
タイのバレーリーグで試合前に練習する柳川大知(背番号1)と池田龍之介(同23)=2020年2月29日、バンコク、野上英文撮影

日本男子バレーボールはワールドカップで昨年、28年ぶりに4位に躍進した。代表の主力が世界トップの欧州リーグに移籍するなか、日本のVリーグでかつて活躍した2人が、バレー人生を賭け、東南アジア・タイのコートに向かった。バレー人気が、サッカーやムエタイに迫る国で、男たちを待っていたのは……。

「強力な外国助っ人」 期待かけるチーム

2019年12月19日夜、バンコク近郊の漁港町サムットサーコーン。フィットネスクラブの向かいの屋外に設けられた宴会場で、タイ男子バレーボールの地元チーム「アジアGSサムットサーコーン」のリーグ戦開幕に向けた激励会が開かれた。

地元のサポーターらが、円卓を囲んで見守った。壇上に、タイの若い選手たちとともに、2人の日本人選手が並んだ。柳川大知と池田龍之介。ともに1990年5月生まれの29歳だ。日本バレーV2リーグの「つくばユナイテッドSun GAIA」(茨城県つくば市)で、かつてチームメートだった。

記念撮影のため整列した「アジアGSサムットサーコーン」の柳川大知(後列右から2人目)と池田龍之介(同3人目)ら選手たち=2019年12月、サムットサーコーン、野上英文撮影

2人は、アジアGSのコーチから「強力な外国助っ人」として紹介され、拍手を受けた。柳川は、前身のチームでプレー経験があるタイ2年目。池田は今シーズンから新たに加わった。

マイクを渡された柳川は、こう語った。

「今季もここに来ることができて、うれしいです。昨年、タイのリーグでプレーしました。戦略などを知っているので、今年はより良いプレーができると思います。ベストを尽くしますので、声援をよろしくお願いします」

激励会でマイクを手にあいさつをする柳川大知(左から3人目)と池田龍之介(同2人目)ら=2019年12月、サムットサーコーン、野上英文撮影

現在、男女各8チームからなるタイのプロリーグは、十数年前に発足した。そして、4~5年前に「外国助っ人」枠を設けて、レベルアップを図っている。柳川と池田は、タイよりもレベルが高く、選手層も厚い日本での実績を見込まれ、期待をかけられていた。

「日本人選手が入ってくれてうれしい。これでチームが勝ち上がって、うちの広告がたくさん映れば、もっとうれしいね」。この会に呼ばれ、2人とも記念撮影をしたビサイ・ウトゥムさん(53)は、笑顔を見せた。従業員20人の食品会社オーナー。今季、アジアGSのスポンサー企業の1社に加わり、会社ロゴがチームユニフォームに入った。ムエタイのチームスポンサーもしているが、「最近はバレーも熱いから」と語った。

激励会で記念撮影をするスポンサー会社のオーナー、ビサイ・ウトゥムさん(前列左から2人目)と柳川大知(後列右)、池田龍之介(後列左)ら=2019年12月、サムットサーコーン、野上英文撮影

タイで、スポーツ中継といえば、サッカーかムエタイの2強だった。それが、今はバレーもテレビやネットでの視聴率を順調に伸ばしており、「国民的人気に成長している」と関係者は口をそろえる。人気の高まりにともなって、ウトゥムさんのように、バレーリーグのスポンサーに名乗り出る企業経営者も増えているのだ。

激励会は、2時間ほどで終わった。

タイの選手たちは、前身のチームから総入れ替えされていた。20歳前後の大学生が中心で、日本人選手とも初対面。柳川が以前、互いに簡単な英語でコミュニケーションを取っていたチームメートもいなくなった。柳川と池田はタイ語ができないため、この夜、タイの選手たちと会話を交わすことはなかった。2人は翌日からのスケジュールさえわからないまま、チームが用意した車に乗り込んだ。

宿舎のアパートは6畳ほどの相部屋だった。シングルベッドを二つ並べた。

宿舎の相部屋で、並べたシングルベッドに腰掛ける柳川大知(左)と池田龍之介(右)=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

「これでも全然マシです。前のシーズンは、一軒家に選手18人ぐらいで住んで、1人1畳半ぐらいでした。シャワーも壊れていて、水しか出なかったし」。柳川は、そう笑った。

再びチームメートとなった池田は、「柳川とだから、相部屋でもいけます。次に再会したときに、もっと仲良くなっていたら、すみません」と、ちゃめっ気たっぷりに話した。

中学で始めたバレー 人生転機のVリーグ

タイ行きのきっかけを作った柳川は、名古屋市出身。市立中学校の部活動でバレーを始めた。本当はバスケ部に行きたかったがクラブがなく、友人に連れられてバレー部に入った。強豪校で、柳川自身は試合には出たり出なかったりと、レギュラーに定着することはなかった。チームは名古屋市で優勝したり、愛知県でも上位に入ったりと好成績を残した。

中学時代の柳川大知(後列左、背番号8)=本人提供

名東高校にスポーツ推薦で入り、1年目からスタメンとなった。「自分はいける、と過大評価していた」と当時を振り返る。

大学受験では、デザイナーになりたいと、美大を目指した。愛知教育大の造形文化コースに進学すると、高校時代の先輩がいたバレー部の門を再び叩いた。ただ、バレーをどこまで本気でやるのか、迷っていた。

人生の転機は学生時代、Vリーグとの出合いだった。地元チームの試合で、ラインズマンやモップがけなどの裏方の仕事を手伝った。国内トップ選手と同じバレーコートに立ち、そこからみた光景に気持ちが高ぶった。「お客さんの前でプレーするのは格好良いな」

Vリーグに入りたい、一流の選手になりたい――。より真剣に打ち込むようになった。

地道な努力が実り、大学4年の秋には東海リーグ2部で、スパイク賞とサーブ賞、最優秀選手賞を受けた。そして、大学のチームはリーグ優勝して、1部に昇格。柳川は、最高の形で学生バレーを引退した。

練習で使われたバレーボール=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

大学5年目の夏に「つくばユナイテッドSun GAIA」のトライアウトを受けて、念願だった世界に入った。ただ、遅咲きの柳川にとって、体力・技術のすべて、レベルが何段階も上だった。

当初は出場機会を得られず、リリースサーバーとして、たまに出る程度だった。

大学の卒業後は、スポーツチェーン店「ゼビオ」のアスリート社員として働きながら、つくばユナイテッドでバレーを続けた。平日の午前8時半から午後4時半は店頭で、来店した子供と保護者が靴を選ぶのを手伝う店員としての顔。そして、夜は練習で、レギュラー入りを目指すバレー選手としての顔があった。

つくばユナイテッドSun GAIA時代の柳川大知=本人提供

つくばユナイテッドでは、4年目から徐々に頭角を現した。5年目は、ほぼスタメンに定着。スパイク決定率も、サーブポイントもリーグで上位に入った。

活躍が自身のピークを迎えると、少し燃え尽きた。「同じリーグで、同じチームと対戦するのに、慣れてしまった。結果もある程度は残せたので、新しい環境に挑戦したい」。大学の頃から漠然と思い描いていた海外に視線が向いた。

柳川大知(中央)=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

旅行で練習に飛び込み参加 その場で契約

世界のバレーの主戦場は欧州リーグで、各国からトップ選手たちが集まる。日本男子代表の主力選手も、欧州へと次々に移籍している。

柳川は、英語の履歴書を作った。自身のプレー場面を短時間にまとめたビデオのリンクも付けて、欧州リーグにいくつも申し込んだ。ただ、なしのつぶてだった。

ネックの一つが身長だった。188センチの柳川のポジションは、中学から「ミドルブロッカー」。クイックスパイクとブロックの中心的役割を担う位置で、「センタープレーヤー」とも呼ばれる。このポジション、世界では2メートル超が必須条件だという。柳川の申し出に対して、「2メートルがほしい」と、露骨に断られることもあった。

日本のVリーグ2部で活躍したものの、身長の穴を埋めるほどの実績とも言えなかった。

そうして、つくばで5年目のシーズンを終えた。

まだ進路を決めていないなか、3泊4日のタイ旅行に出かけた。

タイの巨大ねはん仏「ワット・ロカヤ・スターラーム」=2019年12月、アユタヤ、野上英文撮影

知り合いから「せっかく行くなら、現地のチームにコンタクトを取ってみたら?」と助言を受けた。タイのチームのフェイスブックを探し、「良かったら練習させてもらえませんか」と、ダメ元で手当たり次第に申し込んだ。

すると、サムットサーコーンのチームから、練習への参加を認める返事が来た。練習着とシューズだけを持って出向くと、無名の日本人選手は、思いのほか歓迎された。

初めて見たタイのバレーの練習は、遊びの延長に見えた。皆が笑顔を絶やさず、楽しそうにやっている。

見よう見まねで練習を終えた柳川に、チーム側は率直に聞いた。

「給料は、いくらほしい? お金がないから、契約できないかもしれない」

柳川は、その場で次期シーズンの契約を決めた。

条件は、月に1000ドル(約10万円)。住居と光熱費、交通費の補助も受けるという内容だ。欲を言えば、3000ドル(約32万円)は、ほしかった。ただ、「生きていけて、バレーできれば良い。海外でのプレー経験は、またとないチャンスだ」と即決した。

電車が売り場のすぐそばを通るタイの観光名所「メークロン市場」=2019年12月、サムットソンクラーム、野上英文撮影

2018年10月から、タイに拠点を移した。身一つで乗り込んできた無名の日本男児をチームが受け入れた経緯について、当時の仲間は「パッション(情熱)が響いた」と振り返った。

そうして迎えたタイでの1年目(2018年―19年)。柳川は出場機会を数多く得た。ただ、チームの最終成績は8チーム中で6位と振るわず、個人成績も本人が期待したほどは伸びなかった。

タイのリーグに参加して1年目、試合に出場した柳川大知=本人提供

合言葉は「マイペンライ」 タイの歓迎

バレー選手たちは、1年ごとに、とくに前年の実績をウリにして、次に活躍できる場を探す。柳川のタイ1年目の実績では、目指す欧州リーグへの道は、なお厳しかった。日本に戻る考えもあったが、タイの同じチームで、もう1年プレーすることを決めた。条件も200ドルアップした。かつて「つくば」でチームメートだった池田龍之介に、「タイで一緒にプレーしないか」と誘った。

タイのリーグは今季、20年1月18日に開幕。チームの集合は1カ月前の19年12月下旬だった。その直前まで、柳川と池田は、モンゴルでのリーグにも50日間の短期で挑んだ。池田は一度引退した身。現役時代から5~6キロ太って、ブランクもあり、タイに向けた調整も兼ねていた。

そして、モンゴルからバンコクへ。バンコク郊外での激励会から一夜明けた191220日、柳川にとって2年目、池田にとっては初めてのタイでの挑戦が始まった。練習はバンコクの中心部から数十キロ離れたチームの拠点、東南アジア大学であった。

タイリーグで2年目の練習に参加した柳川大知(手前)=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

屋根付きの屋外コートに、不ぞろいの練習着を着た選手たちが集まった。二十歳前後の大学生が中心だ。そのなかに、キャリアが上の柳川と池田も交じった。

チューブを使って体幹を鍛えるトレーニングをやったかと思うと、コーチの合図に合わせて2人ペアでバレーボールを奪い合った。負けた方は、罰ゲームとして、受け身を取るように地面に転がる。そんな遊びのような練習もあった。

練習初日に笑顔を見せる柳川大知(前列右)と池田龍之介(後列右)ら=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

練習中、タイの選手たちは、キャッキャ、キャッキャと歓声を上げて、笑顔を絶やさない。柳川と池田は、タイの選手たちとは言葉を交わせなかったが、つられて笑いながら練習を続けた。

反射神経を競ってボールを取り合う練習に臨む柳川大知(手前左)=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

コートそばでは、裏方のスタッフたちが夕食を手作りしていた。練習後、すぐに栄養をつけてもらおうというはからいだ。調理台から湯気が上がり、香ばしい匂いが漂っていた。

アットホームな雰囲気は、柳川には見慣れた光景だ。

昨シーズン、試合でミスしても仲間が「マイ、マイ」と声をかけてきた。「マイペンライ」。「大丈夫、ドンマイ」という意味のタイ語だった。柳川も自ら「マイ、マイ」と言い聞かせ、チームメートにも、そう声をかけるようになった。

選手の夕食を準備するスタッフら=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

この夜、最後に実戦形式の練習があった。柳川も池田もサーブやスパイクが、ぜんぜん決まらない。池田は、ボールが落ちる軌道がいつもと違うように感じた。チームメートとの連携も、うまくいかない。

タイの若い選手たちは、ミスしても伸び伸びとプレーを続けたが、2人は真剣なまざしで、スパイクを打ち続けた。

練習でスパイクを打つ柳川大知=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

初日の練習を終えた後、手応えを聞いてきたコーチに、池田は「出来は3%ぐらい」と答えた。

コーチのエマ(34)は取材に、「2人とも才能があり、今季のチームを勝利に導いてくれるだろう」と期待を崩さなかった。

練習後にコーチと話す池田龍之介(左)と柳川大知(中央)=2019年12月、バンコク、野上英文撮影

柳川は「マイペンライですね」と気持ちを切り替えた。改めて目標をたずねると、柳川は「ここで今シーズンこそ結果を残して、次のステージにステップアップしたい」と、真剣なまなざしで夢を語った。

 池田も「体幹トレーニングも楽しかったし、効果的な練習だった。これからです」。タイでプレーする狙いについては、「自分は将来、バレーの指導者になりたい。子供たちを教えるときに、自分の海外経験は、きっと役に立つのではないかと思う。色々と勉強したい」と話した。

 宿舎に戻る2人の足取りは軽かった。

2カ月後、記者が2人と再会した時に感じた異変は、このとき、みじんもなかった。(敬称略)

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